第二章7「茶会の前の一波乱」

 その異変は、長くは続かなかった。ハルトとリーシェは思わず臨戦態勢を作ったが、他の人達は受付嬢も含めて動じた様子は無かった。機械的な笑顔を崩す事なく機敏な動作で業務をこなす受付嬢、申し訳なさそうに古ぼけた衣を纏った頭を巫女に向かって下げるクリック、晒された麗しい胸元を大袈裟なまでに上下させてやれやれと言わんばかりに肩を竦める巫女、乱れを知らぬ様な佇まいで無表情のまま静かに控えるルティル。どうやら、彼らは皆事情を把握しているようであった。


「クリック殿、うちのが迷惑を掛けてしまったようで申し訳ないわね。修繕費は私のギルド……いや、私個人の名義で請求しておいてくれ。職人の手配も此方でやっておこう」


「いえ、此方こそいつも御贔屓いただき嬉しい限りで御座います」


 店舗と顧客との何気無いやり取りの横でハルトとリーシェは疑問符が浮かぶ頭を捻らせていたが、巫女達の様子と殺気を感じられないことから危険性が無いことは窺えたため、のそのそとそれぞれの獲物を仕舞い込み、手持ち無沙汰にぼうと佇みながら成り行きを見守るしか無かった。

 暫くすると、受付カウンターの奥にある重厚な扉からゴンッと一度大きく叩きつけられたような音がした後、古びた鉄が擦れるような音と共に徐々にその扉が内側から開かれていく。巻き起こる風と白煙の中から一人の人物のシルエットが浮かび上がってきた。美しく伸びた背筋とゆっくりとした動作、さらにはきらきらと輝くマナの残滓を伴っている為か、ハルトとリーシェは勿論、クリックや受付嬢でさえも感嘆の息を吐かずにはいられなかったのであった。


「随分やんちゃしたみたいね、ライヤくん?」


 腕を組みながら愉快そうな表情を浮かべた巫女は、シルエットの正体、ライヤへと揶揄いの言葉を緩やかに投げ掛けた。そう、輝きと軽い吐息を伴って扉から出てきたのは、昨日ハルト達と慌ただしい約束を交わしたライヤであった。微風が囁く中で髪をかきあげる彼の仕草は、普段よりも艶やかさを秘めていた。男女ともに虜にするようなその姿が誰かに似ていると薄っすら気付いたのは、口を半開きにしながら見惚れていたハルトであったが、彼自身もその事をこの時は深く刻んだわけではなかった。


「貴女が加減をしなくても良いと言ってくださったので……」


「ふふっ、別に怒ってないわよ。それより、満足のいく判定は出たのかしら?」


「はい、疑ってしまい申し訳ありませんでした」


 巫女への謝罪のために頭を下げようとしたライヤであったが、それをいつものように手で遮った彼の人は、打ち鳴らすヒールの中にさえ穏やかささえ潜めながら金色の青年の前に進み出た。下げそびれた頭を定位置に戻した彼は、目の前の月白が何をするのか大人しく待っていた。上質な白いシャツと璃寛茶のスラックスという普段よりもラフな装いの彼の首元は、常であればかちりと止められているだろう釦が2つほど外されており、そこから覗く鎖骨は艶めかしさと逞しさが共存している。そんな彼の襟元にそっと白い手を添えた巫女は、嗜めるようにその手を少しシワのついた開かれた襟を愛おしむように撫ぜながら正していく。


「全く……身なりも整えずに出てくるなんてせっかちな男は嫌われるわよ?」


「時間もありませんし、俺の為に待たせてしまうのも申し訳ないと思ってつい」


 二人の並ぶ姿は美しかった。まるでその世界には何者の踏み入ることが出来ないと思わされるほど——。

 その光景は、ハルトが抱いた憧憬の中に、ちくりとした痛みをもたらしたのだが、その所以を彼自身が知ることは遥か先のことであるし、それが杞憂に終わることを知るのもまた先の話であるのだが、それであっても今現在の彼にとっては、並ぶ月白と金に対してどうしたって様々な感情を抱いてしまうのであった。

 先程からの展開に着いていくことが出来ない頭であっても、その光景の単純な美しさに見惚れるだけの余白は残されていたため、彼と、ついでにその隣のリーシェも高揚と恍惚により頬を薄紅色に染め上げながら依然としてぼうと佇んでいたのであった。


「その通り、時間は有限だ。まったく……貴方の身なりを整えている暇なんてないのよ? 急いで休息を謳歌してきなさい。私が申し訳なく感じる前に、ね」


 その言い方は、まるで母親が子に言い聞かせるような声音で発せられた言葉であった。その顔も、である。言われた青年は、その言葉の真意を確実に察していたが故にふわりと陽だまりのような笑みを浮かべて、諾の意を相手に伝えていた。


