第二章「偽りだらけの狂詩曲」
第二章1「昇級試験」
若々しい緑の間を伸びるやや荒れた地肌の砂利を弾きながら、車輪が回る。がらりがらりと大きくはない音が周囲に響くのは、辺り一帯の風情さえ感じる穏やかさによるものであろう。魔物の姿がどこにもないこの緑の世界は、彼らにとっては幸いなことである。
小さくなっていく王都を、馬車の荷台からぼうと見つめるハルトの姿があった。これは、既に彼らが王都を発ってから何事もなく旅路を進んでいる経っている証である。彼の視線は、ぼんやりとしながらも一点に注がれていたのであった。届くはずのない彼の小さな憂いと共に——。
ハルト達が行商人の共に西門を発つ前に、彼らは今一度共和国へのルート確認を行った。
共和国へ向かうのに比較的短い距離で済む道順は、西門から北西に進みエルフの国の北を通るというルート。西門からそのまま西へと進み、エルフの国抜けることが一番の近道であったが、彼等は人を嫌い、特に商人や冒険者を野蛮な存在だと認識しているため、今回は通ることが難しそうであるという事だった。
通常のルートは、国境近くにある多くの魔物が住む魔獣の森の脇を通る時だけ気を付ければ、後は比較的安全な環境であった。その森付近であっても、魔物のランクはE~B級が出現すると言われる中で日中はせいぜいC級までしか出現することは無い。このメンバーであっても問題なく越えられるものであると判断できたため、一般的に利用される長閑な旅路を行くことにしたのである。
互いに挨拶を済ませ、ルートを確認した一行は、そうやって出発したのであった。半日もあれば着くことが出来るという距離であったため、急ぐ様な旅でも無かったため、冒頭のハルトの姿があったという訳である。
拡張魔術が施された馬車の後部に座り遠くなる王都を見つめるハルトは、最初こそ緊張していたものの、あまりにも穏やかな雰囲気の平原を目にしたことで緩やかに緊張を解していった。それと同時に、彼はここ一ヶ月間の出来事を思い返していたのである。
——こうして無事に旅が出来るのもあの人のお陰なんだろうなぁ。
最初のクエストで命を救われなかったらこんな風に旅をすることすら叶わなかったと、改めて彼の人の存在の大きさを噛み締めていた。
見慣れない、彼女からの贈り物である月白の指輪をそっと撫でるのがここ最近のハルトの癖である。
「いい物あげる」
仰々しいほどの動作でハルトの手を掬った巫女は、彼の薬指に美しく輝くプラチナリングをそっと纏わせた。
「外さないでね?」
いつもの蠱惑的な彼女笑みには、さらに艶やかさが含まれていた。流石に意味が分からぬほど幼くはないハルトは、彼女の女性らしい細くなめらかな指先がつと自分の指と絡み合う温度に、破裂しそうなほどの血液の濁流と目眩にその時は襲われたが、後から考えて見れば彼女のような人物がハルトに本来の意味で以てその位置に指輪を嵌めさせたとは到底思えなかった。だが、言われた通りにしようという訳ではないが、なんとなく、指輪を違う場所に嵌めようとは思わなかった。
それからというもの、ハルトはついこの永遠を誓わされたかのような小さな月白色のメビウスの輪を触る、という習慣めいたものができてしまったのである。
自由であるもう片方の指先に伝わる無機質で冷たさも温かさも無い感触に、安心感と言い表し難い感情が湧き上がってきた。その感情を表現する的確な言葉は彼の中では未だに発見出来ていない。まだ、探していたい。そんな想いがひしめいていた。
「ちょっと、一応護衛なんだからもっと緊張感持ちなさいよ」
不意にハルトの頭上から声が降ってきた。なんとはなしに彼が声の主に目を遣ると、少し呆れた様な表情のリーシェが彼を馬車の屋根上から覗き込むように見下ろしていた。
確かにそうであったと自分を諫たハルトは、すみませんと頭上の彼女に告げた。
「まぁ、分かるけどね。ハインツさんがいるって思ったら何だか気が抜けちゃうわ」
どうやら彼女は本気で言っていた訳では無く、話し相手が欲しかった様だ。前方の座席には今回の依頼人である行商人のケインとハインツが並んで座っていた。A級冒険者で騎士でもある彼がいれば、この辺りの魔物など相手では無い。
「あのハインツ殿が護衛に着いて下さっている思えば、我々も安心して移動できますよ」
荷台の中から声を発したのは、ケインの部下であり同じく行商人のリングであった。積荷の確認をしているのだろうか、忙しそうに手元の書類と商品を照らし合わせるように視線を行ったり来たりさせていた。
彼の言葉に肯定の笑みを一つ返したハルトは、リーシェに声を掛けた。
「リーシェさん、あの……カウピアス共和国ってどんな所ですか?」
