第8話

「あなた、何を急に……すみません、岡崎様。この子……」


「いや、構わないですよ。華月さん、なにかこの結婚に不満があるのかな?」


 驚いた顔はしたものの、岡崎は静かに華月に声をかけた。


「申し訳ありません。私……私には……想う方がおります」


 華月は、頭をさげたまま震える声で言った。


「このまま黙って岡崎様に嫁ぐことも考えました。そうすれば、父の銀行も安泰ですし、今日のお話を聞いて、私が一度はあきらめた望みの進路を選ぶことができることもわかりました。けれど……どうしても、あの方の姿を私の中で消すことができないのです」


「華月、何をバカなことを! こんなに良い条件の縁談なんて、二度とこないぞ」


 華月の父親が頭取を務めるすばる銀行は、昨今の不況のあおりで、わずかとは言えない規模で業績が落ち込んでいた。そこへ、つきあいのある税理士の小暮が、岡崎病院の跡取り息子との縁談を持ち掛けてきたのが去年の暮れのこと。地域でも三本の指に入る大病院とつながりができれば、すばる銀行は安泰と言ってもいい。


 岡崎病院としても、地方銀行とはいえ全国に力を持つすばる銀行との縁組は願ってもない良縁だ。どちらも、縁を持つことはそれぞれの利益につながる。本人たちの知らぬ間に、とんとん拍子に話は進んで、今日の顔合わせとなったのだ。


「まあ、一之瀬様。そう頭から否定せずに、華月さんの話を聞きましょう」


 動揺する一之瀬とは反対に、岡崎は穏やかな視線を伏したままの華月に向ける。


「華月さん、私たちは、君の気持ちをむりやり抑え込んだまま、うちのバカ息子に嫁げなどとは決して言わないよ。だから、安心して話してほしい。この話、君はもしかしたら嫌だったのかい?」


「いえ。お話を聞いた時には、良い縁談だと両親と共に喜びました。そのうえ、まだ医師としての将来など全く見えない私をこの場で望んでくださると知って、お礼の言葉もございません」


「では、なぜ急に? その相手とは、もう将来の約束でもしたのかい? 学校の同級生かな」


「あなた、華月さんは女子高です」


 こっそりと横から岡崎夫人がツッコミをいれた。


「いえ……」


 華月の脳裏に、穏やかな笑顔が浮かぶ。


「お名前も知りません。どこのどなたかも存じ上げません。ただ、わたくしに、夢をあきらめるな、と言ってくださいました」


「は……? たった、それだけ……か? そんなふざけた話があるか!」


 苛立った一之瀬が、岡崎の前ということも忘れたのか、声を荒げる。けれど、華月は、頭を下げたまま顔をあげない。


「二度と会うこともかなわない方です。いずれは、醒めていく気持ちでしょう。ですが、今この気持ちを持っている限り、誰かをその方以上に思うことは難しいのです。こんな気持ちで岡崎様に嫁いでも、私は、岡崎様のご子息を心から大切に思うことができるとは思いません」


 きっぱりと言い切った華月に、一之瀬は今度はなだめるような柔らかい声をかける。


「華月、お前は若いんだから、そんな男すぐ忘れる。この縁談は、お前の気持ち一つでどうこうなるものではないのだ。だから、おとなしく私たちの言うことを聞きなさい」


「そうよ、華月。お父様のことも考えて」


「お父様、お母様」


 顔をあげた華月は、二人の顔を交互に見つめる。


 もちろん、華月とて二人のことは大切に思っているし、なにもわざわざ失望させるためにこの席へ来たわけではない。


 席に着くまで、いや着いてからも、華月は迷っていた。岡崎に、医大へ進んでほしいと聞いて、さらに心は揺れた。


 華月が岡崎に嫁げば、それだけでうまく収まる話だ。


 けれど……


「医大進学をあきらめた時から、私はずっと後悔していました」


 は、と二人は華月の言葉に息をのむ。


「お父様とお母様が、私の幸せを何より考えてくださっているのはよく知っております。この結婚のお話をいただいた時も、とても喜んでくださいましたね。あの時の私は、それだけで幸せでした。このお話を喜んで受けると言った時の私の言葉に嘘はありません。でも」


 二人を傷つける言葉とわかっていても、華月はそれを止めなかった。


「私は、恋をしてしまいました。生まれて初めての恋を、あの方に、教えていただいたのです」


「華月……」


「そしてもう一つ。後悔するということは、どういうことなのかということも」


 ひたと、二人を見つめて華月は続ける。


「夢をあきらめなくていい、と言ってくれたのは、あの方だけだったのです。医師になりたいと告げた方たちの中で、たった一人だけ……あの方は、笑って認めてくださったのです。それが、どれほど嬉しかったか。言われるまで、私自身も気づきませんでした。医師になる夢をあきらめるということは、私が思っていた以上に辛かったのだと、その時にようやくわかったのです。縁談の話をいただいた時、私が嫁げば、お父様も私も幸せになれると思っていました。でも、あの方を想ったまま結婚してしまえば、きっと同じように後悔をすることになります。私は……この結婚で、幸せになることができないのです」


