7,滝のように涙が溢れる感動の再会

 痛い。痛いよ。草と握手したら掌が傷だらけになっちゃった。頭にきたからかじったら凄く苦くて、脳天を刺激する変なにおいがした。しかも口中の上のほうに怪我した。手の傷は持ち歩いている絆創膏じゃ対処できないくらい長い。もうお嫁に行けない。


 とりあえず草の生い茂る道を抜けて、百メートル四方程度の茶色く濁った池の前に辿り着いた。ここにも蒲が生い茂っていて、ザリガニや小魚、ヤゴ(トンボの幼虫)などが生息している。


「おやおやお嬢さんどうしたのこんな所で!?」


 池の奥の森へ続く通路から、麦わら帽子にタンクトップ、半ズボンにゴム草履がよく似合う背の低いおじいちゃんが出てきた。右手に魚獲り用の網を肩にかけて持ち、左手にはザリガニが十匹くらい入ったベコベコに凹んだアルミバケツを持っている。


鈴木すずきのじいちゃん!?」


 わぁ、ビックリしたぁ! まだここに出入りしてるんだぁ。前に会ったのは約九年前だけど、昨日のことのように思い出して、懐かしさは感じない。


 鈴木のじいちゃんはお昼過ぎから夕方にかけてこの辺りで食料をハンティングしているワイルドなおじいちゃん。射幸心からパチンコに過剰な投資をして家計はいつも火の車らしい。幼稚園児の頃、お父さんに初めてここに連れられたときからの顔馴染み。


「あ!? どっかで会ったっけか!?」


「私だよ! 私わたし!」


 自分の顎に人差し指をちょんちょん当てて、鈴木のじいちゃんの記憶を呼び起こそうと試みる。


「なんだい新手あらて詐欺さぎかい? 生憎あいにく貯金はしない主義でね、いま七十五しちじゅうごだけど、やっとこさ今夜と明日を生き抜く食料を確保したとこだよ」


さぎはその辺で魚獲りしてるよ。彩加だよ彩加!」


「あぁ!? 彩加ちゃん!? ホントに!? あらあらこんなピチピチギャルになっちゃって! いまいくつになったの!?」


「18だよ。高校三年生! でさ、滝のように涙が溢れる感動の再会早々悪いんだけど、ちょっと怪我しちゃって、包帯とか傷を塞げるもの持ってない?」


「なぁに調子いいこと言ってんだ。こちとらあんたが相変わらずのバカで感動どころかがっかりしたよ。悲しくて滝のような涙が出そうだ。怪我? ちょっと見せてみ。あぁ、こんなの唾付けときゃ治るよ」


「そうなんだけどさ、これじゃ痛痒くてペン握れないよ」


「ペン握るだなんて、あんた、ホントに彩加ちゃん?」


「そうだよ!」


「嘘だね。悪いが包帯なんぞは持ってないよ」


「嘘じゃないよ失敬な! 九年前だってこうやって怪我したじゃん!」


「あぁ! また草と握手して怪我したの!? バッカだなお前! あんなボロボロになって懲りなかったの!? べっぴんさんになったけど相変わらず中身はスカスカで頭が悪い! ちょっと疑ってたけどもうそんな余地はねぇ。アンタは正真正銘の彩加ちゃんだ」


「あ! バカって言った!? バカって言ったほうがバカなんだよバカバカバーカ!」


「バカ野郎! バカじゃなかったら今ごろ年金生活できてるってんだ! 俺みたいに潰したばっかのゴキブリがひっ付いたハエタタキで母ちゃんに叩かれて終いにゃ逃げられて、みすぼらしい格好してその日暮らしになりたくなかったら少しくらい勉強しろって会う度に言ったじゃねぇか! 世の中カネがないヤツは負けるんだ!」


 うん、そうなのかもね。ある程度お金がないと本当に負けちゃうのは身に染みてるよ。


「ゴム草履に半ズボンにタンクトップと麦わら帽子。いいね! 自然と共に生きてる感じがして!」


 心の曇りを読み取られないように、間髪入れずに言葉を返す。


「話を聞けっての! あぁもうダメだ! この歳になって頭抱えるとは思いもしなかった! あんた安産型でイイカラダしてるけど結婚しないほうがいい。旦那に愛想尽かされて逃げられるのがオチだ! もうね、俺みたいなのをいいと思うようになったら人生お終いだ!」


「いいなんて思ってないよ。こんな浪費癖激しい人とは絶対結婚したくない! あと私、勉強はしてるよ! お陰さまで成績は学年トップ!」


「え? なに? どこの小学校で学年トップだって? 何年も留年してやっとトップになれたのか。そりゃ良かった」


 鈴木のじいちゃんは間抜け面でわざとらしく耳の後ろに手を当てて聞き返した後、左の掌を右手の拳で叩いて合点がいったポーズを取った。


「高校だよ高校!」


「先生にいくつ包んだの?」


「包んでないから! 実力派の私を侮らないでいただきたい。私も勉強しなきゃって思うようになったの!」


 応酬しているうちに日が暮れてきて、空は青から白へ、微妙なコントラストから徐々に茜色に染まった。この場所は木々に囲まれているため視界が狭く、夕暮れの訪れが開けた場所より少し早い。夜の虫が泣き出すと、もうここに人の居場所はなくなって、帰れ帰れと擦れる葉が急かす。切なさや寂しさと同時に、一度入ったら二度と戻れない、どこか違う世界へ連れて行かれそうな恐怖が入り交じる。


 来た道を引き返している途中、私は躊躇いながらもお父さんが癌で亡くなり、言い付けを守って勉強するようになった旨を鈴木のじいちゃんに話した。 

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