第二章9「愉しいお茶会2」

 ライヤが語ったことは、多くはなかった。だが、彼らの関係性は考えていた以上に深いところで繋がっていることがハルトにはすぐに分かった。青年の顔を見ればきっと誰しもがそうであっただろう。

 彼の人に対する気付きたくない情とは異なり単純に羨ましいと思えるもの彼らの微笑ましい思い出話は、実際はそれ以上に、大きな意味での牽制が含まれていたのであったが、ハルトがそれを知るのは、やはりもっと先の話である——。


「俺は、数年前までの記憶がないんだ。 両親の顔は知らず、幼少期の記憶は勿論のこと、数年前まではどんな人間で何をしていたのかすら覚えていない。 気付いた時には既に隣には当たり前のようにカヤラと、そしてが居たんだ――」


 そう語り出したライヤは、記憶がないというある種の傷を負っている者とは思えないほど穏やかな顔をしていた。彼の正確な年齢を知っているわけではないが、ハルトから見て、ライヤという青年は二十歳過ぎ位に見えた。つまり、今のハルトと同じ歳の頃の事すら下手をすれば覚えていないということである。

 彼の口から語られるは、ハルトが認識している通りの奔放さを持ちながらも、垣間見えるのはライヤという人物に対する確かな愛そのものであった。それは、世間で時折語られる彼の人の残虐性など一切の欠片も見せず、ただただ目の前の青年を慈しむ存在の様に思えた。

 ハルトの隣に座る少女の顔が居心地悪そうに歪められているところも見ると、桃橙の少女もまた青年から語られる月白が己の知るその人とあまりにもかけ離れていると考えているのだろう。

 しかし、それが青年の狙いであった。


「――世間から、特に帝国生まれの人々からは良い感情を持たれていないのは知っているし、そう思われるのも仕方がないことだとは思っている。 だが、を守ることが彼女の最優先事項。 遊び心が豊かすぎて誤解を生んでいるのは確かだが、無意味な行為に走るような存在じゃないんだ」


 青年のこの言葉は、双方に全く真逆の意味を持って向けられた事には今はまだその言葉を放った本人しか理解していない。だが、青年の真意に気付くことは出来ずとも、その人を庇う言葉であることはその前の内容からも明らかであった。

 この場においての、いやこの日の単純な意図としては、ライヤはリーシェの中の巫女の印象を少しでも払拭したかったのである。そう言う意味では、彼は清らかな狡猾さを持っていた。自分の言葉であれば受け入れてもらえると分かった上でのずる賢さと、それを行う理由が月白の人に対しての純粋な想い、その両方を宿した人物、それがライヤであった。彼は己の立場も役割も十分に理解した上で、その清らかさを失っていないのである。だからこそ、彼はのであった。

 彼のは徐々に二人の思考を侵食していく――。


「受け入れなくていい。 ただ、彼女とはどうか、共に生きて欲しい」


 甘い誘惑とさえ思えるほどの音で口にした言葉は、くがねの青年にとっての切なる願いであった。

 ハルトとリーシェは、やはり彼の真意に気付くことは出来なかったが、己の内にある月白への不信感を遠回しに優しく指摘されたことで流石に反省したのである。確かに、出会いや彼女との出来事が突拍子もないものばかりであったが、必要以上に警戒しすぎていたかもしれない、と。


(どれだけ優しい人でも、自分の大切な人が疑われたり疎まれたりするのを見て良い気持ちにはなれないわよね……)


 誰よりもそう言う態度を見せていたという自覚があったリーシェは、目の前の青年の言葉が棘はなくともちくりと刺さったのであった。自分でも分からないくらいあの人に対して嫌悪感を抱いていたのは確かで、尊敬する人から言われたからと言ってすぐに認識を改めることは難しいが、せめてあの人を大切に思う存在が居るということは認識しなくてはならないと。自分が帝国に置き去りにしてしまった祖母を大切に思うように、誰しもに思い思われる存在がいるのだと。

