4,地底と天空の差

 憧れの水城先輩と一緒に下校という夢のようなシチュエーション。ついさっき知り合ったばかりの僕を誘うなんて、もしかしたら脈アリなのかも。


 いや、その場のノリで誘われたとは理解している。きっと水城先輩は、いつもこうして交友の輪を広げているのだろう。それでも憧れの人とお近付きになれたのは嬉しい。


 松林や海、山頂周辺に雪がうっすら残る富士山を含む東西の山々を背景に自己紹介をした僕たちは、これから展望台の階段を降りて駅方面へ向かう。


「はい、掴まって」


 階段に踏み込もうとしたとき、前に立つ水城先輩が無垢で元気な笑顔で色白な手を差し伸べた。普通なら知り合って早々手を取ったりはしないし、年下とはいえ同じ高校生を相手に過保護とも思うけれど、この人の場合はそれに不自然さを感じさせない。人柄が成せる業だと思う。


 どうしよう、手を握るべきか、断るべきか。僕はその眩しさにざわりと一瞬で胸を焦がされ反射的に目を逸らし、戸惑いつつも二呼吸ほど置いて手を伸ばした。


 あっ……。


 次の瞬間、掌から全身に微弱な電気が走ったような感覚に見舞われ、バクバクと心拍数が急上昇してゆくのがわかった。


 握った手の感触は少し冷えていて、思い切り力を加えたら壊れそうなくらい華奢で柔らかく、どぎまぎした僕の掌からは汗が滲み出てしまった。普段から成績や将来について思考を巡らせ混乱している僕だが、今回は同じ混乱でもどこか違う、ふわり舞い上がるような感覚だ。


 なんだろうか。これまで知らなかった、この感覚は。自らの気持ちを解析できなくて、再び思考が止まる。



 ◇◇◇



 とっことっこと慎重に展望台の階段を降り、人がやっと擦れ違えるほどのベニヤ板の散歩道を西へ約1分。薄暗い松林の温かい木漏れ日、ここは小さな別世界。


 アスファルトにはない少し弾力のある踏み心地。海辺なのに木々に囲まれて海が見えず、波音も聞こえない。聞こえるのは、木の葉がさわさわ掠れる音と小鳥のさえずり、そして、二人の足音。


 身長は170センチ前後と普通だけれど、年齢の割に顔立ちが少々幼い望くんは、恐る恐る私の一歩後ろに付いている。同じ学校の生徒とはいえ、初めて言葉を交わしてすぐ一緒に行動しようだなんて、警戒させちゃってるかな。大丈夫、今日は一緒に帰る人がいなくて展望台に寄り道したら、バスで一緒になる望くんがいたから声をかけただけ。これを機に仲良くなれたら嬉しいけど、私を深く理解してくれる人なんて滅多にいないから、そこまでは期待しない。なのに。


「ねぇ、良かったらこの後どっかで遊ばない? て言っても、本買ったり電器屋さん見たりするくらいだけど」


 なんて、親睦を深めようとしてしまう。


 松林を出て砂利が転がる空地に出た途端、太陽光がギラギラと容赦なく照り付ける。けれど、振り返って見た望くんの表情には、陰りがあった。


「ごめんなさい。塾があるので」


 歩を止めて誘いを断る望くんの口調は機械的で、歩行者同士でぶつかったときに反射的に出る『ごめんなさい』と同じく、まるで誘いを受けたらこの言葉が出るようプログラミングされているようだ。私の周囲にいる勉強で忙しそうな人のやり取りは、雑談以外はこのように殆どが機械的。


「そっか、みんな大変だね。うちのクラスも休み時間でさえ勉強したり、夜遅くまで塾だったりで疲れ顔の人が多いんだ」


「水城先輩は行ってないんですか。塾」


「行ってないよ。うちは貧乏だし、最近は自宅学習だってそんなにしてない。長時間勉強してると肩凝っちゃうから」



 ◇◇◇



 水城先輩にとって‘そんなに’がどのくらいかはわからないけれど、塾に通っていないとは驚きだ。肩凝っちゃうからと言ったとき、僕は思わず視線を斜め下の砂利に逸らしてしまった。Eカップという噂はきっと真実だ。


 僕が「そうですか。先輩は器用なんですね」と言うと、水城先輩は「ん? どうして?」と、きょとんとして首を傾げた。


「水城先輩、成績トップなのに、あんまり勉強してないなんて」


「だって、からだもキツいけど、勉強ばっかりじゃ飽きちゃうもん。せっかくの人生だし、色んなことして、色んなこと知りたいじゃん。


 それにね、やらなきゃいけないことはこれからどんどん増えてく。大学生になったら自主性に委ねられて自由になる部分もあるけど、その先にある職業としっかり向き合わなきゃいけないし、他にも大量の課題をこなしたり、いまもだけど、うちは家計が苦しいからバイトだってしなきゃいけない。


 もっといえば、社会人になったら休みの日だって仕事をしなきゃいけないときもあるかもだし、仕事を上達させたり売り上げを伸ばすために勉強だってしなきゃいけない。仮に好きな職に就けても、きっと嫌なことはあるから全てが楽しいわけじゃない。


 私は元々遊ぶのが大好きで、小学校高学年まで勉強する習慣がなかったから、高校生いまの段階で勉強に没頭してたら、大人になったら仕事の悩みで雁字搦がんじがらめになって心が折れちゃうか、反動で好き放題遊んで歯止めが効かなくなっちゃうと思うんだ。だから、やらなきゃいけないことでも、少しでもいいから楽しめる方法を見出だして、やりたいことも目一杯楽しむ。それが私の生き方だし、総合的な意味で人生を豊かにする大きな財産になると思ってる」


 水城先輩は一度空を仰ぎ、ときに柔らかな笑みを浮かべ、落ち着いた口調ながらも抑揚をつけて語った。なるほど、この人は器用なうえに頭がいい。しかも将来までしっかり見据えていて、人生論まで持っている。それが大騎のように大雑把なものではなく、経済的生活基盤と娯楽を両立するうえで至って合理的だ。年齢はたった一歳しか変わらないのに、雲泥どころか地底と天空の差だ。


「僕も楽しい人生を送りたいです。だから、勉強するんです」


 この人と僕は住む世界が違う。憧れは所詮憧れでしかなくて、僕がそこへ辿り着けるわけではない。


 楽しい人生を送るために勉強するなんて定型文だ。やっぱり僕は、型に嵌まった典型的な人生しか送れなくて、一縷いちるの望みを持ちながら勉強しても、結局は目的もなく大河の流れに身を任せるだけ。


 いまわかったよ。人生は結局、才能の有無なんだ。そして僕には、それがない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る