第一章12「彼の居ない夜」

 それは、ハルトが慌ただしい珍事を乗り越えた日の夜のことであった。


 二十は居るであろう冒険者達は、既にその役割を終えていた。その中には重装備に身を包んだハインツの姿もあり、普段の彼とは違いその顔には先程までは冒険者としての勇ましい色が見事に塗られていたのだが、今はもう、無い。

 というのも——。


「ウォリア、さっきのは踏み込みが甘かった」


「ルーンこそ、発動までに時間が掛かりすぎ」


「二人とも息ぴったりねぇ」


既に激しい戦闘の結末は訪れていたからである。小さな副隊長達と、歪な存在によって。


 息も絶え絶えに地面に横たわる屈強な男女達や、装備の衣が破れ果てた女性を中心とした細身の魔術師達、遠距離用であろう武器を所持して滝のような汗を流す武人達。熾烈な戦いが窺える彼らの姿は未だに生々しさを纏っているにも関わらず、この国の中枢達はどうであろうか。息も乱れぬ姿には余裕しか浮かんでおらず、互いの些細なウィークポイントを指摘し合う、戯れ合いにも似た労いを押し付け合っている。頂きの人物に至っては、手の中の美しいそれをボール遊びのように繰り返し暴れたりないと言わんばかりに跳ね上げているとあれば、やはりこの国のとんでも平均戦闘力の高さが窺えるのであった。

ハインツは、情けなく座り込んだ姿勢のまま、頭上に浮かぶを眺めながら改めて先程の訓練の様子を思い出していた。




冷静と緊張が入り交じる世界に姿を現したのは、白銀に輝く威厳さえ感じられるほどの巨狼。望月の暗闇に現れた、もう一つの満月の輝き。恐れる鼓動の奥に、感嘆の声を上げるのを咎めることなど何人もできぬほどであった。

国の中枢達は、その宝に直ぐに手を出すことは無かった。それは、事前に決められていたことであり、敵うのならば討伐隊のみで蹂躙することも許されていたのであった。


「僕達が付いていますので、思う存分力を発揮してください」


「僕達は、手を出すことはしませんので、各々で【生命の決断】をしてくださいね」


 彼らの言葉は心強く、そして残酷であった。それはつまり、小さな双塔は正しく理解していたのである。現実はを許さないということを。

集まった冒険者達は、ハインツも含めて決して脆弱な輩など居らず、むしろある程度の精鋭であったことは間違いなかった。ただ単に、彼らではであっただけである。

ハインツは昨日のリベンジのつもりでその場に立っていた。勿論、未曾有の実力を秘めた副隊長の力をこの目で確かめたいという理由もあったが、やはり昨日の不甲斐ない結果に対して悔しさを募らせていた。今度は一人の冒険者として、番の巨狼を仕留めてやる、という気概溢れていた。

 姿を現した白銀に斬り掛かったハインツは、悪くは無かった。討伐隊の魔術師達の高度な魔術により動きを抑制、強靭さを無理矢理に低下させられた巨狼は、彼が振り下ろした力強い刃によって大きな傷を負うことになった。


(よしっ、これならイケる……!)


 ハインツを含めた前衛チームは、勝利を確信した。自分達だけで、この月を堕とすことが出来る、と。

 施された肉体強化の魔術により勢いづいた前衛チームは優秀な魔術師達の援護の下に、畳み掛けるように攻撃を繰り出していった。多種多様な斬撃の音が鳴り響く中、巨狼の灯火は幽かなものへと誘われていった。


「はあああっ!!」


 ハインツの一太刀は、確実さを以て白銀の毛皮を鮮血に染め上げた。轟音と共に崩れ落ちた巨体は、ピクリとも動くことなく静かに横たわった。その瞬間、辺りには冒険者達の荒い息と共に歓喜の雄叫びが響き渡った。ハインツは仲間らと共に、得られた達成感を共有し、誇らしげな顔を惜しげもなく晒していた。

 満足げな勝鬨が響く中、微動だにしない人物が二人。黒い衣に身を包んだ小さな双塔であった。


、ですね」


 ふと呟いたのは、鬼神の方であった。彼の呟きは、呑気な冒険者達の耳に届くことはなかった。

 次の瞬間である。白銀の毛皮は望月の光雨を浴びると、ちりちりと輝き出したのである。その光は徐々に勢いを増していき、その中で静かにしなやかな四肢を操っていた。ハインツ達が巨狼の姿を確認した時には、既に堂々たる姿で何事もなかったかのように佇む沈まぬ月が存在していたのであった。