 俯いてしまったリーシェを暫し心の見えぬ顔で静観していたライヤだが、次の瞬間にはいつもの凛々しくも優しい顔に戻っていた。


「そういえば、リーシェさんは帝国の呪詛を祓う方法を探していると聞いたが――」


 ライヤが切り出したのは、リーシェの心中を察したかのような話題。今は入国禁止となっているリーシェの母国のことであった。

 原因不明の呪詛に阻まれ、誰も何が起きているのかを知ることが出来ないと言われている帝国だが、次いでライヤが口にしたのはあまりにも衝撃的なことだった。


「祓う方法に関しては分からないが、帝国に入国するだけなら方法はある」


「え……?」


 のろりと顔を上げたリーシェはぼうとした表情を浮かべながら目の前の青年の言葉を理解しようと努めていた。


「一定の条件を満たしているSランク以上の人であれば、自由に出入りすることができるんだ」


 ハルトは勿論、リーシェにとってもそれは初めて知る事実であった。徐々に見開かれていく大きな瞳は、驚きのあまりこぼれ落ちそうなほどである。


「そ――」


「それってどういうこと!?」


 尋ねようとしたハルトの声を奪うように、焦燥感を纏ったリーシェはバンッと机を叩いて立ち上がった。が、すぐに相手がライヤであることを思い出し、小さな身体を震わせながら「すみません――」と呟き椅子に座り直した。

 対するライヤは、少女の態度を気にした様子はなくいつも通りの落ち着いた姿で話を続けた。


「そもそも帝国内に蔓延っている『呪詛』は何らかの術師が施したものであると言われている。 呪詛は一般人や下位ランクの者、つまりマナが少ない者であれば影響はあるものの、術師よりも上位ランク術師であれば強い影響を受けることはまずない。 また、魔導具や解呪具を身に付けた場合も影響を受けることはない。 【加護】のスキルを持っている場合もそうだ。 現在、呪詛を施した者はSランク以上であることが判明している。 つまり、Sランク以上の術師や道具やスキルで優っている者であれば呪詛による影響がないため問題なく出入りすることが出来るんだ」


「つまり、相手より強ければ問題ないってことですか?」


「そんなところだ。 呪詛により肉体的にも精神的にも影響はあり、かつ国外に出ることが出来ない様に何者かが施した見えない壁に阻まれてはいるが、意外にも経済状況は落ち着いていてな、 俺も何度か調査に赴いたが、少なくとも首都シューデンの人々は生活という面においては問題なく暮らしているように見えた。 一部では【箱庭】なんて呼ばれ方をしているが、確かにその通りだと思えてしまうほどには、国としては成り立っていた」


「問題が無いなら、自治区なんて……」


 苦々しげに呟いたリーシェの言葉の中で、聞き慣れない単語を見つけたハルトは首を傾げたが、ライヤはゆっくりと頷き彼女の言葉を肯定した。


「その通り。 元々帝国への不満を抱いていた者も居るだろうが、現在の帝国の状況を不審に思った上位ランクの者達も自治区へと逃れていることを踏まえると、やはり問題が無いということは無いという結論に至った。そのため、塔の国を含めた各国は定期的に帝国の内部調査を行っているんだ」


「あの、自治区って……?」


「自治区というのは、五大国のそれぞれの領地内で支援を受けながらある程度独立した内政や経済活動を認められている区域のことだ。 塔の国の場合、首都以外の地方政治はそれぞれの領主に基本的には任せているが、政治を学びたいという意欲的な者達が集まったいくつかの自治区も存在している。 内政に関わる中枢メンバーになるには塔の国で試験を受ける必要があるが、自治区がモデルケースとして認められれば、周辺区域を含めて正式な領地と見なされもっと大規模な領地運営が可能となるんだ。他に、砂漠の国【アーヴィッコ国】では遊牧民達による自治区、このリタリヤロ公国でもドワーフ達による自治区が認められているが、帝国には自治区が存在していなかったんだ」