ケインの静かな慌ただしさの中で雑談をするのは憚られたが、流石のハルトもリーシェ同様に手持ち無沙汰であった。
「話しにくいから、こっち、上がってくれば?」
ケインに気を使ったのか、それとも本当にそうであるのかははっきりとはしない言い方であったが、彼女はハルトの問いに対して指で自分の方を指し彼を促した。どうやってと悩んでいる彼を見かねた彼女は、再び呆れた顔で彼に言った。
「あんた、風属性でしょ?」
「あ……」
彼女に言われて初めて気付いたと言わんばかりの彼は、漸く自分の足元にマナを集めてから、もう片方の指に付けた風の指輪にマナを込めた。ふわりと浮かび上がった身体を馬車を覆っている布製の屋根を頼りに、彼女の隣へと移動させた。彼女はやれやれと首を振るも、その顔は思っていたよりも穏やかだった。
屋根に四つん這いになって捕まっていた彼がふと視線を西側に移すと、そこには広大な海原が広がっていた。
「うわぁ……!」
陽の光に照らされてキラキラと輝く水面は穏やかで、先程の彼女の表情もこれが理由だったのかもしれないと彼は密かに感じた。海を見たことが無い訳では無かったが、こんなにも近くにあるとは思わず、ハルトは感嘆の声を躊躇うこと無く口にした。そのまま青い海原に見入った彼に何も言わず、黙って同じ方向を向いていたリーシェの横顔は静かであった。
漸く本来の目的を思い出したハルトは取り繕うように彼女の隣に慌てて座り直した。それを確認した彼女は、ゆっくりと話し出したのであった。
「カウピアス共和国、貿易と錬金術の国と呼ばれ、大陸一物流が多い国として有名なの。揃わないものは無いと言われ、食べ物など物理的な品々は勿論、目に見えない情報まで全てが集まる場所。商人達は陸路だけでなく、海路を使って移動をするから首都には常に大きくな商船が集まるの」
彼女の話す通り、海の向こうの方には港街の様な景色と大きな船が数多く集まっていた。きらきらと輝いて見えるのは、まっさらで力強い帆であろうか。離れていても活気を感じる場所であるのは確かであった。
「リーシェ、さんは行ったことがある……んですか?」
「塔の国に来る前はあそこで魔術師ギルドに所属していたの」
気を抜けば気安くなりすぎてしまいそうに口調に注意を払うハルトは、初めて聞いてリーシェの情報にへと間抜けな返事を返すのが精一杯だった。塔の国での様子から、すっかり西のギルドに所属していたのだと思っていたため、思わぬ情報につい声を出して反応を示してのである。対する彼女の表情からは何も読み取ることが出来なかった。
「別に何かあって辞めた訳じゃないわよ。私も冒険者になりたくて塔の国に行ったの。共和国でも冒険者ギルドはあったけど、塔の国ほど制度が整ってる訳じゃなかったし、何より【冒険者】と言えば【塔の国】って思ってたから」
彼女が初対面のハルトにも何だかんだ世話を焼いてくれたのは、彼女本来の気質だけではなく、同じような考えを持ってあの国へと向かったからだった。彼女にとってハルトの境遇は多少なりとも他人事には思えなかったのだ。何だか彼女の心遣いが見えた気がしてハルトは嬉しくなった。
「そうだったんですか。じゃあ、出身も?」
その途端、彼女は急に黙り込んでしまった。彼が何気なく聞いた事が、彼女の時間をピタリと止めた。その事に何か不味いことを聞いてしまったのでは無いかと、ハルトは不安に駆られた。暫しの沈黙の後、彼女はぽつりと小さな言葉を落とした。
「帝国出身なの……私」
彼女の答えにハルトは息を呑んだ。それは田舎出身のハルトにさえ分かる事だった。
ヴァフバタフト帝国は数年前から原因不明の呪詛が溢れ、他国との国交が一切遮断された場所と化してしまっていたのである。帝国に住む人々はそこから出ることが出来ず、また帰ることも出来ない状況がここ数年続いていた。この事態に各国が協力して打開策を講じようとしても、帝国側が何故か頑なに拒否を示し、未だ解決の目処が立って無いという。
「帝国が鎖国状態になったとき、たまたま私は共和国に遊びに行っててさ。帰れなくはなっちゃったけど、こうして自由に過ごす事が出来てる……だけど」
一度区切った彼女の視線の先は、深い森の奥に潜む誇り高き魔術師の母国が映っていたのかもしれない。
「お婆ちゃんが帝国に住んでるの、たった一人の私の家族……」
独り言の様に呟く彼女の横顔は、寂しそうだった。絶望している訳ではなく、かといって楽観している訳でもなく、ただただ残してきた家族を思っている、そういう顔だった。
