5,彩加が勉強する理由

 またやっちゃった。いつもそうじゃん。仲良くしようと思って色んな人に声かけたり、逆に声かけてもらったりして、教室で解法を教えたり、勉強の仕方を質問されたりするけど、持論で返答すると、変わらず話しかけてはくれるものの、どこか距離を置かれてしまう。


 私の考え方って甘いのかな。受験生だし、自分にとっての最高峰を目指してみんなみたいに勉強漬けにならなきゃいけないのかな。でも『最高峰』の定義が勉学に偏ったアンバランスなものなら、それは違う気がする。だけどそれを言ったら、きっとみんなから嫌われる。


 女子の間で、私は苦労を知らないから胸に栄養が行き届くと噂されているのは知っている。私だって勉強が好きというわけではない。特に夏は暑さでへたり、授業開始早々机に突っ伏していた。夏休みと冬休みは朝から晩まで休憩に休憩を重ね、偏差値の高いこの高校に入るため、私なりに本気を出した。次第に頭のなかはほぼ勉強で埋め尽くされ、他のことはあまり考えられなくなっていった。勉強している最中にお母さんに「ご飯よ」などと声をかけられるのが煩わしくて、「いま勉強してるんだから邪魔しないで!」と、キツく当たったりもした。


 とにかく、将来が不安だった。勉強して、ハイレベルな学校に進学して、高収入な職に就かないと、命を落とす。


 さて、これからどうしようか。望くんとはほぼ毎日バスで会うのに、私のせいで望くんを沈黙させて気まずい雰囲気にさせてしまった。違う時間のバスに乗って避けるのも嫌だし。でも大丈夫か。望くんが声をかけてくれなかったらそれまで。私が無理に距離を縮めようとして望くんの重荷になるのはもっとつらいから、今後の関係は彼に委ねよう。


 気まずい空気のまま、サイクリングロードと並行するベニヤ板で組まれた歩道をゆるりふらり西へ進む。右に松の砂防林、左に砂浜と海。今日は少し波が高い。西に伊豆いず半島と雪が少し残る富士山ふじさん、東に江ノ島えのしま三浦みうら半島。そして、半歩後ろに望くん。いつもの景色。だけど、地球46億年の歴史で、同じ景色は一瞬たりともない。この風は、寄せては返す波は、何度この地へ辿り着き、その度変わりゆくさまをどんな気持ちで眺めているのだろう。


 望くんはこの景色を見て何を思うのだろう。訊いてみたいけど、そんな空気じゃない。


「あの、水城先輩は、勉強嫌いなんですか?」


 不意に投げ掛けられた質問。気まずくて駅まで間が持ちそうになかったから助かった。せっかく話しかけてくれたから、和やかな雰囲気になるようニッと笑顔を作って返答する。



 ◇◇◇



 半歩前を歩く水城先輩に、思い切って訊いてみた。僕が不貞腐ふてくされたせいで気まずくなってしまい、会話に行き詰まった。


 住む世界の違う水城先輩と深い関係にはなれなくても、この人は効率的な学習で成績を上げる方法を知っていそうだ。ここは後輩らしく彩加あやか先輩の知恵にあやかってみようと、少し卑怯で寒いことを考えた。だけど、僕だって成績を上げるのに必死だ。せっかく優等生とお近付きになれたのだから、利用しない手はない。


 水城先輩が振り返ってニッと微笑む姿は、美人というよりは可愛いのにどこか色気があって、不出来な弟を優しく包み込んでくれるお姉さんといった感じだ。


「勉強は嫌いだったし、いまでも好きってわけじゃないよ。中学に入ってしばらくは成績悪かったし。


 勉強するようになったのは、小学五年生の夏休みにお父さんをがんで亡くしたからなの。末期だったからどのみち助からなかったけど、うちは貧乏だから、満足な延命治療ができなかった。病院のベッドでね、お父さんが言ったの。


 俺はガキの頃、遊んでばっかで、ロクな給料を貰える職には就けなかった。それでもいいオンナ見つけて、お前が生まれて、ボロい借家でも幸せな生活が送れてるから結果オーライだって。でもよ、病気になって気付いた。もっと稼げる職に就いてれば、もっといい治療を受けられて、またお前や近所のガキ共と遊んだり、みんな大人になったら飲み屋で堂々と酒飲めたのによお。だからお前は、俺を反面教師だと思って、勉強して、がっぽり稼いで、老いぼれて寿命が来るまで笑顔でバッチリ生きろ。ってね」


 朗読劇のような口調の水城先輩は、お父さんと過ごした日々を懐かしんでいるようで、憂いを帯びながらも僅かに笑みを浮かべている。


 見晴らし台で出合ったときと同じように潮風に靡く髪と漂うシャンプーの香り。けれど先ほどとは何か違う。


 何が違う?


 心の引き出しに何かが引っかかって取り出せないでいるけれど、それが何かわからない。ニュアンスではわかっているのに、具体的な言葉ではわからない。

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