「悪いが、我々はこれで失礼する。あとのことは、そこのわんぱく坊やに聞いてくれ。クリック殿、請求書の件は後日改めて連絡する。ルティル——」


 ルティルはどこからともなく取り出したジャケットをライヤに着させて彼の身なりを整えていた。その姿はやはりいつもの騎士然とした衣装よりはラフではあるものの先程までの身軽さとは異なり、公国の街並みに溶け込むことができるものであった。ジャケット一つでここまで変わるとはと思わされるが、たったそれだけの違いで人は最も簡単に己の印象を操ることができるのである。

 漸く通常通りの意識を取り戻したハルトはライヤの整えられていく姿を見た後に、ふとその向かいにいる人物に改めて目を遣った所でやっと気付いたのであった。


(あれ? そういえば巫女様、なんか服がいつもと……)


 ハルトの視線の先の巫女。彼の人の姿は普段の君主と術者を掛け合わせた様な衣装とは異なり、白を基調としたドレスを纏っていた。肩が隠れてはいるものの胸元が大きく開かれ、細い腰が強調されるコルセットのような太陽と月を模した帯飾り、スカートの丈は長く裾は大きく広がってはいるものの、膝上辺りから彼女のすらりとした脚は薄いレース越しに人々の目に晒されている。上品さの中に艶やかさと彼女の奔放な性格を表したかのような布の配われ方が見え隠れする、彼女に相応しいドレスであった。

 最初に感じた彼女への違和感の正体に気付いたハルトは、思わずまじまじとその姿を観察してしまった。レース越しの彼女のしなやかな脚、飾り付けられた括れた細腰、白い肌と乳房の一部が外気に惜しげもなく晒されている胸元、そして艶やかに笑う紅の唇——。


「——っ!!」


 彼女の口元に目が行ったハルトはいつかの出立の出来事を思い出し、沸騰しそうなほどの熱を頭に感じた。清純さと蠱惑さが入り混じった彼女の姿だけでも破裂しそうなほどであったのに、さらに彼女の温もりや香り、感触を思い出させる紅を見てしまえば、初心な少年は自身の血流に逆らうことなく身体を強張らせて立ち尽くすのであった。

 彼の全てを見透かしたのであろうか、巫女はハルトに近付きするりと彼の頬を人撫でしてから、


「こう見えて、偉いのよ私」


 睦言の如くな色を以て耳元で宣い、何事も無かったかのように無垢な少年から離れ木製の扉に向かって歩き出した。残されたハルトは既にキャパオーバーであったのだろう、頭から湯気が出ている気色のままに呆然とその美人の後ろ姿を目に入れず目に入れたまま立ち尽くすのみであった。

 侍女によって開け放たれた扉を颯爽と通り抜けて、月白を靡かせながら塔の君主は喧騒の中へとあっという間に消えていった。




 

 ハルトとリーシェがライヤに連れられてやって来たのは、街の中心から少し外れた、騎士や冒険者が行き交うエリア。クエスト用の魔導具や治療薬などを取り扱う専門店や気安い飲食店など、他の国よりは小綺麗なれど似たような雰囲気を持つ街並みは、ハルトに安心感を与えた。そんな店が立ち並ぶ中でも、さらに外れの場所にあるのがハルト達の目的地である。

 先程の【モイテュオ】での慌ただしい別れの後にライヤから提案されたのは、ハルトの武器の調達を手伝わせて欲しいというものであった。どうやらこれも巫女の差し金であることに違いはないのだが、今回彼女は国賓として公国に招かれており公務を優先する必要があるためいつものような好き勝手が出来ないらしく、事前に公国入りをして公務をある程度終わらせているライヤが代わりとしてハルトに付き添ってくれるらしい。エルミナーニャの護衛クエストは急遽頼まれたものであり、武器の調達を満足に行うことが出来なかったため、それに対する巫女なりの配慮と言えば聞こえが良いだろうか。


「元々はこちらの都合でハルト君の予定を狂わせてしまったのだから、その詫びにはならないかもしれないが、俺に任せてくれないか? 勿論、腕利きの鍛冶職人を紹介するつもりだから安心してほしい」


 巫女直々に言われればリーシェは勿論ハルトでさえも裏を探ってしまいそうになるが、同じ事をライヤという好感度最高峰の青年に言われると不思議なもので拒否の言葉など二人の中では到底浮かぶ筈もなく、彼の流れるような誘導によってあれよあれよという間に目的地へと辿り着いてしまったのであった。

 ライヤがぴたりと足を止めたのは、煙突から薄灰色の煙が昇る立派な工房。


「アルヴィ殿は気難しいと言われるドワーフ族ではあるが、気さくで優しい御方だから遠慮なく相談するといい」


 そう言うと、ライヤは穏やかさと勇ましさが混ざり合った背中をハルト達に向け、彼らを先導するように工房の中へと向かっていった。その後ろを慌てて着いていくハルトの後ろでリーシェがぽつりと呟いた言葉は、残念ながらハルトには届かなかったのだが——。


「【アルヴィ】ってまさか……!」


 ハルトは忘れていたのである。目の前の人物は確かに誰もが優しく尊敬するほどの青年であるのだが、彼もまた規格外であるということを——。

 


