第二章10「光の桜1」

 尊大不遜な態度で君主の前に鎮座しているのは、月そのものの様に静かで不気味な美しすぎる女——巫女であった。その姿を畏れるかのように冷や汗を流し言葉を探すのは、公国の現権力者であり頂点に立つはずのヌッケン公王。失われた王家の復興の為にと帝国との良好性を保ち、大陸の中でもそれなりの地位に着いた筈であった。其れなのに——ただ座っているだけの女人をこれほどまでに畏れるのは只事ではないのは百も承知であるが、己の存在意義すら、彼女の前では風前の灯火であること思い知らされた彼は、数年前から彼は月白に逆らおうなどという浅はかな考えは消え失せていた。却ってそれが王を生かしていることに彼自身が気付いてはいないが、なんにせよ月白と対峙することは極力避けたいというのは今なお変わらぬ心の内であった。


「依って、この場に居られる方々におかれましても、三日後の幻獣祭り初日でのパレード及び夜会には是非とも参加していただきたい。 また、一週間後には【狩猟祭】の開催も控えているため、可能であればそちらへの参加もお願いしたい。 我が国においては約二百年ぶりの幻獣の誕生であり、此度の祭りは盛大に祝いたいと考えている」


 招待状を受け取った各国の賓客達は既にこの場に揃っていた。塔の国と共和国は勿論のこと、砂漠の王国や他国の重臣達も顔を並べていたのである。その中には、渦中の国である、帝国の軍人も含まれていた。


「リン将軍も久々にお会いできて光栄です。帝国の方が参加してくだされば、民衆の不安も取り除けるというもの。此度の訪問、誠に感謝致します」


 リン将軍と呼ばれた漆黒の髪を高い位置で結いている暗闇の軍服姿の妙に綺麗な顔の男は、ピクリとも反応することは無かった。胸元に輝く勲章の数、肩章の存在が彼の功績を物語っていた。腕を組みじっとその瞳を閉じたままヌッケン王の言葉など耳には入っていない様であり、酷く静かであった。その様子を弓なりの眼差しで見つめるのは誰であろうか。


「詳細は追ってお伝えいたします故、滞在中はご自由に過ごされよ」


 王のその言葉で会合とは名ばかりの茶番はお開きとなった。真っ先に席を立ったのは、帝国の軍人であるリン将軍。投げ捨てるかのように椅子を乱暴に引き、僅かな苛立ちを込めた足音と共に煌びやかな応接の間を夜風の様に通り過ぎていく。最後に金色の青年を何も灯らぬ射干玉の夜の様な眼で静かに一瞥した後に、入り口の扉を壊さんとする勢いで叩きつけながら室内から出て行ってしまった。ヌッケン王こそ将軍の一つ一つの動作に小さく身体を震わせてその権威を鈍色に塗りたくっていたが、諸国の最たる者達はそれぞれは表情の見えぬ顔で彼の挙動を追っていただけで窺い知ることは出来ない。ライヤに至っては男に小さな礼を返していた程度には余裕があったようだが、露骨に笑みを浮かべている存在など、ただ一人。その人物はゆらりと音も無く立ち上がると、まるでステップを踏むかのように愉快そうに男の後を追い掛けたのであった。それを再び目で追いかけながら見送ったライヤは溜息を吐くも、やはりその表情は案外と悪いものでは無かった。




「貴方が此処に来るなんて珍しいわね」


 豪華絢爛な廊下を足早に歩いていた男は、その声に今度はピタリと止まることで反応を示した。振り返ることはなくとも、男は声の主が誰であるかをはっきりと確信していた。


「貴方でも幻獣は珍しいのかしら?」


 けらけらとせせら笑うような声で男の背中に言葉を掛けるのは、月白の女であった。男が部屋を出る音以外には退室した者の気配などしなかった筈が女は男の背後の壁にいつの間にか寄りかかっていた、にも関わらずその男は眉一つ動かすことはない。


「生憎、冗談に付き合っている暇は無い」


 静かな男の声は、女の真を震わす音であった。それが、彼女にとっては非常に心地良く、同時に無惨に引き裂いてしまいたい衝動に駆られるものであることを男は知っているのだろうか。


「三日後、決行する」


「何の話だ?」


 振り返った男は、無機質な顔のまま女を見つめた。そこには、何の感情も浮かんでいない。


「寝惚けているのか、それとも本当に忘れているのかは知らんが、準備しておいた方が良いんじゃないか?」


 そうそう、彼も一緒よ、という巫女の言葉に男の表情は漸く訝しげに眉を顰めるに至った。


「正気か……?」


「至ってマトモよ。 貴方こそ、それって正気なの?」


 呆れた顔で男に向き直った巫女は、男に近付きその頬にそっと手を当てた。男は、それを冷たいと感じながらもその不気味な心地にはっとしたかのようにその手をぱしりと掴んだ。男が掴んだ手は、やはり冷たい。その冷たさが、漸く男の意識を目の前の女に向けさせたのだが、それは男にとっては幸か不幸か判断を下すことは非常に困難である。