「でも、帝国での呪詛騒ぎの直後に、塔の国の領地に帝国自治区と名乗る【カラタ自治区】が現れたのよ……」


 眉を顰め、苦々しげにリーシェが告げたのは、問題が無いということを拒否する言葉である。


「帝国は王族の他に魔術師団や軍部の発言力も大きく、特に軍部に対して不満を抱える人々が多かったこと。 さらに流行病で人々が疲弊していた直後に呪詛事件が起こってしまったことで、帝国という国自体を恐れる人々が増加したこと。 この二つが主な要因となり国外へ逃れる人々が増えた結果、帝国の誇りを持ちながらも新たな帝国を築こうとする帝国自治区が発生したんだ。 彼らの目的が帝国の呪詛を祓うことなのか、それともこの件を利用して帝国を覆すつもりなのかは定かではないが……今のところ大きな動きは見られないためこちらからもある程度の経済的支援はするが、内政に関しての口出しはしないことにしている」


「なるほど……ってあれ? そもそも他国に勝手に自治区とかって作って良いものなんですか?」


 ハルトの何気ない疑問に、大きな溜息を吐いたのはリーシェであった。先程までの緊張感はどうやら霧散してしまったらしい。向かいに座るライヤも、困った顔をしていた。


「本来であれば許されるものではないが、帝国と塔の国の関係は少々複雑でな……簡単にいえば、帝国も塔の国も元々は一つの国だった、といった所か。 故に、彼らの理論では塔の国内で帝国の自治区を作ることも問題無いということらしい。 彼らの言わんとすることは分かるし、塔の国の統治者がアレなので、一応認められたということだ」


「というか、元々公国も帝国の領地だったんだけどね。 そんなことよりハルト、明日王立図書館に行くわよ。 アンタは知らないことが多すぎるのよっ!」


 ハルトの横の少女は、もうすっかりいつもの調子に戻っていた。それくらい、ハルトのこの世界の常識は欠けていたのだが、今はそれでいいと密かに彼は思っていた。

 帝国の話をする彼女は苦しげで、それでも何もしてやれない自分が悔しくかったハルトは、己の無自覚ではあるが些細な一言で彼女が元気を取り戻すなら、己の無知も悪くないと思えたのだった。勿論、知りたいことは多いが、ハルトが知らないことに対して隣の彼女がお節介な小言でハルトを責め立てるのであれば、ゆっくりと知っていけば良いとこっそり己の好奇心を抑えたのであった。


「本当、ハルトは物を知らなさすぎるのよ! それに、美人を見るとすぐに鼻の下を伸ばしてだらしない顔になるし、可愛い子を見つけるとイヤラしい目でガン見してるし!」


「ちょ、ちょっと俺そんな顔してる!? てかそんな目で見てないし!? 確かに、あの子可愛いなーとか思うけど、別に女の子だけ見てるわけじゃ無いからな!?」


 既に論点は遥か彼方にズレてはいるが、自然体な二人を静かな笑みで見詰めている青年は敢えてしばらく口出しはせずに、目の前の宝石細工を味わうことにした様だった。残りは稚龍のみになった頃、龍の左眼を銀の鉾で抉り取り満足げに微笑んだ後、その左眼を殊更ゆっくりと味わっていた。

 ややあって、支配人がライヤに声を掛け彼が厨房へと呼ばれたため、その隙にハルトとリーシェは言い争いを続けながらも絶品オムライスに目を輝かせるのであった。そんな少年少女の様子を、テーブルの上の片眼の龍がその窩から見つめていた——。



 


 ライヤが戻ってきたのは、二人が持ってきてもらったデザートまで食べ終わりそれぞれ飲み物と共に一休みしていた頃。絶品グルメのお陰か既に二人の舌戦は幕を閉じ、満腹感で満たされている時であった。


「今回こそご満足頂ける作品だと思ったノニ!!」


 幼さの残る音にしては大人の様な言い回しが混ざる不思議な喋り方。ハルトもリーシェも聞いた事のない声であった。何事だろうかと不思議に思って二人が声の方に視線を向けると、思わずギョッとした顔になったのである。