 半ば呆然と、一之瀬夫妻は華月の言葉を聞いていた。


 娘のためによかれと思ってやってきたこと、それがいま、華月を苦しめていると、ようやく悟ったのだ。


 医師になりたいなどと、しょせん若い娘の淡い妄想にすぎないと思っていた。子供にはまだ現実というものがわかっていないと思いながら、微笑ましく華月の夢を聞いていた。


 その夢を認めてくれたというだけで恋に落ちるほど、華月が悩んでいたとは思ってもいなかった。一之瀬夫妻とて、娘がかわいくないわけがない。華月の結婚で自分の銀行が安泰になるとともに、華月本人も幸せになるのだと信じて疑っていなかった。


 その華月に幸せになれないとはっきりと言われて、それでも、とごり押しをするほどには、二人は情のない人間ではない。


「お前は……その男を、それほどに想っているのか……?」


「はい」 


 華月の目に涙が浮かんだが、それがこぼれることはなかった。


「心に思い浮かべれば、会いたくて……恋しくて、胸が痛みます。できることなら、もう一度会って声を聞きたい……恋とは、そういうものなのでしょう? たとえその望みが二度と叶うことのないものだとしても」


「華月……」


「お願いです」


 華月は、畳に着くほどに深々と頭を下げた。


「このままでは、夫となる方まで不幸にしてしまいます。私さえいなければ、今度こそ岡崎様も幸せな良縁にめぐりあえましょう。私のわがままで皆様にご迷惑をおかけすること、十二分に承知しておりますが……このお話、どうか、なかったことにしてください」


「それは、困るな」 


 突然、それまでとは別の声がその場に響いた。


 顔をあげようとした華月は、は、と身体を固くする。


「遅いぞ、バカ息子。くれぐれも遅れるなと、昨日あれほど言っておいただろうが」


「すみませんね。ちょっと朝まで盛り上がっちゃって」


 まさか……


 華月は、驚愕に目をみはりながら、動くことができない。


 期待をして、もし違ったら。


 その時の自分の落胆は計り知れない。


 それでも、胸を焦がす期待が恐れを上回って、華月はゆっくりと顔をあげた。


 おろおろとしている小倉(どうやら話を聞いていたらしい)に連れられて、グレーのスーツに身を固めた長身の青年がゆったりと部屋へ入ってくる。その様子を、華月は、唖然としながら見ていた。


 青年は、入ってすぐにその場に座すと、姿勢を正して華月たちの方へ向かって頭をさげた。


「申し訳ありません、一之瀬様。昨日は私の友人の結婚式がありまして、いささかはめをはずしすぎてしまいました。この身の不徳でこのような大切な席に遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます」


 しっかりとした声で告げられた言葉に、は、と一之瀬夫妻は我に返る。


「いえ、それでもこうしてお会いできたのです。どうか、お気になさらずに」


「新婚を朝まで連れまわしたのか、お前は」


 呆れたように、岡崎が言った。


「まさか。それはまた別の話」


 言葉を補うように、岡崎夫人が頭を下げた。


「一之瀬様、申し訳ありません。その結婚式には私たちも出席しておりましたの。おめでたい出来事で浮かれていたのは私たちも同じようで、はからずもこのような失態を許すことになってしまいました。お恥ずかしい限りです」


「いえ、私たちは……」


 一之瀬夫人も戸惑ったように頭を下げた。申し訳ないと思うのか、岡崎はさらに言葉を続ける。


「昨日式を挙げたのは、私の友人の息子なのです。上坂、という議員なのですが、つきあいも深いので、いずれ一之瀬様にもご紹介いたしましょう」


「上坂……もしや、国会議員の」


「はい」


 その言葉に、一之瀬はごくりと唾をのむ。


 上坂といえば、与党の若手でその活躍により将来が期待されている議員だ。その議員とつきあいがあるとなれば、一之瀬にとっても岡崎との縁はより魅力のある話になる。


 どうしても、この縁談をまとめたい。だが……


「華月……」


 一之瀬が言いかけると、やにわにその青年が立ち上がって進み、華月の前に片膝をついた。穏やかに華月を見下ろすその様子を、一之瀬は息をつめて見つめる。


「君が、一之瀬華月さんだね。初めまして。岡崎圭介です」


 さわやかに微笑むその顔に、華月は動けない。


 明るい日の下で見るその笑顔は、ネオンの瞬きの中で見たものとは少し違う。それでも、その笑顔を見間違えることはなかった。


「お前がそんないい加減にしているから、こんなかわいいお嬢さんにふられるんだ。自分の行いを、まず反省しろ」


 なにやらもう地が出たらしい岡崎は、ぞんざいに息子を叱咤する。


「それはもう、心から。それより、父さん。俺としてもいきなりふられるのは不本意なので、少し彼女と二人だけで話をしたいのですが」


「ふられた腹いせに華月さんをいじめるようなことは、決してするなよ」


「わかってます。ちょっと口説くだけですよ」


 にっこりと笑うその男を、華月は黙って見つめるしかなかった。

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