「な、に……!」


「月光ウルフは、【再生】のスキルを持つ魔物です。勿論、皆さん程の腕前の冒険者であればご存知でしたよね?」


 鬼神の隠すことのない嫌味は、その意図通りにその場の愚者達に伝わった。隣に並ぶ微笑みの天使も、今は闇の様な衣によってその形を潜めていた。勿論、その闇の下に微笑みを浮べてなどいなかった。

 哀れな冒険者達は、再び不死の化身とも言える色を纏った巨狼との死闘を繰り広げることになる。

 これは、三度行われた。

 倒れる度に力を増して蘇る白銀狼は、とうとうハインツ達だけでは太刀打ち出来ない存在になってしまったのであった。躱しきれなかった凶刃の傷跡が生々しく全身に刻まれている前衛の背後には、力尽きそうなマナを必死で繋ぎ止めようとする魔術師や援護を担う弓師・銃撃師の姿があった。誰もが恐怖に襲われそうになる気持ちを辛うじて抑え込み、矜持だけでその場に佇んでいた。

 計にして五度目に差し掛かった時、既に蹂躙されるのは冒険者達の方であった。誰一人、再び立ち上がる事が出来ないほど、底の見えない疲労感と絶望感に包まれていた戦場において、鬼神は呆れた溜息を吐き、天使は労いの息を吐いた。


——グゥォォォォン!


 一際立派な咆哮を轟かせた白銀の覇者は、今までのお返しと言わんばかりの勢いで地に伏せる冒険者達に襲いかかった。鋭い爪を携えた四肢は力強く地面を蹴り上げ、細長い口元には赤黒い肉の間にずらりと並んだ燦燦と輝く白刃が、彼らの喉元を引き裂こうと滴る唾液と共に姿を露わにしていた。

 ハインツの中で、これらの戦闘が訓練であるということは忘れ去られていた。目の前に迫る巨狼の殺気と獰猛な目は、彼の頭の中に【死】という言葉を浮かび上がらせた。彼が得物を握る腕から、力がするりと抜けていった——。

 その時である。

 が舞い降りたのであった。仕方なしと黒い双塔が動きを見せようとしたそれよりも先立って。


「夫婦揃って、躾がなってないのね」


 その声は、静かに闇夜に侵食する月の明かりに似ていた。頭の中に直接響き渡るかのようなその人の音は、その場の者達に安緒を与えるとともに、白銀の巨狼に覚えた恐怖とは全く違う、畏怖にも近い際限の無い心の沈みを齎した。だが、その人の訪れとともに、ハインツの頭の中の文字は先程のものとは全く逆の意味を示すものへと変わったのも事実であった。

 ふわりと気配を香らせることもなく現れたその人は、眼前に迫った赤と白が混じり合った常世の門に向かってそっと左腕を翳した。

 途端——。

 巨大な衝撃波と共に、正面の開かれた門が、ぐちゃりと肉がひしゃげる生々しい音と鮮血を伴い、四方八方に裂け広がった。首元まで広げられた肉の花弁は、輝く白骨を中心に血肉の大輪を咲かせた。ハインツの顔には、千切れた肉片と臭みのない鮮血が飛び散った。

 衝撃により意図せずの形を取った顔面白骨巨狼は、暫し惚けた様にその場での姿を見せていた。


「あ、やば、やりすぎちゃった」


 巨狼の目元を確認したその人は相手の濁った目と視線を合わせると、うっかりといった雰囲気で、頭に手を当てて美しい鴇色の舌をチラリと出した。やはり塵一つ付くことなく綺麗な姿のままであった彼女の姿を見た副隊長達は、それぞれ苦笑と呆れを隠すことなくその闇の下で披露していた。


「ねぇ、頑張ろう! ね?」


 パシパシと励ますかのように捲れ上がった末の白骨の鼻先を叩く姿は、場違いでありながら妙な可愛げを帯びていた。それに呼応するかのように灯火を膨れあがらせた巨狼は、少しやりづらそうに血肉をぐちゅぐちゅと再生させていった。この白銀の狼はこんなところで【再生】のスキル向上を強いられたのであった。暫くの間、組織が結合する生々しい音が辺りに響き渡った。その隣では、やる気があるのか無いのか分からないテンションで以て、巨狼を応援する女性の姿があった。力尽きている冒険者達の目には、繰り広げられる光景は異様でしかない。