「ちゃんと美味しかった、とお伝えした筈ですが?」


 平然と告げるライヤの肩の上から、藤の幼女——いや、トックブランシュの間から淡い藤色の髪を靡かせた幼い女の子が顔を出していたのであった。彼の首元にしっかりと抱きつき、胸元あたりにはがっしりと足を巻き付かせて落とされないようにしているのだろうか。そんな必死な女の子とは異なり、ライヤは手を添えて手助けすることもなく涼しい顔で静かな拒否を示していた。心なしかひくりと顔が引き攣った支配人が二人の背後に付き従っているが、彼もまた女の子の振る舞いをその場で注意することは無かった。


「その言い方ハ満足してない時の言い方デス!!」


 むぅとむくれた顔も見せた女の子は、殊更ライヤへの拘束を強めて何故だなぜだと駄々を捏ねるかのように問い質していた。そんな姿に呆れと諦めと何かが混ざり合った重い溜息をひそりと零したその人は、先程までの完璧な支配人の姿へと立ち直っていた。


「ヴィス、ライヤ様がお困りですよ。 いい加減離れなさい」


 努めて己の為にではないと言い聞かせながら支配人——マツは藤の妖精にぴしゃりと告げた。くるりと顔を背後にいるマツに向けたヴィスと呼ばれた彼女は、じっと彼の顔を見つめた後にあっさりとライヤの首元から離れたのであった。

 しかし、やや疲れ気味のライヤがハルト達の前に再び腰を下ろしたと同時に、今度はライヤの膝の上にひょいと飛び乗ってきたのである。驚きながらも幼女とイケメンは絵になるな、と場違いな感想を抱いていたハルトは思わずじっとその光景を見てしまったのであった。マツの営業スマイルがぴしりと固まっているが、それも想定内だったのであろうライヤは、軽い溜息を吐いた後にヴィスを膝に乗せたまま、少しだれた龍達を銀で掬っては口に運んでいた。


「デザート、美味しかっタ?」


 それは急な言葉だった。向けられたのは好奇心。大きな藤色の目がじっとハルトを見ていたのである。


「え? あ、めっちゃうまかった、デス」


 急なことで思わず彼女の様なカタコトは話し方になってしまったハルトだが、ライヤが居ない間に済ませてしまった食後のデザートに、ハルトはひそりと感動していたのだった。日替わりデザートといえば、食後のちょっとしたオマケの様な感覚で、あったらラッキー程度であったのだが、この店の物はそうでは無かった。その一品だけで充分な満足感が得られるほどの美味しさで、むしろもっと食べたいと思わされるものであった。

 彼の反応を目にしたヴィスは、ライヤの膝の上で満足気に頷いていた。


「ムース・オ・ショコラは子どもに人気のデザートダ! 今日はコレにして正解だったというわけダナ!」


 その言葉を口にするには些か違和感がある人物だが、ハルトという少年がそれを言い返せるわけはなく、彼は愛想笑いを返すのが精一杯だった。 


「もしかして、さっき話していた彼女って……」


 その口ぶりと、ヴィスの格好から予想したリーシェの言葉に肯定を示したのは、黙々と甘味を食べ続けていたライヤであった。


「あぁ、この方は、此処『アフェクシオン』のパティシエであるヴィスさんだ」


  ライヤの膝上から降り、テーブル脇で子どもとは思えぬほどの優雅な動作で頭を下げたヴィスは、確かに見た目通りの人物ではないのだろうことが窺えた。

ライヤが足繁く通う通っている点やハルト自身が体験した結果を踏まえると、相当の技術力の持ち主である事は容易に察することができるが、どうにもそれ以外に何かあるのではと疑ってしまうのは、ハルトが此処に来てから身に付けてしまったある種の疑り深さのせいなのだろうか。塔の国ならばまだしも、此処は公国であり比較的見て感じたままだという印象を抱いていた彼は、流石に考え過ぎかと己の思考を振り払い、リーシェとヴィスの楽しげな菓子談義にそれとなく加わっていったのだが——。


