第5話
俺は、震える華月をなだめるように笑ってみせる。
「ごめん。怖がらせちゃったね」
華月は黙って首を振るけれど、その身体の震えは収まらない。
「華月……」
「ち、違うん、です……」
震える声で、華月が必死に言葉を紡ごうとする。
「えと……あの、あの……あ、そうです! 助けて、いただいて……ありがとうございます!」
「え……?」
「まだ、お礼を言ってませんでした。ケイさんには、二度も」
「お……お嬢様?!」
その時、今の騒ぎで集まってきた人だかりの中から、一人の男が叫んだ。は、とその方向に視線を向けた華月は、瞬時に俺の手を掴んで身をひるがえすと、反対側に走り出す。
「逃げます!」
「逃げるって……」
「あ、お待ちください!」
「なんだ、貴様! お嬢様に何を……!」
慌てて華月のあとを追いながら聞く。
「華月、知り合い?」
「は、はい……でもまだ、私、帰り、たくは……」
走ることに一生懸命な華月には、この状況を説明するのは無理そうだった。
知り合いなのか。なら、さっきみたいに叩きのめすわけにはいかないな。
「こっち!」
追ってくる二人の男を背に、俺は華月の手をとって角を曲がった。
☆
「まいた、な」
ぜいぜいと二人で息をしながら、狭い路地裏に隠れる。
「す、すみま、せ……」
華月の方は、まだ息が整わない。俺は、華月の荒い息遣いを聞きながら通りをうかがう。
どうやら追ってきたのは二人だけらしかった。けれど、これであちこちに連絡が行くようならまずいな。
「華月の家の人?」
「はい……私、の、ボディーガード……の、方々、です……」
「いいの? 逃げてきちゃって」
「家のものが、心配、しないように、書き置き、を、してきたのですが……」
「書き置き?」
「出掛け、ます、と。帰りが遅くなっても、心配しないで、と書いておきました。口で言ったら、絶対に、許してもらえない、でしょうし、誰かと、デートするのに、彼らが一緒では、相手の方が、お気になさると思って……」
そんな書き置き一つで、心配するなってほうが無理な話だ。
ようやく息の整ってきた華月は、はー、と大きく息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。
「心配をかけるつもりは、ありませんでした。私は、ただ、幸せなデートがしたかっただけなのに……」
「そっか」
それだけ言って、俺は背中におしつけた壁をずりずりとずり下がってその場に足を投げ出した。
しっかりしているかと思えば抜けてたり……あぶなっかしいお嬢様だ。
「私の学友が」
しばらくして、ぽつり、と華月が言った。
「先ほどお話しした方ですが、婚約者の方ととても仲がよろしくて、お休みになると、お二人でどこかへデートにでかけるのだそうです。お食事に行ったり映画を見に行ったり。そんな話をしている時の彼女は、それはそれは幸せそうな顔をしていて……それを見ていて、デートっていいなあ、と、私、ずっと羨ましかった」
抱えた膝にあごを置いて、華月は独り言のように続ける。
「だから、正式に結婚が決まる前に、彼女のように幸せなデートをしてみたかったんです。夫となる方がいらっしゃるのに、他の方とデートなんてできませんもの。でも、なかなか想像通りにはいかないものですのね」
ため息をつきながら言った彼女に、俺も一つ、ため息をつく。
そういうことだったのか。
「だったらさ」
「はい」
「華月、最初から勘違いしてる」
「勘……違い、ですか?」
華月が、きょとんとした顔をあげた。
「その彼女が幸せなのは、ただ『デート』をしたからじゃない。『好きな人と一緒』だったから、どこへ行っても何をしても幸せそうだったんだ」
俺を見る華月の目が丸くみひらかれた。
「なるほどなあ。基本的な区別がついていなかったのか。だとしたら、華月は、デートをしたかったんじゃない。……恋を、したかったんだ」
「恋……」
「したこと、ある?」
バーでされた質問を、今度は俺が聞いてみる。小首を傾げて考えていた華月は、ゆっくりと首を横に振った。
「ないと思います。彼女のように、誰かのことを話すときにあれほど幸せそうなお顔になるような方は、私にはおりません。……でした。……ああ、そうなんですね。彼女は、恋をしてらっしゃったんですね」
「華月だって、婚約者に恋をしてデートするようになったら、きっとそんな顔ができるよ」
「でも、相手の方は大人の男性です。デートしたいなんて言ったら、きっと子供っぽいとお笑いになるでしょう。それに……」
華月の瞳が、迷うように揺れる。
「その人に恋をしようとがんばってみて、その結果恋をすることができたとしても、自分が恋をしてると、私、ちゃんと自覚できるでしょうか?」
……もう華月のそういう発言には、慣れた。慣れたけれど、この恥ずかしさには慣れない。
「恋は、わざわざがんばってするものじゃない。気がつかないうちに落ちているもの、なんだそうだ」
と、どこかの本だか何だかで、昔読んだような気がする。
投げやりに言った俺を、華月がまっすぐ見つめてきた。照れる、という感覚を久しぶりに味わいながら、俺は華月から目をそらした。
「一緒にいると嬉しくなるし、離れていると寂しくなる。そいつのことを考えると胸が苦しくなるのに、それでも一緒にいたいと思う。この先誰かをそんな風に思うようになったら、華月はもう、恋に落ちているんだよ」
