25,自分を幸せにしたい僕、自分もみんなも幸せにしたい彼女

「私ね、コイに興味があるの」


 ジャズが流れるラーメン店でロコモコ丼としょうゆラーメンを注文した直後、彩加は祈りを捧げるポーズで手を組み、ぱぁっときらきらした表情で会話を切り出した。


「あぁ、さっき目で追ってましたよね。池のこい


「ノンノンノーン。カープじゃなくてラブだっテンダー!」


 小さな唇の前でメトロノームのように人差し指を振り、続いてピストルのポーズで親指と人差し指を口の端に当ててドヤ顔をする水城先輩は、どちらも恋愛や愛情を意味する『Love』と『Tender』を掛けて巧いことを言ったつもりのようだが、それにどう応えれば良いものか、僕は困惑して返す言葉を見付けられなかった。


「私はまだ恋したことないんだけど、あの二人を見てたらドキーン! ってきたの!」


「あの二人?」


「うん! 秋穂ちゃんと大騎くん!」


「水城先輩もあの二人、デキてると思います?」


「んふふふふ。ということは望殿、やはり二人はデキておるのだな?」


「いや、付き合ってはいないと思いますけど、両想いだとは思います」


 氷水の入った薄いグラスでカランカランと緩やかに弧を描きながら、水城先輩はイヤらしくもあり、慈しみを籠めた遠くを見る目で微笑んでいる。


 正直、この人は実のところお勉強はできるけどおバカさんなのではと疑い始めていたところだが、そんな筈はなかった。思い出したのは、初めて会話を交わしたときの彼女の人生論。


 海岸のサイクリングロードに吹く穏やかな潮風は、いつにも増してベタついて、こびりついたものはからだをいくら洗っても落ちなくて、それがズーンと重みになって、けれど栄養価は物凄く高い代物。


 けれどその言葉が枷となり、反感を抱いてもいる自分がいるのはきっと、僕がまだまだ未熟だからだろうと、奥底で認めざるを得ない事実。


 ははっ、なにをいう僕。そんなの最初からわかっているじゃないか。元々コンプレックスの塊なのに、それを他人から再認識させられただけの話。


「どうしたの? 望くん、なんかボーッとしてない?」


「そうなんだ。楽しいこと? つらいこと?」


「どっちも、ですね。でもどちらかといえば前者です」


「うんうん、なら何度でも思い出したいね」


「そう、ですね。少し記憶が薄れかけてたんですけど、それを忘れずにいれば、新しい自分に成長できる気がするんです」


「へぇ、そんなすごいことがあったんだ」


「はい、水城先輩のおかげです」


「え、私?」


 右人差し指を下唇にふわっと添える水城先輩。そんなことした覚えはないと言わんばかりに目を丸くしているものの、気のせいか、感情の陰りが垣間見えたような気がした。


「そうです。おととい水城先輩と初めて会話したときのことです」


「あぁ、うん、あのときは出しゃばったこと言ってごめんね」


「いえ、確かにあの通りだと思いました。やりたいことは思いきり楽しんで、義務的なことでも楽しめる工夫をする。そんな人生を送れたらいいなって思います。でも身に付く前にその心持ちが忘却曲線に引き摺り下ろされたり、周囲の空気に染められそうで。というより僕はまだ、後者から抜け出せなくて、前者がそれに追い打ちをかけてきた感じです」


「そっかぁ、実は私、望くんにキツイこと言っちゃったって気がかりだったの。他の人たちにも同じこと言って、イヤな思いをさせて、避けられてきたから」


 確かに、己の視野の狭さ、未熟さを指摘されて気分を害されたのは事実。しかし冷静に考えれば僕の一極集中の付け焼刃より、水城先輩の一見贅肉質なポリシーは長期的に見れば良い結果が出る可能性は高い。僕はそう受け止めた。そこまでの未来予測ができないほど、僕は愚かではない。


 しかしあのときの僕はきっと、あからさまに不快な表情かおをしたのだろう。その奥で水城先輩の言葉を噛み砕いていたとしても、初対面の彼女がそれを察せるほど仲が進展していないのは考える間でもない。


「でも、望くんの力になれそうなら良かった。それに、忘れそうになったら、何度でも言うよ。でも私の考えが必ずしも正解とは限らない。私だって暗中模索の毎日だよ。それでも色んなものをもらって、ときに大切なものを失った人生を振り返って、自分も、まわりの人たちや世界も幸せにするにはって考えたとき、いまの生き方に辿り着いたの」


 あぁ、やっぱり僕は愚かだ。自分の人生を成功させるための努力はしてきたつもりだけど、まわりの人とか世界とか、いまのところそこまで考えられそうにない。自分のことばかり考えている僕はなんて幼稚で、僕の人生は、なんて薄っぺらいんだ。


 思えば鶴嶺さんだってそうだ。救命をしたくて医者を目指している。大騎だってもしかしたら、自分が何かのスペシャリストになって人を楽しませたいと思っているのかもしれない。けれど僕は、ただ己がためだけに数字を稼ごうと迷走して、しかも大した結果は出せていない。


 このままじゃ僕、本当にダメ人間じゃないか!


 薄々勘付いてはいたけど、ようやく確信した。


「だからこそ、だよ!」


「え?」


 まさか、胸の内を吐露してしまっていただろうか。


「望くん、自分に失望した顔してる。真っ青だよ。私も自信なんかないけど、でもだからこそ、だからこそ、なんでもアリなんだよ! 真っ白だから色んなものが見えるし、真っ白だからもう道を決めた人より新しいものが見えてきたりもするんだよ。でもひとりじゃ心細いから、望くんも良かったらいっしょに探してくれると嬉しいな。まだ知らないたくさんのこと!」


 はい。確かに、確かにそうだと思います。けれど今までこんなことを言われてこなかった僕は、どうすれば良いのですか? だって、世間の常識は何も知らない、右も左もわからない奴は黙って先人に従え、見えてしまったものには組織や自己を守るため目をつむれ。そういうものでしょう? なのにそれを真っ向から覆して、大多数の人間に反感を抱き攻撃対象とされかねない思想……。


 そうだ、そうじゃないか。だからきっと、水城先輩も苦しいんだ。大切なものを失った詳しい経緯は知らないけど、当時から苦しい思いをして、代わりに得たものにより成功者となって、それを道に迷う周囲の人間に広めようとしたら遠ざけられて。


 水城彩加さん、あなたもまた、孤独な戦人いくさびとなのですね。苦しみを知るからこそ、後ろを往く者に同じ思いをさせぬよう手を差し伸べて、その手を払われ続けてなお、僕を想ってくれているのですね。


 ならばあなたの自己も他者も世界も幸せにするという思想にのっとり、僕にできることはいまのところこのひとつ。


「はい。よろしくお願いします。ぜひ」


「え、ホントにリアリィ!? サンクスだよお!!」


 僕自身の太ももに置いていた両手を上腕二頭筋を水城先輩の華奢な両手が無理矢理掴み上げ、ぶんぶんと上下動を伴う握手をされた。


 そのせいかどうなのか、ふたりのどこか強張った表情は綺麗に面取りされ、店内はほがらかな空気に包まれた。


「はい、ロコモコ丼としょうゆラーメンお待たせ!」

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