2,いつもの朝

 バスを降りた途端、べったりした潮風に全身を覆われた。この地域では金属製品を野ざらしにするとすぐに錆びてしまう。


 先輩の背中をちらちら見ながら、T字路を左折、少し遅めの歩調で西へ20秒ほど進むと左手に校門がある。


 校門を抜けるとすぐ右手に大理石とコンクリートの人工池があり、十匹じっぴき前後の錦鯉にしきごいが泳ぎ回っている。ベンチのように座りやすい高さの大理石には三人の男子生徒が腰掛け、揃って5百ミリリットルパックのカフェオレをストローで吸っている。


 先輩は彼らに向かって「おはよー!」と手を振り、「おう! 目覚ましにおっぱい揉ませろよ!」などと返されると、にこにこしながら「エッチ!」などと言って受け流すのがいつもの流れ。進学校でありながら、そのイメージとは少し離れたフランクな校風だ。


 続いて左手の体育館前を通過し、昇降口へ。クラス毎に下駄箱で分け隔てられているため、先輩の姿は一度見えなくなる。ダイヤルロック式の下駄箱から上履きを取り出して革靴から履き替え、先輩は3階、僕は2階の教室へ。


「おっすのぞむ! お前朝だけは爽やかな顔してるよな」


 教室に入るなり、滝沢たきざわ望という名の僕を呼ぶクラスメイトの東橋あずまばし大騎だいき。ツンツンした金髪で、追試の常連。誰にでも積極的に声を掛ける社交的な性格だが、浮いた話を聞かないあたり、女子にはあまりモテないようだ。


「そう? 僕はいつも爽やかな好青年のつもりだけど」


 言いながら、僕は所定の教室中央付近に着席。机に座る大騎を爽やかな作り笑顔を演出して見上げる。


「何言ってんだよ。放課後なんか、これから塾だ~って、死に顔してるじゃねぇか」


「それは仕方ないだろ。毎日勉強漬けでうんざりなんだ」


「そうよ、滝沢くんは毎晩遅くまで頑張っているの。東橋くんはもう少し勉強したほうがいいんじゃないの?」


 左隣の鶴嶺つるみね秋穂あきほさんは、機能的なショートヘアを人差し指でくるくる弄びながら大騎に忠告した。細い縁のメガネが知的でクールな印象に拍車をかけている。


 鶴嶺さんと僕は同じ塾に通っていて、今年度からは学校のクラスも同じになり、よく言葉を交わしたり、塾から一緒に帰るようになった。各試験の成績は毎回ほぼ互角の良きライバルだ。


「俺はつまんないことはしない主義なの。勉強なんかしたって将来の役に立たないだろ?」


 と言う大騎がどのようにして当校に入学したのか気になるが、それは暗黙の了解で誰も訊かないようにしている。


「そんなこと言って、将来ホームレスになったのをたまたま路上で見かけても何も恵まないわよ」


「ホームレス? また何を言ってんだか。俺はビッグになって豪邸を建てるのさ! お前こそ嫁の貰い手がなくて玉の輿目当てで俺に結婚申し込んだってお断りだからな」


 大騎はどのようにビッグになりたいのか具体的な話を聞こうとすると言葉を濁すが、きっと陰で何らかの努力をしているのだろう。きっと……。


「何を夢見がちなことを言っているのかしら。間違ってもホームレスのあなたに結婚を申し込んだりしないわ」


「だからホームレスじゃなくてビッグになるんだっての!」


「ビッグ? 私にはあなたがビッグな男にはとても見えないけれど」


 言って、鶴嶺さんは大騎の股間を見遣る。実は大騎、夏は登校前に海でひと泳ぎするため、朝のホームルームが始まる直前までは海水パンツ一丁であることが多い。きょうもそうだ。


 学校付近のサーフショップで貸しシャワーを利用してから登校するので校内を砂で汚したりはしないが、客観的に見れば如何わしい格好であるうえ、湿った水着での着席は不快だろう。


 なお、今日は洗濯で私用の海水パンツを切らしたため学校指定のボクサーパンツタイプの水着を着用しており、男の証の大きさがおおむねわかる。


「なんだよ海パン越しで何がわかるってんだよ。なんなら見せてやろうかオラオラオラ!」


「まあまあ二人とも。お互い目標に向かって頑張ればいいじゃん」


 大騎が水着に手を掛けたので、これ以上は危険と判断した僕は仲裁に入った。けれど意外なことに鶴嶺さんは相変わらず寒い目をしていて、顔を覆ったりそっぽを向こうとはしない。


「そういや望は将来何になりたいんだ?」


「そうね、私は医者を目指していると前に話したけれど、滝沢くんの目標は聞いていなかったわね」


 喧嘩する二人をなだめていたら、僕にとって不都合な質問を浴びせられてしまった。これを訊かれる度に思考回路が混線して、口ごもってしまう。


「まだわからない、かな。でも、勉強しないと鶴嶺さんが言うようにホームレスになる可能性が高まりそうで不安だから、頑張ってる」


「そんな、滝沢くんなら大丈夫よ。しっかり勉強しているから選択肢は多岐にわたるわ」


「いっそ勉強やめて俺とビッグになる道を歩むのもアリだぜ! サインなら今のうちに貰っておくと将来プレミアもんになるぞ!」


 鶴嶺さんは凜とした優しい笑顔で、大騎はあっけらかんと僕を慰めてくれたけれど、それは自分に目標がある故の余裕からだろうかと、曲がった思考をしてしまう。


「あはは、二人ともありがとう。色々考えてみるよ」


 とは言ったものの、やっぱり不安だなぁ。同級生たちは目標を定めているのに、僕は……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る