「チョコレートムース、とても美味しかったです! 他のデザートも食べてみたいなって思いました」


「一番人気はガトー・オ・フレーズ、ショートケーキだカラ、もし公国に滞在するのならまた食べに来ると良イ!」


 他愛ない会話の中には加わらず、金の青年がとある一点に鋭い視線を遣っていたことに誰も気付くことはなかった。







どうにも読めない男だと、マツはひそりと己の額の汗を拭った。薄ら暗いことを指摘されれば、自分の短気な性格上、反射的に殺気を放ってしまうのは直さねばならぬ癖だとは承知しているが、格上の相手だと分かっていたからこそ理性が働いてくれたお陰で一瞬でそれを仕舞うことができたのは幸いであったか。男の顔を見れば親切な忠告だと察することができたものの、顔が強張っていた自覚がマツにはあった。安堵の息を漏らすことができたのは男が去っていったつい先程のことである。

男——ライヤは公国所属では無いとはいえ、それなりに付き合いを重ねる内に程良い正義感を持つそれなりに清廉な人物だと思っていたマツは、今回の件は意外とも思わされるし納得も出来た。


(まぁでも結局、ではあるんだよなぁ、アイツ)


客の前では絶対に出すことはない本来の自分。それすらもライヤという男は見透かしているのかもしれないが、それは大したことではないと見ない振りを決め込んだマツは、男に言われた事を思い返して今度は大きな溜息を吐いた。


(念の為、に報告しておくか……)


 男の言葉は、今のマツにとっては実際にも大したことはないため脅しにはならず、むしろそろそろ潮時であろうと考えていたところに良い助言であるとさえ思えたのだったが、それだけではないのが難しいところであった。故に、彼は報告せざるを得ないのだが、なるべくならば必要以上に関わり合いたくないというのがマツの本音であった。どうせ彼方も潮時なのは分かっているだろうが、それを指摘したのがであるのが最もたる問題であった。


だと思ってたんだけどなぁ)


 ライヤという男は完璧な様でいてそうではない、近寄り難いかと言われればそれもまた違うが、かといって積極的に関わるのはそれなりに難しく、それでいてやはり何処か人を惹きつける魅力があり気付けば寄って行ってしまうのである。それも男女問わずに。

 白と思っているのも実は思わされているだけかもしれないと、マツは改めて男を探るべく調査するべきかと思案したが、ふと気になったのは男が連れていた二人の人物——ハルトとリーシェである。

 マツから見て、二人は正直に言って何の変哲もない平凡な少年少女。特に、少年の方は特筆すべきものは何も見当たらない至って普通の子どもである。鑑定スキルが無いマツからするとそれだけの印象であるが、ヴィスが二人に懐いていたのが妙に気になったのであった。


あの男ライヤといいヴィスといいやたら二人を、いや、あれは餓鬼ハルトの方か……)


 今すぐどうということはないのはハルトという少年を見てすぐに感じたが、無視をするには妙に引っ掛かる。それが何から来るものなのか、情報不足であるマツには判断ができなかった。


餓鬼ハルトの事はまぁいいか……この件に絡んでる訳じゃねーだろうし)


 とある人物の顔を思い浮かべながら、己の明解ながら複雑な立場に溜息の一つでも吐こうと思っていたところ、


「マツ! ワシは仕込みに戻るゾ!」


 顰めっ面をしていたマツを案じたのか、ヴィスはライヤの時とは違い正面からがばりと彼に飛びついたのである。急な衝撃に驚きながらも、未だ人の目はある為か己にしがみつく体温を抱え直しながら甘い顔を見せないようにと必死で顔を引き締めているマツの姿は、その努力とは裏腹に声音から滲み出ていた。


