第一章7「ハンバーグのトラウマ3」
ハルトには全てがスローモーションの様に見えていた。
彼は、
彼の感じたこの感覚が
仕事が終わった、とでも言う様子でうんと伸びをする巫女の周りを、何かが取り巻くようにしゅるりと蠢いていた。それは、回転の勢いで以てピシャっとその身に付いた血を取り払う様な仕草を見せたり、ぶるぶると先程の巨狼の様な可愛らしい動きで、やはりその身に付いた赤を払っていた。そういえば、いつも彼女が纏っていた絹のようなストールが見当たらない。その代わりに彼女の周囲には鮮血を払う何かがシュルシュルと蠢く音と、それによる赤い飛散の跡が青々とした芝生の上に描かれていた。
「【クエスト完了】、ね?」
振り返った巫女は笑顔であった。彼女にしては含みの少ない。あくまでも彼女にしては、であるが。それを見たハルトは、彼女の意図など分からぬため、清々しい笑顔だと捉えてた。しかし、それはこの場の彼ではなく、後に記憶を遡った時の彼の感想である。今この時の彼は、それを処理できるほどの余白は無かった。未だに状況が飲み込めていないハルトは汗と涙と鼻水と、さらに生温かい獣の血肉で汚れた顔を惜しげもなく晒しながら、呆然と目の前の人物を見つめるだけであった。
(『クエスト完了』ではありません。これでは何の討伐か判別不能、むしろ【クエスト失敗】です)
いつの間やら彼女の影の中に戻ってきていた影は、呆れを隠すこともなく淡々と主を咎めた。言われた言葉に、大袈裟に首を倒しながら辺りを見回すも全く気にした様子が無い巫女であったが、明らかに彼女と一定距離を空けた周囲の若草には汚らしく魔物の残骸が溢れかえっていた。離れた木々にさえ、血肉が飛び散っているのを、彼女は知っているのだろうか。
ふと地面に情けなく座り込んだままであったハルトに、彼女はあっけらかんと言い放った。
「駄目かしら?」
「……ぇ……」
言われた言葉の意味を、ハルトは正しく認識することが出来なかった。未だ彼の側頭葉や後頭葉やらの働きは著しく低下していた。先程までの出来事は勿論、彼を助けたのであろう目の前の人物の表情を正しく理解することなど、到底不可能であった。これに関しては、仮に彼が正常であったとしても、結果は同じであったのだろうが。
(せめて判別できるようには
その言葉にニヤリと笑った巫女であったが、今回は忠実な従者の方が上手であった。彼女が行動に移る前に既にその言葉を重ねていたのであった。短くはない己の主との付き合いにより、その人が再び面倒事を企てたことを察知し、先手を打ったのである。
(勿論、
さも面倒臭いと言わんばかりに顔を顰めた巫女であったが、
自らの腰に回している腕とは反対側の、自由な白腕のその先の指をパチンと鳴らした。
次の瞬間には辺りの肉片がもぞもぞと動き、鮮血の泉はゆらゆらと蠢きながら徐々に一箇所に集まり始めていった。無論、ハルトの顔に飛び散っていた肉片もぐちゅりグチュリと音を立てているグロテスクな再生体の方へ向かったが、何故か彼の顔についた一抹の鮮血だけは微動だにしなかった。
それはほんの僅かな時間の出来事であった。たった数秒で、黄金の巨狼の躰が綺麗に復元されていたのである。先程までの細やかな肉塊から蘇ったかの様な堂々たる姿で立ちすくんでいた巨体は、暫しの後に、ゆっくりと傾むき、ドサァというその重みを纏う音を周囲に轟かせて青々とした絨毯へと静かに横たわった。
「ど、どうなってやがる……」
「何が起こってるの……」
彼女を僅かにでも知る二人ですら、彼女の行ったことが全く理解できなかった。それ以前に、目の前で何が繰り広げられたかすらも理解が追いつかなかったのである。
腕を組んだまま、片腕だけ持ち上げている彼女のその腕の人差し指の先には、本来であれば巨狼の鼓動を担うはずの心臓であろう部分が、綺麗に切り取られた形のまま宙に浮き淡い光を帯びてクルクルとゆっくり回っていた。よく見ると、ダイヤ型の空間の中にそれは収められている様だった。
驚きを通り越した彼らは、その光景が現実なのかすら判別出来なくなりそうになっていた。蒼穹の天蓋がいっそ清々しい。彼らの混乱とは真逆の顔で、世界を覆っていた。
まるでそれと同じであった。その人の顔は、あまりにもなんてことのない顔であり、潔かった。ただ、その心臓を弄ぶように指先を上下に動かし、僅かなバウンド運動に興じるその人の眼は、無邪気な少女の様であった。