 蘇った巨狼は、既視感のあるキョトンとした表情を見せながらぱちくりと瞬きをした後に立ち上がり、大きな身体をふるふると振るった。うんうんと頷きながらぱちぱちと小さな拍手を送るその人は、コミカルな仕草があまりにも不似合いだったが、満足気な顔には既に嗜虐的な色が浮かんでいた。

 衣の下で顔を見合わせた双塔は、それぞれの得物をそっと持ち出したのであった。


 巨狼は今度は美しく輝く白銀の瞳をその人に向けた。殺意と残虐さを込めたそれに、腰に手を当てたまま臆することなく立ち向かう姿は、巨体に比べると小さい筈が、ハインツの目には圧倒的な暴力の塊に見えて仕方がなかった。

 一際大きい咆哮を闇夜に響かせた白銀の主は、今度こそその華奢な身体を噛み砕かんと凶刃を携えた門の扉を大きく開けた次の瞬間、その人は大きく跳び上がった。宙に舞い上がった姿は、その名が表す通り、まるで華麗に踊る神の使いの様であった。

 それというのなら、彼女は何に祈りを捧げるのだろうか——。

 煌々と浮かぶ月を背負うその人こそが、それの化身であると思わされたハインツは、彼女の恐ろしいほどの美しさに、先ずは確かな恐怖を感じた。それは、彼にとって芽生えたばかりの新芽にすぎない感情。しかし、すぐに彼の中で順調に育つことになる。


 その人が舞殿に定めたのは、白銀の額。静かに舞台に降り立った彼女に、額への僅かな違和感により気付いた巨狼は、その人を振り落とそうと大きく首を揺り動かした。彼女は細身の身体のどこにそれほどの力があるのかというほど、白銀の毛皮を無造作に掴んだまま離すことはなく、必死さなど微塵もないむしろ笑みさえ浮かぶ顔を携えたまま、爬虫類の如く巨狼に張り付きそのアトラクションを楽しんでいた。月光ウルフの動きに変化が表れたのは、そのすぐ後のことである。

 突如、辺りに桜の花びらが舞い散った。季節外れの桜吹雪の幻覚。それに見惚れたのであろうか、月光ウルフはピクリとも動かなくなってしまったのである。いや、動こかそうという意思は身体の節々から感じ取れるが、思うように動かせない、といったところであろうか。


「あら、わざわざありがとう」


 白銀の絨毯を堪能していた巫女は、その人物に礼を述べた。彼女の視線の先には、黒衣に身を包んだ天使が、小さな枝に控えめな装飾が施された細い杖を握り込んでいた。それが淡い光を帯びていることから、彼が何かしらの魔術を発動したことが窺える。そっと小さな頭を縦に振って彼女に応えたということは、やはり彼の仕業なのだろう。

 その隣に立つ鬼神は、巫女を見上げたまま尖りのある声音で彼女に言い放った。


「訓練なので、お遊びがしたいならとっととお帰りやがれですよ、巫女様」


「貴方、口が悪すぎるのは誰に似たのかしら?」


 額の上にすくりと立ち上がった巫女は、やれやれと頬に手を当てながら嘆き悲しむフリをした。その姿は鬼神の怒りを煽るのに充分であり、彼が握る双剣がかちゃりと疼いたのを、隣の天使がいつもよりもやや困った顔で宥めていた。


「もう、仕方がないわね。坊ちゃんが怒る前に終わらせてあげるわよー」


 既に怒りを露わにしている人物に対して、彼女は油を注ぐのが得意のようである。今にも飛び掛からんとする、曰く鬼神の坊ちゃんを、天使は彼の袖をそっと握りながら必死で言い聞かせている様は健気であった。

 さて、と呟いたその人は、いつものストールに命令を下した。嬉しそうに彼女の肌に一擦りした後に、その衣は忽ち姿を変えた。彼女の左腕に纏わりついたそれは、指先にまで達した。白くて細長い彼女の指先のみを覆うように姿を変えた衣は、鋭い爪の装飾具となって彼女の武器と化した。