 工房内は手前は販売エリア、表からははっきりとは見えぬものの奥側には鋳造エリアが広がっており、数人の職人らしき男女が慌ただしげに汗を流し、ぽつりぽつりと客であろう人物達が武器を精選していた。所狭しと並ぶ武器の数々は、冒険者や戦うことを生業とする者であれば垂涎の光景である。初心者が持つような簡素な剣や杖から、紅や青を基調とした特殊加工の短剣やレイピア、大袈裟さなまでに羽のような装飾が施された弓や魔導銃まで種類も色彩も豊かで在った。その分値段の幅も広く、武器の出来栄えに見惚れていたハルトとリーシェは、チラリと見えたその値段にギョッとしたり顔を青褪めさせたりと忙しなかった。

 そんな二人とは異なりライヤは慣れた様子で販売エリアを抜けて工房エリアの受付へと進みスタッフへと声を掛けていた。


「塔の国のライヤだ。 約束をしているのだが、アルヴィ殿は居られるだろうか?」


 ライヤの顔を見ただけでスタッフは歓迎ムード全開で彼を迎え、奥の工房へと誰かを呼びに下がっていった。道中の視線からハルトはもしやとは思っていたが、どうやら彼はこの国でも有名なようである。客達も彼を見て小さなどよめきと憧憬の視線を向けていた。そんな人物に付き添ってもらうとは、もしやとんでもないことなのではないかとうっすらハルトが感じ始めていた頃、奥から先ほどのスタッフが誰かを伴い現れたことで、彼のその予感は的中以上の効果を発揮したのである。


「おぉ、ライ坊よく来たなぁ! お嬢から話は聞いてるぜぇ」


 少し独特な語尾の伸ばし方でライヤに話し掛けたのは、ドワーフ族の中年男性であった。ハルトよりやや低いくらいであろう身長で頭は大きめ、口の周りにはふさふさとした髭が生えており身体付きはとてもしっかりしている。正しくドワーフ族といった風体であり、ハルトは初めて見たドワーフ族に好奇心を隠すことなく瞳を輝かせていたのだが、周囲の反応は彼とは少し違っていた。


「まさか……あの【アルヴィ】さんに打ってもらえるのか!?」


「『海を切り裂き山をも砕く』という伝説の剣を生み出したあの【アルヴィ】さんに造ってもらえるなんて……!」


「選ばれた者しか【アルヴィ】さんには造ってもらえないんでしょ?」


「そもそも【アルヴィ】さんの武器を使いこなすことなんて出来るのか……?」


客達がひそひそと話す内容から、どうやら【アルヴィ】という目の前のドワーフはとんでもない有名人であることが窺えたハルトは益々目を輝かせていたのだが、


「ねぇハルト、【アルヴィ】さんが造った武器って、1億マルカは下らないって聞いたことあるんだけど……」


 と隣で冷や汗を流しているリーシェがこそりと彼の耳元で告げた言葉で、彼の顔から一瞬にして血の気が引いてしまったのであった。


「ハルト君、リーシェさん、こっちに来てくれ!」


 まるで錆びついたブリキのオモチャの如くぎこちない動きで首を回した二人の視線の先には、物語の王子様のような優しい笑みで手招きをする金色の青年が一人。常ならば喜んで走り寄っていきたい所なのだが——。


「そう言えばライ坊、この前打ったやつの使い心地はどうだぁ? 一応お前さんの力にも耐えられるくらいの強度にはしたつもりだったんだがなぁ」


「先日一人でSS級ダンジョンに潜った時に【ジズ】で試させて頂いたのですが、強度が少しばかり物足りなかったですね……汎用型としては申し分ないと思うのですが、俺がサブとして使用するにも今一つでした」


「【ジズ】相手にその評価となるともう少し考える必要があるなぁ……後で詳しく聞かせてくれぇ」


 それは彼等にとっては何気ない会話であったが、客達にとってはとんでもない内容であった。


「おい、今【ジズ】って言ったか!?」


「まさか【SS級レア魔物:ジズ】の事か……!?」


「SS級のしかもレアを単独討伐したって、嘘でしょ……?」


「しかもさり気なくアルヴィさんにダメ出しまで……!」


 どよめきになりつつある客達の声は、ハルトにもしっかりと届いていた。そして、やっと思い出したのである。アルヴィの隣でハルトとリーシェの事を優雅な佇まいで待っていてくれている金色の青年は、その穏やかな姿に反してとんでもなく規格外の実力を持っている頂きに近い存在であるということに。

 彼を待たせてはいけないという焦りと価格を含めた未知への領域に対する不安が内心に吹き荒れていたハルトが意を決して青年に近付く姿を見ても、精々青年の荷物持ちだろうという程度の認識で以て客達がハルトを見遣ったのは不幸中の幸いである。まさかこの少年こそがこれから【伝説の鍛冶職人:アルヴィ】の客として迎え入れられるなんて、客達は誰も思うまい。

 ただ、目の前の青年の優しい悪意のない笑みがじりじりとハルトの精神力を削っていったことは間違い無いのであった。

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