第4話

「遠慮しとくよ。俺たちまだこれ始めたとこだから。またな」


「えー、つまんなああい」


「行くぞ、紗理奈。俺らがいるだろ。ん?」


「じゃ、な、ケイ。たまには顔見せろよ」


 二人で紗理奈を支えて、やつらは帰っていった。華月が、ことりと首をかしげる。


「よかったのですか?」


「何が?」


「お友達なのでしょう? ケイさんが誘われていたようですので……行かなくて、よかったのですか?」


 これからあの三人でナニをするか、華月が知ったら卒倒するかもしれないな。


「あいつらはこれから飲みなおすってさ。俺は、華月と二人きりの方がいいけどな」


 耳元で言ったら、華月が嬉しそうに頬を染めた。おお、新鮮な反応だ。


 あいつらと遊ぶのも、嫌いじゃなかった。


 けれど、いつの頃からか、後に何も残らないその時間を、どうしようもなく虚しく思うようになって、一度そう思ってしまったら、もうこの街には足が向かなかった。


 そういえば、そう思い始めたのはあいつに会った頃だったな。考えてみれば、あいつらに会うのも数年ぶりだったのか。


 どうでもいいんだ。あいつらにとっても俺にとっても。その場限りのうすっぺらい関係。


「ケイさん、もう一度、やってみますね! 見ててください!」


 なんの含みもないこの笑顔の方が、今の俺には心地いい。


 結局華月は、ボーリング程にはビリヤードは上達しなかった。面白がって、俺が邪魔したのもあるだろうけれど。どうやっても俺に勝てなかった華月はむきになって、そのあと卓球まで付き合わされる羽目になった。


  ☆


「負けず嫌いなんだな」


 俺たちは、プレイパークを出て街を歩いていた。てっぺんをとっくに過ぎても、この街の人波は途切れることがない。むしろ増えているくらいだ。隣を歩く華月を、すれ違う男たちからかばうように引き寄せる。


 華月は、俺に寄り添うように歩きながら笑った。


「もう少ししとやかに、と、母にはよく怒られるんです。なかなか、母の言う淑女にはなれません」


 そこらの男をひっかけようとする子だもんなあ。おとなしそうに見えても、結構豪胆だ。それでいて、スれているわけじゃないときた。


「なのに、親の言うままに結婚はするんだ」


「それは……仕方ありませんわ。私がお嫁に行かないと、父も困りますし……」


「え?」


「あ、いえ、なんでもありません。あの、それは、いいんです。私が納得したことですから」


 失言だったらしく、華月はもごもごと言葉を濁した。



「華月は、何かやりたいことがあったの?」


 どことなくその口調にひっかかって俺が聞くと、わずかにためらった後、華月はポツリと言った。


「私、本当は産婦人科医になりたかったんです」


「は? 医者? 華月が?」


「はい。おかしいですか?」


「いや。ただ、びっくりしただけ。しかも、産婦人科なんだ」


「第一希望は、産婦人科です。医師になることができれば、どのような科でも精一杯がんばりますけれど。でも、医者になどなる必要はない、と両親に反対されて……残念ですが、医大に進学することは叶わないようです」


「ふうん」


 それを口にした華月は、せきがきったように話し出した。


「お嫁にいけば働く必要もないのに、医大に六年も通うのは、無駄だ、と。それよりも、女性としてできることを覚えて、立派な妻となれるように、と行儀見習いは厳しくしつけられました。もちろん、妻として夫の役に立つのは当然の務めだと思っております。けれど……」


「まだ、あきらめられないんだ」


 華月は、何かを堪えるように息をはいた


「何度も、話してはみました。けれど……こういうのを、価値観の違い、というのでしょうね。お父様とお母様が、私のためを思って言ってくれているのはわかるんです。本気で、私の幸せを願っていてくれることも。両親にとって女の幸せとは、若いうちに良い家に嫁いで立派な後継ぎを生むことなのです。大学を出れば、もう二十四。それでは、お嫁に行くのに遅すぎる、と。今どき古い考えだとは思うのですが、それを両親が信じているのなら仕方ありません。……でも、私は……私にも、夢があったんです。それをわかってもらえなかったのが、少しだけ……寂しい、です」


「なんで、産婦人科なの?」


 華月は、顔をあげて少しだけ微笑んだ。


「医師の中で唯一産婦人科だけが、新しい生命の誕生に関わることができるんです。人が医学に頼る時は、すべからく病を得た時です。ですが子供が生まれるということは、新しい未来が開かれるときなんです。その瞬間に立ちあえるというのは、ものすごく幸せなことだと思いませんか?」


「産婦人科は、医療現場の中でも一番訴訟問題の多い科だ」 


 淡々と言った俺を、華月は、じ、と下から見上げてきた。驚いている顔じゃない。知っていて、なおそう言えるのか。


「無事に生まれる命の陰で、生まれない命だってもちろんある。母体だって、十ヶ月近くの間妊娠を何事もなく継続することは、本当はかなり難しい。子供が生まれる、ということは世間では当たり前に思われているけれど、母子ともに健康で出産を終えるなんて、実は結構奇跡的なことなのかもしれない」


「そうですね。きっと、現実は甘くないと思います」


 そう言う華月の瞳は、今日見た中で一番、力強い。


「すべての命を救おうなんて、傲慢な考えなのかもしれません。それでも、医療を学んで知識を身につけて、その結果、この手で守れる命がたった一つでもあったなら、私はその選択を後悔しないでしょう。私一人の手など、取るに足らない力かもしれませんが……私は、その力を、手に入れたかったんです」