「全く……貴女はその姿の時だとお淑やかに出来ないのですか?」


「誰かさんガ嫉妬心剥き出しだったお陰でワシは機嫌が良イゾ!」


「やはり、ワザとでしたか……」


「愛い奴ダナお前ハ!」


 くすくすと幼女とは思えぬ笑みを浮かべるヴィスは、不思議とそれが似合っていた。体付きとは異なるその艶かしい顔は、見るものを魅了するかのようである。

 しかし、マツは彼女を知っているからこそ、惑わされることはなかった。


「そっくりそのまま、お返ししますよ」


 そう言って額に口付けをすれば、ヴィスは忽ち顔を赤らめさせた。その顔からは、先程の艶やさかが逃げ出し、幼女の姿に戻ったかの様でいて、初心な女の顔をしていた。


「バーカ!」


 慌てて飛び降りて厨房へと去っていく背中を熱の籠った眼で見つめていたマツは、先程まで考えていたことなどどうでも良くなっていたのであった。


「俺は、これが続けば何でもいいんだよ……」

 

 それは、哀れな男の哀れな願いである——。







 ハルト達が華やかな街を歩きながら次に向かっているのは、アフェクシオンからほど近い別の菓子店であった。

アフェクシオンでもそれなりに甘味は食べ、テイクアウトの品もおおよそ一人で食べるにはあまりにも過ぎるほど購入していたライヤは、それをさっさと空間魔術で何処かに送ってしまったが、高等魔術をこんな使い方をする人物はそう多くないと思いたいと、ハルトとリーシェは呆然とその姿を見ていたのはつい5分ほど前の話である。

会計の際に支配人のマツが自己紹介と共にハルト達にも会員証を渡してくれたため、彼らも晴れてアフェクシオンの顧客入りを果たしたのだが、帰り際にライヤがマツの耳元で何かを告げていたのがハルトは気になった。一瞬マツから強張った顔と殺気のようなものを感じたが、対するライヤが困ったような笑みを浮かべていただけであり、気のせいかもしれない。詳細も分からないし、リーシェと共にヴィスからの質問攻めにあっている最中でチラリと見ただけであったため、その後もふとした時にアフェクシオンを思い返したときに連鎖の様に漸く思い出す程度であるが、彼の中に僅かな芽を植え付けたのであった。

 それがどんな花を咲かせるかは、まだ誰も分からない。

 兎に角、この時のハルトは既にその違和感を忘れてしまっていた。それもそのはず、アフェクシオンの後にライヤが二人を連れていったのは、ピンクや白やらの飾りが施された女性客99%の異様にファンシーな店であったからである。ショーケースに並ぶケーキ類も、見た目がやたらとデコレーションされたものばかりで、ハルトには一体何がどうなってそうなったか分からないほどの品ばかりであった。

 ライヤが店内に入った瞬間、女性客達の目がギラリと光ったのをハルトは見逃したかったが、ライヤの後ろを歩いていた彼は正面から目撃することとなり、彼女達の威圧感に押し潰されそうになっていた。敢えてなのかそれとも鈍感であるのか、ライヤは一切気にした様子を見せずに、ショーケースの品々を吟味した後に、アフェクシオンの時とは比べ物にならないほど少ない数を購入して早々に店を出たのであった。店員はやたらと彼に頭を下げていたのが印象的である。


「あの店は、若い令嬢の間で流行っているそうだ」


  ライヤにしては曖昧な表現であったが、どうやら彼も初めて訪れた店であったようだ。新しくできたばかりの店舗らしく、勉強熱心な彼はわざわざ足を運んだのだと、ハルトとリーシェは後に知った。

 そんなふうに、ライヤはカシヴァルシ内の菓子屋を巡ったのであった。ハルトとリーシェに時々街の説明をしながら、時に一個二個、時に数十個とそれぞれの店で買い物をし、高尚な高等魔術を庶民的な利用法で次々と繰り出していた。最初の方こそ、リーシェは興奮したようにライヤの魔術を見ていたが、後半に連れて呆れを込めた目で憧れの人を見ていた所から、その数を図ってもらいたい。

