悪夢
ずいぶんと長い距離を歩いた。もう足が棒のようで、関節はほとんど動かない。何度砂を蹴ろうとも、ほとんど進んでいないようにも感じる。何も聞こえない。なんの物音ひとつ、ガスマスクの音や、ガイガーの音さえもないただひたすら続く孤独感。背中の荷物が少しずつ、少しずつ重くなり、どんどん歩みが止まっていく。脹脛や太ももに鈍い痛みがまとわりつく。目の前を歩いているシオリを見る。彼女は声を上げて泣きながらこちらを見ていた。
「…置いて行かないで…」
シオリの嗚咽の中から微かにその言葉だけが聞き取れた。直後、首にかかった革紐が喉に絡み付いた。喉が痛むほど締め付けられる。足元がぐらつく。脳が酸素を欲して口を開かせる。しかし、酸素は喉の直前に引っかかって肺に行かない。手を喉に伸ばして紐をつかもうとするが、紐を撫でるだけだ。足腰がどんどん不安定になる。視界がぼやけ、世界が赤色になる。声を出すことすらままならない。涙と焦りがこみ上げる。突然右腕が勝手に動き、ポケットのガラスの破片を取り出した。喉ごと紐を切り落とそうとしている。嫌だ、嫌だ、やめてくれ。腕の動きは止まらない。ガラスの破片を喉に突き刺す。喉の左側に、締められるのとは違う鋭い痛みが走る。声にならない悲鳴をあげる。嫌だ、痛い痛い痛い痛い。右手は勝手に右へじりじりと動き出す。痛みも右側にゆっくりと広がる。喉元から血が吹き出し、顔は汗や涙や唾液でぐちゃぐちゃになっていた。激しい痛みが喉全体に広がる。滝のように血が吹き出す。一番右まで行ったところで、腕はガラスを喉から引き離した。直後、頭がぼんやりし、視界がぐわんと傾いた。足に、腕に、体に力が入らない。地面に崩れ込み、右半身に激しい痛みが走る。意識が薄らいでいく。地面から、立っているシオリを見る。ダメだ。まだ俺は
ショウタは半身を思い切り起こした。息を切らし、額にびっしょりとかいた汗をぬぐいながら、目を思い切り見開き、自分の周囲を確認する。真っ暗闇のシェルターだ。ショウタは、喉に酸素が通る感覚に気がつく。すぐに喉元を撫でつける。首は何にも締め付けられていなかった。
この時ショウタはやっと、自分が夕食を食べ、眠りについたところまでを思い出した。どうやら、自分は悪い夢を見ていたようだ。そう認識した途端。背骨がどっと疲労感に襲われ、起こした半身を再びベッドに横たえた。
「…ちっくしょう…」
ショウタは天井を睨みながら、誰にとなく悪態をついた。その時、自分の下に寝息が聞こえることに気がついた。カーテンで仕切られた二段ベッドの下の段で、シオリが眠っていた。ショウタは、また天井を眺めながら、今日起こった出来事を思い出していた。そして、首にかけたままの皮のペンダントをなぞりながら、夢の中でのシオリの声を何度も思い出した。ショウタは、ペンダントから手を離すと、ゆっくり瞼を閉じた。
ショウタは、まぶたに当たる明るい光を感じて、ゆっくりと目を開けた。小さな窓の外を見ると、太陽がちょうど真正面から差し込んでいた。目を擦りながら、ショウタは二度目の悪夢を見なかったことに安堵した。大きく伸びをすると、背骨や腕の関節がコキコキと音を立てた。この時、関節以外の物音がカーテンの奥から聞こえてくることに気がついた。そして、自分の下の布団に人の気配がないことにも気がついた。ショウタはカーテンを開け、ゆっくりと布団を降りた。部屋の向こうから、器とスプーンが立てる音や、ビニール袋をさく音が聞こえた。ショウタはそっとリビングに顔を出した。テーブルを見ると、器が一つ置かれていた。中を見ると、砕いた栄養ビスケットと脱脂粉乳が中に入っていた。
「げ…」
声のする方に顔を向けると、寝癖がたくさんついたシオリがいた。手にはドライフルーツの袋が握られ、見られちゃいけないものを見られたような顔をしていた。
「こ…これなら、シリアルみたいで食べやすいかなって…」
シオリは、恥ずかしそうな顔をしながら答えた。
「……おはよう…」
流石に寝起きで笑う元気は、ショウタにはなかった。ショウタは、鞄の方に向かいながら聞いた。
「ひょっとして、その脱脂粉乳とフルーツは分けてもらえたりする?」
「…い……良いけど…でもお願いがある」
「お願い?」
ショウタは、鞄から栄養ビスケットを取り出すと、シオリに向き直った。
「うん…行きたいんだ…東京タワー」
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