ハルトは何と言葉を掛ければいいのか分からなかった。彼女が時折見せるこの顔に、態度に、彼はどう寄り添えば良いのか未だに見つけてはいなかった。それは、一ヶ月前とは違う縮まった距離の道中では見つからなかったのである。彼が橙桃の少女の心に触れる日は遠いのであろうか。
しかしハルトは、自分で決心して離れるのと、不意に引き離されてしまうのとでは全く心持ちが違う事ははっきりと分かっていた。程度は違えど、そういう経験は少なくともハルトにもあった。それは、例えばお気に入りのオモチャが壊れてしまった時とか、そういう類のものではあるが。
彼女はたった一人でそれとは比べ物にならない重たい不安を抱えながら今日まで過ごしてきたのだと思うと、ハルトは安っぽい慰めの言葉しか浮かばない自分が情けなく思えた。それでも、何とか彼女に言いたい気持ちが溢れていた。
「リーシェさん――」
そんな彼の考えを先読みしたかの様に彼女は言葉を遮った。
「勘違いしないでよ、別に慰めて欲しくてこんな話したんじゃ無いからね。悲観してる訳じゃないの。諦めてないの。私が冒険者になったのは、呪詛が解けるかもしれないっていうロストアイテムを探すため。今こうしてることだっておばあちゃんを助けることに繋がるって思ってる。だから、別に、落ち込んでなんかないしそんな暇はないの。それに……」
それ以上、彼女の言葉は続かなかった。再びの沈黙の後、彼女はいつもの調子に戻ろうと声音を変えた。
「もう! 湿っぽい話は終わり! 未だE級のアンタには関係無い話よね!」
強がりだという事はすぐに分かった。彼女がこの話を終わらせたいと思っているのならそれを組んでやるのが今の自分には最良の手段だとハルトは気付いていたが、思わず先程頭に浮かんだ言葉を口に出してしまった。
「俺がリーシェを守るよ」
「え……?」
「え、わっ! 俺、何言ってるんだろ! 思ったことがつい……! すみません、今の聞かなかったことに……!」
呆気に取られた顔でハルトを見つめるリーシェ対して、うっかりと言葉にしてしまった事に慌てふためくハルト。どうにか撤回出来ないものかと彼女に言葉を並べるも、未だに驚きの表情を浮かべたままハルトを見ていた。しかし、徐々に彼の言葉を理解したのか、俯いてふるふると震え出してしまった。生意気なこと言うんじゃないと、いつもの様に怒らせしまっただろうか。次に来るかもしれない彼女の温かさと焦げ臭さを生み出す橙に対して身構えたハルトだったが、次の瞬間彼女は大きな声で笑い出した。
「あっはははは! やだ、信じられない! 田舎から出てきたただのE級冒険者が、偉そうに何言ってっ!!!」
今度はハルトが呆気に取られる番だった。こんな風に声を上げて笑う彼女の姿を見るのは初めてだった。先程の寂しさを纏った彼女は何処にもいなかった。そこには、ただ年相応に笑い声をあげる一人の少女がいた。彼女の長い髪がリズムを刻むように揺れ動き、まるで彼女の感情を表すかのようだった。そんな姿に一瞬見惚れたハルトだったが、あまりにも彼女が笑い続けるものだから、自分も釣られるように笑いが込み上げてきた。
「ははっ! ほんと、俺、何言ってるんだろ!」
御者台に座っていたハインツとケインは、屈託のない二人の笑い声を聞き、そっと優しい笑みを浮かべていた。
漸く落ち着いてきた二人の空気は、さっき迄とは打って変わって穏やかさが戻ってきていた。暫く無言のまま景色を眺めていたリーシェが、不意にハルトに告げた。
「アンタ、その方が全然良いじゃん」
「え?」
「敬語。無い方が私は好き」
「え!?」
急に告げられた言葉にハルトは驚き思わず顔を赤らめた。主に彼女の放ったたった二文字に過剰な反応を見せたのであったが、それを見た彼女は自分の発言が失敗だったことに気付き、同じく顔を赤らめながら大きな声で訂正の言葉を口にした。
「違うわよ!? 話し方がってこと! 変な敬語使われるくらいだったら無い方がいいわよ、そんなの」
後半はそっぽを向くように言ったリーシェに、変だったんだと地味にショックを受けたハルト。その姿を横目で見た彼女はクスリと笑みを溢し、彼に手を差し出した。
「私はリーシェ。よろしくね、ハルト」
「あ……俺はハルト。よろしく、リーシェ」
小さな少年と橙桃の少女の距離が少し縮まった瞬間だった。
下で見守るように聞いていた大人達は、再び穏やかな笑みを浮かべるのであった。
「青春だなぁ」
「青春ですねぇ」
誰にも気付かれないまま、ハルトの影がくつりと小さく波打った。
そんな彼らの進む先には、不気味とも思える鬱蒼とした森がその姿を現しつつあった。
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