「これ以上は見逃せない——」


 有利なのは己である筈が、その女の前ではまるで無力であるかのように思い知らされる感覚が、男は厭で堪らなかった。現に今彼女を捉えているのは己の筈が、彼女はその艶やかな紅の唇は緩やかな弧を描き、その眼は己ではない誰かへのを苛烈なまでに轟々と巡らせていた。それを見続ける勇気が無かった男は、彼女とは異なる道を選んだ筈が、未だに捉えられているのは己であることを実感させられる正に今の様な状況が大嫌いであった。


「……今の帝国に余計なことはするな」


 苦し紛れの一言は、ぞんざいに彼女の細腕を離すことでやっと吐き出した情けない言葉。己から離した筈のその冷たい熱が、既に恋しいのはやはり己が正気では無いのかもしれないと男に思わせた。今更目の前のに執着するなど滑稽も甚だしい。

 そんな男の胸中も乱雑さも気に留めることはなく、男の胸にぴたりと掌を備えた後に女はするりと離れていった。


「貴方こそ、上手くやってちょうだいね」


 今日はいつもよりも一際彼女の魅力を引き出す衣を纏っているせいか、その姿は稀代の軍師か将又傾国の美姫の如く、態とらしい扇捌きも相俟って大層様になっていた。


「これが引き金となることを、は望んでいるのだから」


 女の眼は先程の苛烈さではなく、かの少年も知る、あの混沌と空虚の矛盾を孕むあの月白へと変わっていた。男にとって、それこそが彼女であった。己の心が凪いでいくことを自覚した男は、漸くいつもの調子で対峙することが叶ったのである。


はお前の好きにすればいいさ」


 似合いもしない嘲り笑いを浮かべた男は、先程とは相反するほど優美な動作で己の手で女の掌を絡めとり、その甲に口付けを送った。互いの眼に互いが映るこの瞬間が、男はこの上なく好きであると同時にやはり大嫌いであった。それでもこの行為がある意味で境界線となっていることを、男も女も理解していたのである。

 一切の名残惜しさを排した動作で女の掌を離した男は、すぐさま背を向けると漆黒の長い髪を揺らしながら颯爽と派手派手しい廊下を歩いて去っていった。


「愚かな男だな——」


 女の顔は嘲笑っていたが、その月白の眼には一縷の哀れみが生まれていたことを、男は知る由もなかった。








 ハルトは浮かれていた。誰が見ても分かるほどに、彼は浮かれていたのである。というのも——。


「ハルトっ! そっち行ったわよ!」


「任せろっ!」


 ハルトの雄叫びと共に彼が持つ鼠銀色のロングソードが、猪型魔物を頭を真っ二つに斬り割いた。白い頭蓋骨までも砕き、赤黒い脳漿が裂け、魔物であった肉塊はどさりと音を立てて呆気なく崩れ落ちた。ぴくりぴくりと反射運動を続ける姿は憐れであるが、そうも言っていられないのが彼らの日常である。


「これで終わりか?」


「あら、油断しちゃ駄目よ?」


「え、わっ! んぐっ!?」


 突如豊満な乳房に顔を埋めさせられたハルトは、その肌の吸い付くような柔らかさと滑らかさ、互いの体温が混ざり合っていく感覚、そして女性特有の甘い香りに酔いしれそうになった。それも束の間、耳元で機械的な銃声を捉えたことですぐにここが戦場であることを思い出した。


「おしまい、ね」


 艶やかな声が頭上から聞こえたのと同時に圧迫から解放されたハルトは、これでもかと顔を赤く染めながらも慌ててその人物に向き直った。


「すみません、ミハネさん……」


 ハルトの声に対してひらひらと手を振って応える女性——ミハネと呼ばれた人物は自分の足元に横たわる沼色の人型魔物を足で蹴りながらその生存を確認していた。


「ハルトさん、右腕を少し負傷されましたよね? いま治療します」


 後方からハルトの元に足早に駆け寄ってきたのは、白いフードを目深に被った人物。その人がハルトの右腕に手を翳した途端、傷口の周りを淡い光が包み込み、彼の腕を傷つけていた鮮血の一線がさっぱりと消え失せたのであった。


「ありがとうございます、ヒナタさん!」


「どういたしまして」


 見えぬ筈の目元が穏やかにカーブを描いているのが伝わるほどの音が、その人——ヒナタの口元から放たれた。優しげな口調は、何処かで聞いたことがあるような気がするし勘違いかもしれない。どちらにしても、ここまで来ても思い出せないハルトはもう既にその事を気にしなくなっていた。ただ分かるのは、ヒナタという人物がひどく優しいということ。

 二人に囲まれているハルトを端で見ていたリーシェは、ふるふると小刻みに身体を震わせていたが、とうとう我慢出来ずに叫んだのであった。


「っハルト! 早く進むわよ!」


 治ったばかりのハルトの右腕を力強く引っ張り、どんどんと先に進んでいくリーシェ。もつれそうになりながら彼女に引っ張られていくハルト。ここまでは見慣れた光景であったが——。


「ふふっ、女の嫉妬は醜いわよ?」


「私達も早く行きましょう!」


 少女の心の内を悟ったかの様な愉快そうなミハネと純粋に冒険を楽しんでいるヒナタ。この二人の存在は、今までハルトが経験した冒険とは異なり、新たな刺激となっていた。彼が求めていた冒険者とは正にこういうものである、と。

 そんな、彼の世界に新たな息吹を注ぎ込んだ二人に出会ったのは、つい二時間ほど前のことである——。

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