「爪の間の汚れって中々落ちないのよね」


 すっと翳した彼女の左腕は、美しかった。腕全体が神秘的な剣の様に見えるほどである。彼女はその剣を、動くことが出来ない巨狼の左目にぶすりと迷うことなく差し込んだ。弾き上がる血飛沫と共に、巨狼の苦悶の咆哮が人々には空耳として響き渡った。


「生きた状態で繰り出さないとすぐに濁っちゃうのよねぇ、【月光ウルフの隻眼】って」


 ずぶずぶずぶ、ぐちゅ、ぐちゅり——。

 彼女が何食わぬ顔で進めるオペ。片腕を巨狼の眼窩を撫でるように沿わせていく過程で、肉と骨を断つ音が辺りに広がった。自身の衣服が鮮血で染め上げられる事を意にも介さず、彼女はゆっくりと自らの手を狭苦しい穴へと押し進めた。ふと、とある一点に辿り着いたその手はぴたりと止まる。

 ブチッ——。

 何かが引きちぎれる音と共に勢いよく穴から引き抜いた手の中には、纏わりつく赤い血液と共に、白銀の宝玉とも思える狼のぎょろりとした目玉が収まっていた。

 ぽたりぽたりと滴り落ちる鮮血を気にする事なく月の光にそれを翳す女の姿は、異様以外の何物でもなかった。少なくとも、全ての工程を見せつけられていたハインツにとって、その人物の異常とも思える行動は彼の恐怖を育むものでしかなかった。彼はやはり単純なを彼女に抱いたのであった。それは、理解出来ないものに対しての、奥底からの、恐れの感情。


「これ、頂くわね?」


 ポンと巨狼の額を一撫でしたその人は、血に濡れた姿のままさっとその場から飛び降りて華麗に地面へと着地を決めた。そこには、不機嫌を全面に出した雰囲気のまま彼女を睨みつけている鬼神と、正直にドン引きしている天使の姿があった。


「お邪魔しまし、たっ」


 彼女は血濡れの眼球をポンと鬼神の頭の上で一度バウンドさせ、美しい姿のままの手は天使の頭の上にそっと乗せた後に、後はよろしくと呑気に呟いて、非戦闘員達が待つ簡易テントの元までゆっくりと歩いていった。頭の上で不愉快な衝撃を与えられた鬼神は、小刻みに身体を震わせていた。滲む殺気は目の前の標的ではなく背後へと去っていったその人に向けられていたが、彼が行動に起こすことはなかった。実力差を分かっているのか、それとも単に時間が惜しいと思ったのかは分からないが、頑丈な彼の理性に今は拍手を送るしかない。

 チラリと隣の我慢強い鬼神に気遣わしげな視線を送った天使は、未だ膨大なマナによる桜の幻覚を振り撒いたまま、倒れ込む冒険者達に指導を行った。


「ここからは、僕達によるデモンストレーションを行います。よく見ておいてくださいね」


 先程の一件を無かったものにして真面目に訓練を再開する天使の副隊長は、優秀な人材である。彼の真面目さに触発されたのか、もう一人の副隊長も僅かに血が濡れ込んだフードを深く被り直し、細身の腕で双剣をしっかりと構えることで戦闘態勢を表した。


「まず、【再生】スキルを所有する相手に対する効果的な対処法ですが——」


 そう言って、彼は己の魔術を解除した。それはつまり、白銀が再び野に放たれた事を意味する。多少手負いの状態であり、収まるべき宝玉が失われた左の眼窩からは、鮮血の涙が垂れ流れていた。しかし、その傷は大したものでは無かったようだ。むしろ、白銀も怒りの煽ることに一役買ってしまっていた。彼女は煽りの女神なのだろうか。

 そんな白銀に素早く対峙したのは、同じく女神の有り難みのない恩恵を受けた、怒りの盟友である鬼神。彼は、解説者の話が本格化する前に、その怒りを既に爆発させていた。

 天使の魔術の解除と共に鬼神が蹴り出したステップは、真っ直ぐに白銀の腹と地面の間に彼を運んだ。仰向けのまま間に滑り込んだ鬼神は、勢いを衰えさせる事なく、双つの刃をぶすりと白銀の腹元に突き立て、そのまま尻に向かって腹を引き裂き続けた。小気味良い綺麗に引き裂かれていく音の後に、ドボドボと赤々とした臓器が地面へと落ちていった。内臓が溢れ出る白銀の麓には、大きな鮮血の湖が広がっている。返り血を全身で浴びながら、尻まで掻っ捌き終わった鬼神は、たんっと一度巨狼の背後に着地したのちに、再び地面を蹴って今度は大きく宙へと跳ね上がった。空中で大きく翻った彼は、魔術によって生み出した足場を利用して、勢いをつけ今度は宙から白銀の天頂に向かって双剣を突き刺した。皮膚を裂く音、骨が砕ける音、全てを司る細胞を破壊する音、その後に顎が地面に叩きつけられてめり込む轟音と衝撃波が辺りに広がった。強風による勢いで後方に飛ばされた冒険者達は、何が起きたのか理解することなどできなかった。