 ゆっくりと、華月が微笑む。その笑顔には、ゆるぎない信念があった。それを見て俺は、たとえ過去形で話をしていていても、華月が今でもそれを単なる夢で終わらせる気がないんだと気づく。


 ……ちょっと本気で驚いた。いや、感心した、かな。ただの世間知らずのお嬢様かと思ってたのに。


「叶うよ」


「え?」


 俺は、前を歩いてきた酔っぱらいからかばうふりで、さりげなく華月の肩を引き寄せながら言った。


「あきらめなければ、夢は叶う」


「……そうでしょうか?」


「そうだよ。華月ならきっと、人に優しい医師になれるだろうね」


 ふふ、と華月が笑った。


「不思議ですね。ケイさんに言われると、本当にそんな気になってきます」


「当然。今夜の俺は魔法使いだから」


 また華月が、ふふ、と笑おうとして……くしゃり、とその顔がゆがんだ。


「華月……?」


 足を止めて顔を覆うと、華月は震える声で言った。



「誰も……あきらめるな、とは、言ってくれませんでした。両親、先生、友人でさえも……約束された幸せな生活を失ってまで、苦労の絶えない医者になる価値があるのかと……」


「でも、君にとっては、とても大切な夢なんだろ?」


「はい」


 華月は、涙をぬぐって暗い空に視線を向ける。


「まだ卒業まで一年あります。先のことは、わかりませんもの。もしかしたら、結婚の話がなくなるかもしれないし、お父様とお母様が私の夢をわかってくれる日が来るかもしれません。その時に後悔しないよう、いつでも医学部へと進学できるように勉強だけはがんばっていますの。私、結構しぶといんですのよ?」


 濡れた目で笑ったその顔から、俺は目が離せなくなる。


 それでも華月は、まっすぐに立っていたのか。たった一人で、誰も賛成してはくれない夢をあきらめることなく、しっかりとその胸に抱いて。


 どうしてこの子は、そんな風に思えるのだろう。その心の強さは、どこから来るのだろう。


 辛くてそうやって泣くくせに、どうして、また前を向いて笑えるのだろう。


 無意識のうちに、俺は華月の肩に回していた片手でその頬に触れていた。しっとりと暖かい頬を、包むように覆う。


「ケイさん……?」


 不思議そうに見上げた華月の瞳に吸い寄せられるように、俺は顔を近づけて……



 と。


 視線を感じて、俺はさりげなく横に目線を走らせる。そこには、男が四人、こっちを見て何か話していた。


 まずいな。


 俺は華月の頬から手を離すと、その腰に手を回して歩き始めた。


「あの……?」


 どぎまぎと顔を赤らめる華月の顔を楽しむのは、もう少しあとにしよう。今は……


 遅かったか。


 歩き始めた俺たちの周りを、四人の男が囲む。それに気づいた華月が、おびえたように俺の腕をつかんだ。


「彼女、そんな男やめて、俺らと遊びに行かない?」


「そんなつまんなそうな坊ちゃんじゃ、教科書通りの遊びしか知らねえだろ。俺たちなら、すっげえ刺激的なコト、いっぱい知ってるぜ」


 へらへらと笑う男たちに、華月が体をすくめる。


「俺たちのことはほっといた方がいいと思うけど」


 一応、警告はした。けれど、案の定男たちはそんなことでは引きさがらない。人数で押し通せると思ったんだろう。


「彼女は俺たちにまかせてさあ、あんたは行っちゃえよ」


「そうそう。あ、彼女と財布を置いてな。いい成りしてるじゃん。けっこう、持ってんだろ?」


「痛い目見ないうちに、さっさと有り金出せよ!」


 そう言いながら、その男が華月の肩に手をかけた。華月が悲鳴にならない息をのみこむ。

 ほー、よく叫ばなかったな。


「痛い目って、こういうこと?」


 俺はその手を取り上げると、軽く回した。ぼき、と派手な音がして男が悲鳴をあげる。


「いてえええええええ!」


「関節を外しただけだから、痛いだろうけど骨は折れてないよ。俺の女に勝手に触んな」


「てめえ!」


 もう一人の男が、俺の胸倉を乱暴につかんだ。俺は、逆にその男の懐に入り込んで、膝を落とす。


「え? ……うあっ!」


 そのまま思い切り身体を捻って男を背中から地面に叩きつけた。ついでにその隣に突っ立っていた男の足を後ろから思い切り払って、あおむけに倒れたその男のみぞおちを思い切りかかとで踏みつける。


「うげっ!」


 振り向きざま、呆然と立ち尽くしたままの最後の一人の顔を、思い切り片手でつかんだ。


「がっ!」


 ぎりぎりと力をこめると、男はうめき声をあげた。俺の手を外そうともがくけれど、がっちりと食い込んだ指は簡単には外れない。歯の折れる寸前まで握って男が戦意喪失したのを確認すると、倒れている男どもの上にそいつを思い切り叩きつけた。


「怪我しないうちに、おとなしく行った方がいいぜ? ……俺たちに、関わるな」


 そいつらは、捨て台詞もなくあわてて逃げていった。


 なんだ、口ほどにもない。


 少し乱れたジャケットを直して振り返ると、華月が青い顔で立っている。


 さすがに、今のは彼女にはキツかったかな。一応、血を見ないように手加減はしたんだけど。

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