「これでいいかしら?」
つと、彼女がハルトに向けた視線は、やはり少女の様な無邪気さを伴っていた。にこりと向けられた笑みに、ハルトはひゅっと息を呑む音で以て答えることしか出来なかった。
「……っ…… 」
少年の様子を影から見ていた従者は、まぁその反応が自然だろうという意味の溜息を吐く代わりに、ゆらりとその影を揺らした。
「ねぇ、これいらないから君にあげる」
本当にいらないのがよく分かる声音であった。巫女はそう言った後に、軽く人差し指を上にあげ、ハルトの方にポンっとトスをするようにモンスターの心臓を差し出す。ゆっくりとハルトの方に落ちていく心臓を、反射的にぼーっと目で追いかけたハルトは、頭上から近付いていくる鼓動なき心臓に反射的に受け取るポーズを取ってしまった。思ったよりも、大きいそれ。両腕で抱えるのがギリギリのサイズであった。
「……うわっ!?」
受け取った瞬間、ずっしりと重たい感覚が腕にのしかかり、あまりの重たさに支えきれなくなったハルトは剥き出しの巨狼の心臓に押し潰されて仰向けに倒れ込んでしまった。あまりにも体験したことがないことばかり目にした彼は、心臓に押し潰されたという事象など到底理解できなかった。ただ、重たい生命の枢骸の、その重みを感じるので精一杯だった。
それを見ていた巫女が、心底愉快そうに笑った。
「
その言葉を、のしかかるそれのせいで起き上がることが叶わないため、仰向けのまま首だけ彼女に向けた状態で聞いているハルトは、彼女の言葉の正しさが分からなかった。呆然とするハルトに期待などしていなかった彼女は、言葉を続けた。
「ふふっ。 ねぇ、後で来て? それ、証拠になるから」
「ぇ……?」
彼女にしては凡庸でいて、分かりやすい言葉であった。今の彼には分からずとも、後の彼には正しく伝わる言葉を残していた。顎に手を当て首を傾げながら可愛らしく伝言を残す巫女の姿は、状況が状況でなければとても魅力的な、ただの美しい女性に見えた。
「待ってるわ、ハルト君?」
その紅の艶美な唇は、美しい弧を描いていた。その月白の眼が、ハルトを喰らい尽くすかのように彼を一瞥した後、森羅万象の頂点の様な風格を放つその人は、緑翠の絨毯を優美に歩きながら、忠実なる従者に
彼の人の美しい背は、鬱蒼とした森の奥深くへと消えていった。
「「……ハルトっ!!」」
我に帰ったのはどちらが先であっただろうか。ハインツとリーシェが急いでハルトの元に駆け寄った。彼らから少し離れた所には外傷が全くない綺麗な姿のままの魔物の亡骸が横たわっていた。二人に声を掛けられるも、ハルトの耳には殆ど聞こえてこなかった。
——大丈夫か!?
——ちょ、ちょっとアンタ! 怪我とかない!?
——ハルト! おい! しっかりしろ!
——ハルトっ!
二人の慌ただしい心配を帯びた声をBGMに、ハルトは眠るように意識を手放した。その頭の中では、いつまでも先程の彼の人の姿が映し出されていた。
扉を開けて城の執務室に戻ってきた巫女はどこか機嫌が良さそうな、それでいて少し不満そうな表情を浮かべていた。優秀な侍女は主のそんな様子を気遣うことなく、普段通りの音で声を掛けた。その人のちぐはぐで不可思議な顔は常からよくある歪みなのである。
「お帰りなさいませ巫女様」
「ただいま。悪いけど」
「湯殿の支度は既に整えております」
恭しく頭を下げるルティルは、今しがたまでの彼女の様子を知っていたかの様であった。
「あら、流石ね。どうもありがとう」
にっこりと主の笑みを浮かべた巫女は彼女に礼を言いながらも、次々と自身の纏っていた装飾を脱いでいく。金で縁取られた薄青の帯、白銀色の着物の様な羽織、黒のブラジャーと揃いのショーツ、胸元を彩る華奢なネックレス、薄めの耳たぶでそっと主張していた色の無いピアス。入り口から一本道に点々と落とされていくその中には、先程までは姿が無かった彼女のお決まりのストールも含まれていた。慣れた動作で次々とそれらを回収していくのは優秀な侍女。既に裸体を晒していた主に顔色一つ変えることなく、忠実な動作を繰り返す。最後にブーツをぽいぽいっと投げ捨てたことで生まれた姿へと戻った巫女は、そのまま部屋の奥に備わる浴室へと迷うわずに向かっていく。前面はかろうじて壁に晒されているに留まるが、後面は部屋の中にいる者であれば、自然と目にしてしまうだろう。しなやかな背中と、触れずとも感じられる弾力を見せつけるのは程よく持ち上がっている臀部。月の様な白さを持つ四肢。その全てに恥じらいなどなかった。