自分で言ってて、なんだかあちこちがむずがゆくなってくる。ちくしょう、子供かよ。いや、今どき子供だってこんなこと説明しなくてもわかるぞ。だいたい、俺が華月の歳だったころには、もうそんなところすっとばしてもっと先の段階へと進んでいた。俺の周りのやつらも。
華月が今悩んでいるコトは、あの頃の俺が考えもしなかったコト。
でも、今ならなんとなくわかる。きっとそれは、何か根本的に大切なコトなんだ。わかったような顔して飄々と世間を生きてきて、自分の心の中に確かにあるのに、ずっと気づかないふりをしてきたそんな気持ち。
それを……まさかこの俺が、たかが高校生に、突きつけられるなんて。
「………………だったら私の夢、少なくとも一つは、叶ったのですね」
短い沈黙の後、小さく言った華月に視線を戻す。華月は、俺を見つめたまま薄く笑っていた。
ふうん。そんな笑い方もできるんだ。……できるように、なったのか。
俺も、華月に笑みを返す。
「デート、楽しかったか?」
「はい。とても」
きれいな顔で微笑む華月。俺は、一度空を見上げると立ち上がって、彼女にむかって手を差し出した。
偶然とはいえ、ずいぶん、懐かしい場所にたどりついたな。それとも、無意識のうちに足が覚えていたのか。
「おいで」
「どちらへ?」
俺の手を握ると、華月も立ち上がった。
「もうすぐ、夜が明ける。その前に華月に見せたい風景があるんだ」
ふ、と華月が寂しそうな表情を浮かべた。俺は、その顔を見て目を細める。俺の手を握る華月は、憂いをにじませた大人の女の顔をしていた。
少しだけ大人になった少女は、夜が明けたら親の決めた見たこともない相手と見合いをする。通りすがりの俺は、それまでのかりそめの恋人。
かりそめの、恋。
「こっち」
俺は、つないだ手をひいて歩き出した。
☆
「すごい……」
一言言って、華月は動かなくなった。
無人のビルの屋上。こっそりと非常階段を昇って、俺たちは地上の星を眺める。繁華街から少し離れたそのビルの周りには、他に高い建物もない。真っ黒い空と、眼下にひろがる煌びやかな瞬きは、息をのむほどに美しかった。
「まだこの時間でも、結構明るいな」
「きれい……です。でも、いいんですか? 勝手に入ってしまって」
「もちろん内緒。以前ここらで遊んでいたころ、偶然見つけたんだ。まだ、入れるんだなー」
かすかなざわめきとクラクションの音。さっきまでいた雑踏が嘘のように、そこは静かだった。
「月が、もうあんなところに」
少し寂しさを含んだ声音で、華月が呟いた。
星なんか一つも見えない、都会の空。真っ黒なその空の端に、小さく丸い月が、今にも地平に落ちそうにぽつんとかかっていた。
あの月が地平に隠れる頃には、夜が終わる。
しばらく黙ったままその景色を眺めていた華月は、かみしめるように言った。
「私、この景色を一生忘れません」
俺はその背中を見ながら、残酷とわかっている言葉をあえて吐く。
「忘れていいよ」
俺が言うと、華月はゆっくりと振り向いた。
戸惑いを見せるその顔に、俺は笑みを浮かべてみせる。
「今夜のことは忘れて。結婚、するんでしょ? 君の幸せは、きっとそこにある。俺は、そう信じてる」
「ケイさん……」
「太陽が昇ったら、魔法は解けて君はただの少女に戻る。だから、今夜のことは全部、忘れて」
「それは……本気で、言っているのですか?」
「ああ。最初にそう言っただろ?」
一晩の夢。
華月は、俺を見つめながら近づいて来る。泣きそうなその顔から、俺は目を離さなかった。
「忘れないと、いけませんか?」
「その感情は、一時的なものだよ。見慣れない世界を見せた俺が、少し、珍しいだけ。ここは、君には似合わない場所だ。いつまでも虚栄の夢にしがみついていたら、君が幸せになれない」
ふるふると、華月は首を振る。
「そんなこと……私、ケイさんが」
「華月」
俺は、わざとその言葉を止めた。
「心配しなくても、君はきっと、相手の男を愛せるよ。俺が、保証する。だから、余計な男のことなんか、憶えていちゃいけない」
「余計、なんかじゃ……」
「余計だよ。幸せになりたいなら、愛する男は一人だけでいい」
びく、と華月が震えた。
そうして一度目を閉じた華月は、しばらく何か考えた後で、真っ直ぐに俺を見上げた。
「だったら……」
「ん?」
「忘れるから……朝になったら、忘れますから……一度だけ、キス、してください」
俺は、華月の顎に指をかける。きつく結ばれたその唇に、そ、と親指だけを這わせた。赤いルージュが、俺の指先に移る。
「この唇は、婚約者のためにとっておけよ」
「私は」
「初めてのキスが他の男にさらわれたなんて知ったら、その男は絶対に怒るよ」
ぎゅ、と眉根を寄せた華月の瞳から、涙が溢れた。
その様子に、さすがに罪悪感を感じる。
少し、いじめすぎたかな。
「最後に、もう一つプレゼント」
俺は、華月の左手を取ると、暗い空にかざした。
「朝になれば消えてしまう、俺たちに似合いの指輪だ」
視線の高さを合わせて、もう沈みかけている丸い月を眺める。ちょうど、華月の薬指にその月が乗るように。
「……を」
涙声が、細く震えた。
華月は、伸ばしていた左手を、反対の手で大事そうに包んで自分の胸に押し付けた。
「……を、教えていただいて…………ありがとうございました……」
華月の嗚咽を聞きながら、空が白むまで俺たちは黙ったままでいた。
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