 舞い上がる砂埃により、巨狼の姿も鬼神の姿も隠れてしまっていたため、一同が息を呑みながら視界が明瞭さを取り戻すことを待っていると、砂埃の中心にゆらりと動く影があった。


「【再生】される前に殺ればいいだけの話です、簡単ですよね?」


 鬼神の羽のように軽い声は、その足元に崩れ落ちている残骸とあまりにも相反するものであった。

 砂埃が収まったその場に広がっていた、目を覆いたくなるような光景——。

 白銀の巨狼は、顔の原型など最早留めてはおらず、残されていた片玉も、地面へとうっかり転がり出てしまったかのように地の上にぽつりと存在していた。前脚は折れ、お尻を上に突き出したかのような姿勢で無様な亡骸と化したその姿は、あまりにも哀れであった。

 極め付けは、亡骸の遥か頭上に浮かぶ赤い血が通っていたはずの、心臓。まるで切り取られたかのように浮かび上がるそれは、瞬く間に白く輝く偽りの月へと変貌を遂げたのであった。

 


そして、冒頭に戻るのである。ハインツは、昼間に見たばかりの心臓石の対となる存在を頭上に見とめた時に、どんな言葉を浮かばなかった。強いていうのであれば、自分はまだまだ未熟者だという事であった。

 月光ウルフを倒したのは確かにウォリアであるが、彼が止めを刺す前にルーンが外界に引き摺り出された連なる臓器の中から瞬時に心臓のみを切り取り、彼の衝撃によって潰されないように頭上へと避難させたのだろう。鬼神の動作を予測し、冷静に高度な魔術を繰り出したルーンもまた、相当な実力者であることが間違いなく証明されたのである。


(ウォリア副隊長が強いのは知っていたがここまでとは……そもそも、空間魔術ってこんなほいほいと使えるもんなのか……?)


 昨日からのあまりにも規格外な存在達によるびっくり人間ショーを見させられていたハインツは、最早自分の中の常識が間違っているような気になった。ただ、ふと目を遣った先の魔術師達の顔が驚愕の表情に彩られているのを見たことで、自分の感覚が普通であることを確認出来たのは彼にとって幸運な事である。

 兎にも角にも、冒険者達の討伐訓練はこれにて終了したのであった。

 ハインツは、己の中に確実に芽生えたものを自覚しながらも、それを覆い隠すかのように明日からの鍛錬メニューの変更を試みるのであった。





「すみませんが、俺の訓練を進めても?」


 ふと巫女達に声を掛けたのは、先程まで簡易テントの下で戦闘の様子を伺っていた非戦闘員の男であった。男はどうやら、解体師である様だった。その隣には、ドワーフ族であろうか、小柄な男も並んでいた。


「ごめんなさいね、ウチのが。こんな状態でも素材って手に入るかしら?」


「むしろ、だと思って参加したんで大丈夫だが、しかしこれは想定外に……酷い」


「そうよねぇ……久々のクエストではしゃいじゃったのかしら?」


 再び彼女は手の平で遊ばせていた目玉を、ボールのように扱いながらウォリアの頭の上にポンと乗せてさらに自分の肘もおいた。ニヤニヤと笑みを浮かべている辺り、彼女は敢えてなのだろう。再びウォリアの身体は小刻みに震え出した。 ルーンは申し訳ないという顔をフードの中で作って謝罪を述べた。


「すみません……今日は解体師であるユリウスさんのための訓練だったのに」


「いや、この人に声を掛けられた時点で何となくこうなると思っていたさ」


「えぇー、私悪くないー、悪いのはこの坊ちゃ——」


 ぐりぐりとウォリアの頭の上のボール動かしながら、ワザとらしい言い訳に挑発を乗せた巫女であったが、相手はちゃんと引っ掛かってくれた様だった。彼女が言い終わる前に、再び鬼神と化した彼は、その双剣で彼女に襲いかかっていた。彼の攻撃を防いだのは、普段であればしなやかで手触りの良いシルクのスカーフ。どれほど硬化したのか、鬼神の攻撃を物ともせずに、主を護るために鬼神に立ち塞がっていた。