ふとドアノブに手を掛けた巫女が後ろを振り返る。何も纏わぬそこには、撓に実る二つの美しい乳房を中心に、見るものを魅了する艶やかさを秘めた躰が露になっていた。彼女の視線の先にはいつの間にか影から姿を表していた充実な影が、巫女の方には背を向け目を瞑ったまま腕を組み、皮張りのソファに座っていた。
「影ぇー、報告が来たら」
「分かっている」
「ありがとう」
こちらを向いていない影に向かってにっこりと微笑むと、鼻歌を歌いながら今度こそ浴室へと消えていった。
置いて行かれたことが不安であるかのように、先程床に落とされたストールが浴室の前でシュルシュルと音を立ててウロウロとしている。それをお前が最後だと言わんばかりに無表情で拾い上げ、腕に引っ掛けたのはルティル。変わらずにそれは彼女の腕の中でソワソワと浴室を伺っている。
「
主の意図を代わりに伝えた影の言葉は、恭しさの中に少しの呆れが潜んでいた。しかし、それを聞いたストールは「!!」と反応を見せると、彼のそれに気付くことなく、早く早くとせがむ様にルティルの腕から胴体から全身に巻きつき何処かに彼女を促す。その間も彼女は只管にされるがままの無表情であった。
「今度は何をなされたのですか」
「ハンバーグの下拵え……とでも言っておこう」
その動作は早かった。影の答えを最後まで聞き終わる前に、ルティルは無言で、己に纏わりついていたストール引きちぎる勢いで身体から引き離すと、まるで不衛生なゴミをつまみ上げるように反対側の指先で精一杯自分から引き離した所に遠ざけた。彼女は彼の一言で、主の仕出かした本日の調理方法を悟ったのである。
彼女はそのまま足早に執務室を去ろうと荘厳な扉の前に進んだところで。
「私も、少々身繕いの時間を頂戴します」
「……伝えておこう」
彼女が珍しく顔を顰めるという表情を作り、彼女と同じくらいには主以外には表情を作らない彼が気の毒に、と言う顔を思わず作ってしまう程度には、二人の関係は気安いのがこんな場面で伺えたのは、幸運であろうか。
心なしか強い音と共にドアが閉まった後、一人残された影。彼は大きな溜息を一つ吐いた後に、部屋の半ば過ぎた辺りに無惨に投げ捨てられた質の良い片足ずつのブーツを揃えるために、軋む音を携えてそっと立ち上がったのであった。
気を失っていたハルトが目を覚ましたのは、既に夜の帳がすっかり下りた頃だった。どうやらいつの間にか彼は宿の自分の部屋に横たわっていたらしい。窓の外の暗闇を見て、彼は自分の最後の記憶からは随分時間が過ぎていることを認識した。
「あれ、俺……!!! そうだ!! 魔物は!! ってか心臓!?は!?」
記憶の最後にかろうじて残っていたのは、魔物とその十分な重量の心臓、そして——。慌てて辺りを見回しても何も誰もいなかったが、側にある机にはポツンと一枚のメモが残されていた。
――明日、12時にイダスタ集会所に集合 ハインツより
荒々しくはあるが整った文字が並んでいたそれは、簡潔なメッセージ。彼が運んでくれたのだと思うと、明日改めて礼を言う必要があると考えたハルトは、そこで今日の出来事を振り返ることとなった。自分が何故ハインツに運ばれたのかと言うその原因を。
はぁと何の意味も持たない息を吐いたハルトは、明日を不安に思うよりも、一人の人物のことを思い浮かべていた。原因の原因であるその人。理解の出来ない出来事を引き起こす出鱈目な能力に、全ての者を魅了するかの様な、全て。特にその月白を宿した眼は、全てを見透かすようであり、それを思い出した
(あの人は一体……)
ぼうっとメモを眺めながら物思いに耽っていたハルトは、ふとメモにひっそりとした続きがあるのを発見した。
——風呂、入れよ。
その文字を見た瞬間、ハルトは昼間の理解不能な惨劇の事を思い出し、吐き気と身繕いと一瞬迷った挙句、慌ててトイレへと駆け込むのであった。暫くハンバーグは食べられそうにないと思いながら。
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