 アフェクシオンを出て一時間ほど経った頃だろうか、一件の古めかしいパン屋で小さなマフィンとコーヒーを買い、三人は近くの広場で並んで食べていた。そのマフィンは、高級感も無く如何にも老職人の手作りなそれであったが、不思議とアフェクシオンで食べた艶やかな甘味よりもハルトの身体に染み渡った。

 歩き続けていたこともあって疲れていた身体を甘さが癒してくれる一方で、ハルトはぼうと何気なく隣に座るライヤの横顔を見た。


(ライヤ隊長ってやっぱだよなぁ)


 彼と街を歩く中で、ハルトは大勢の視線を浴びた。正確には、彼に向けられる視線の数を目の当たりにしたのである。老若男女問わず、種族を問わず、殆どの生物が彼に目を奪われていた。容姿だけで言えば、おそらくもっと整った人物は居るのかもしれない。だが、彼の場合はもっと異なる要素が彼に惹きつけられる原因を作り出している気がしてならなかった。例えばそれはマナであったり、剣技であったり、性格であったり様々であろうが、こんなにも万人を魅了する存在にハルトは今まで出会ったことがなかった。

 しかも、そんな存在と並んで安っぽい焼き菓子を頬張ることになるとは、つい数ヶ月前までは思っても居なかったのであるから、世の中不思議なものであると。

 不思議と言えば、もであるが——。


「そう言えば、先程は話が途切れてしまったが……」


 咀嚼音と長閑な街の呼吸音だけの世界に、青年の清らかな声が響き渡った。月白へと沈み込みそうなハルトの意識をさらりと掬いあげた金は、まるで彼を繋ぎ止めたかったかのようだった。


「次の帝国への視察にカヤラが行く予定なんだが、もし良かったらリーシェさんのご家族の様子を見て来るように頼んでみようか?」


 その言葉に、ハルトはもちろんだがリーシェは驚きのあまり声を無くしていた。彼女の手からぽろりと零れたマフィンの欠片が音もなく地面に落ちる。狙っていたのだろうか、小さな蟻達がそれをせっせと運んでいる。ハルトの影が一瞬蠢き、その列に沿って興味深そうに細く長く伸びていくが、誰も気付かない。


「い……いいんですか……?」


「構わないさ、行って特に何かしている訳ではなく国内を見るのが目的なだけであって、それが帝国内のどこであっても問題はない。リーシェさんのご家族が住んでいる付近で調査をすれば良いだけの話だ。連れ出すのは出来ないが、何か伝えたい事があれば遠慮なく言ってくれ」


「あの! それなら、おばあちゃんに……絶対立派な魔術師になって迎えに行くから、待っていて欲しいって伝えて貰えませんか? 今は未だ全然だけど、必ず迎えに行くからって……!」


「承知した、伝えるようにあいつに頼んでおこう」


「ありがとうございます……!」


 目を細め優しげな顔で力強く頷いたライヤは、きっとあの蒼穹の魔術師に一字一句違えることなくリーシェの言葉を伝えるのだろうと、ハルトは疑うことは無かった。リーシェもまた、涙を流しながら礼の言葉を口にするのであれば、己の言葉が大切な人に届くであろうことを既に確信しているのであった。


 そんな彼らの足元で起こる出来事を見ている者は、やはりには居ない。巣穴に入っていく薄茶色の欠片と小さな黒い列は、後を追うように侵入するそれに気付けない。だが、もう手遅れであった。それが入ったが最期、無数に広がる抜け道を黒々とした無数の影がぬるぬると覆い尽くし、一際大きな女王を探し当てた途端、巣穴の全てが闇に包まれた。次の瞬間、数百匹の蟻の姿は消え失せ、地面の下にはただの空洞が姿を現したのであった。ぽつりと落ちているのは、甘い香りの漂う小さな欠片のみ。満足げな影はゆらゆらと蠢きながら、ハルトの足元にくぷりと波打ちながら戻っていったのであった——。

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