「もう我慢なりません……! 今日こそその忌々しい首を掻き切ってやるっ!」


 ウォリアの怒りは頂点に達した様であった。彼に対するのは、彼女の忠実な愛衣であるストールくんと、薄ら笑いを浮かべた巫女その人であった。いつの間に投げられたのか、ボールのように扱われていた白銀の眼球は、ストンとドワーフの男の腕の中に収まった。

 それを合図に激しい攻防を開始した二人を見て察したのか、


「俺、勝手に始めるわ」


「わしも、手伝ってくるわい」


「よろしくお願いします……」


 ユリウスとドワーフの男は、ぐちゃぐちゃになっている白銀の亡骸の元へと去っていった。

 冒険者達の手当てやその後の指示は簡易テントに待機している部下にお願いしてあるので、残されたルーンは手持ち無沙汰になった。

 ぽつんと佇む彼の隣にふと降り立った、彼の眼の前で激闘を繰り広げている筈の巫女であった。


「君、久しぶりね」


「クエストはそうですね、久しぶりだと思います」


 露骨な驚きを見せることはなく、隣に立っている理由も察しているルーンに対して、親切にも「あれ、式神」と顎で示しながら種明かしをした。


「ただのの癖に、毎度邪魔するのはやめてもらえますかっ?」


 ——!!


 ボロい布切れ、という言葉に怒ったのであろうか、動きが素早くなったストールくんの闘志に火がついたようで、ウォリアとの攻防は益々の激しさを見せていた。彼の標的が自分、というよりも布の方に向いている気がしてならなかった巫女は、「式神、いらなかったかしら」と珍しく呆れた顔で呟きながら一人と一枚を見つめていた。

 巫女の美しい横顔を見つめていたルーンは、今日此処に来てから引っ掛かっていた言葉を口にした。


「あの、のことですが——」


「君にしてはな判断だな。心配はいらないさ。私が居るんだ、案ずることなど何もない」


 彼が言い終わらぬ内に、彼女は全てを悟ったように言葉を発した。それは、いつもの巫山戯たものではなく、何者でもない第三の顔。


「君は、自分に出来ることをやればいい」


 ルーンの紫苑の眼と、彼女の月白の眼は互いを捉えて離さない。彼らの間に、懐かしくて僅かに甘い雰囲気が流れた。


殿、やはり——」


「折角久しぶりに来たんだ。時間が許す限り楽しめばいいさ」


 再び彼の言葉を遮るように、彼女は言葉を重ねた。それは彼の追求をはぐらかすものに間違いはなく、彼もそれを正しく理解したため、大人しく引き下がることにしたのであった。恐らく彼女は気付いているのだろう。自分が魔術を発動するという発想に至る前に、隠している剣を握ろうと一瞬の間を作ってしまうことを。それはつまり——。


「君の【魅了】は相変わらずねぇ」


 どうせ分かっているのならば何故はぐらかすのか、と一瞬考えたルーンは、すぐにその馬鹿馬鹿しい考えを捨てた。そんなことははっきりしている。彼女の理由など一つしかない。それに気付くことができる程度には、彼と彼女との仲は意図せず深まってしまったのであった。


「もう少し上等な魔装具に昇級させたいので、予算から使っても?」


 普段ならば絶対に口にしない、堂々と横領を宣言した魅了の天使の細やかな意趣返し。彼の珍しい悪戯に彼女は目を丸くさせた。中々見せない、彼女の純粋に驚いた顔を見られたということは、彼の仕返しは成功したのであった。


「そんなこと言う悪い子には、お仕置きが必要ね?」


 すぐにいつもの調子に戻った巫女は、にんまりと笑みを作った。それに反するように穏やかな笑みを返したルーンは、こんな日も悪くないと思ってしまったのであった。で彼女の隣に居ることが——。



 その後、度々執務を抜けてはS級ダンジョンの攻略に励む巫女、それを咎めるライヤ、そして暫くの後に真新しい魔装具に身を包んだルーンの姿が目撃されるのだが、それはまた別の話である。


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