第一章7「ハンバーグのトラウマ2」
憂いというよりは、その顔には呆れが色濃く表れていた。
「少々強引ではありませんか……?」
「何だ、気になると言ったのはティア、君じゃないか」
視線を書類から外すことなく、ティアの言葉に別段怒った様子もな端的に言葉を返していくその人は、先程の無駄なハイテンションの面影は一切見受けられなかった。
あれらは全て、演劇でのメソッドである。主に即興劇の際に用いられる手法であり、テンションを互いに重ね合うことで勢いづかせるものである。さらに、NOを言わせにくい環境を作り上げることで、YESへと導く。今回の場合、ティアのいう通り些かの強引さはあったが、法則に当てはめれば、よっぽどで無い限り人はその波に引き寄せられるのである。
如何にもな雰囲気を初めから提示するよりも、適度に普通でありそこにありえないテンションを後から重ねるほうが人は話を聞くものである。決してヤケを起こして無駄にハイテンションを作っていたわけではなかった。ただ、嘘が苦手であるのは真実であったが。
そんな巫女の駄作とも言える脚本にティアが乗らざるをえなかったのは、原因が確かに自分にあるからだった。彼の事を報告したのは、紛れもないティアなのである。
「そうですけど……何も昨日の今日じゃなくてもっ」
「昨日のうちに来なかっただけでも感謝して欲しいわね?」
確かに、この人ならばその日に、なんなら宿まで押しかけて無理矢理にでもあらゆる手を尽くして彼の隅々を洗い出しただろう。それが快楽の
そうされなかっただけマシだと思うべきなのだろうが。
「だからといって、ご自身が担当される《討伐クエスト》が入っている日に……」
「たかが【A級】だろう?2秒で終わるさ。あぁ、誰も現場には行かせてくれるなよ?」
「承知しております……」
はぁと溜息を吐いたティアは、目の前でふんふんと鼻歌を歌いながらこの茶番用のクエスト発注書を真面目に記入していく巫女を見つめた。むしろ貴女の方がある意味で心配である、という彼女の視線には敢えて答えることをしない巫女に、彼女はさらにその不安を募らせていた。
タンっと書き終えたペンを机の上に置く音が受付カウンターに響く。
「溜息を吐くと幸せが逃げちゃうわよ?ティア
書き終えた巫女は、少しだけカウンターから乗り出すと、受付嬢の唇に触れないギリギリのところまで己の美しい紅のそれを近づけた。彼女は時にこういう交流を好む事を知っていたティアは、慌てることが無かった。しかし、触れてしまいそうな息遣いと、その眼。空虚と混沌の中に自分にだけ向けられる情が宿っているその月白の眼に、まるで吸い寄せられる気がした。身を引く事は許されない、許されたくないと思わずその距離のままその人を見つめ続けた。それは、負ではない。確かな
自身の頭に僅かな温もりを感じたティアは、ハッとした。
「誰のせいだと思っているんですか!」
撫でられた部分を押さえながら、既に見えなくなっているその優美な背中に腹いせの如く言葉をぶつけるしか出来なかった。 開いた集会所の扉の向こうで、光の中で口元を綺麗に歪めたその人が振り返っていた気がした。
バタンと無機質な音と共に閉じられた扉は、あまりにも静かであった。
「行ってらっしゃいませ……巫女様」
そっと頭を下げるその受付嬢の声は、小さな波紋となってその人に届いたに違いない。
ハルトは自分の指に嵌めた指輪をほぅと眺めていた。空に翳すときらりと反射するそれは、初期装備とは言われども綺麗であった。腰には先程生まれたばかりの剣が鞘に収まった状態で左側にぶら下がっている。指輪と揃いの石がその鍔に取り付けられていた。出立ちだけで言えば冒険者と言っても差し支えないハルトは、集会所から出てきたフードのその人に視線を向けた。先頭切って話をしたのは、一応のこのクエストの責任者でもあるハインツであった。
「それで、目的地はどこなんだ?
「東エリアの中央付近の森です!ご案内しますね!」
ハインツのそれなりのイヤミを軽やかに偽りの笑みで往なすその人は、足早に目的地へと三人を誘導する。さっさと魔導ワープポイントに乗り込む依頼人を見て、悠長に構えていた三人は慌てて追い掛ける羽目になった。全員が乗り込むのを確認すると、行き先を素早く選択して魔導ワープ装置を起動した。
光の粒が弾けたと同時に四人が到着したのは、鬱蒼とした森のすぐ近くであった。
「ここは……?」
ハルトは初めて来る森に興味津々だった。レクリエーションには向かなさそうな、単なる森に彼には見えていた。説明もする事なく、僅かに舗装された土道を颯爽と進んでいくその人は、迷いなど一切ない。
「さぁ、さっさと行きましょう!」
「おい!あんた!」
「ちょ、待ちなさいよ!」
「え?!」
ルンルン気分でどんどん進んでいく依頼主を三人が再び慌てて追い掛ける。知らぬハルトは仕方無しとしても、この森の存在を知っていた二人の冒険者は、警戒を怠ることはなかった。
この森は、王城を取り囲むように形成されており、時折国の部隊の演習地としても使われることがある。その理由は、魔物が住んでいるからであった。勿論、基本的にはその階級は低く、一般人であっても逃げ切ることが出来る程度の存在である。害があるものというよりは、素材や食料として活用することが出来るため、危険性は殆どない。また、この森に実る植物は自ら消費する限りにおいては誰でも採取することが可能となっており、これを『自然享受権』という。魔物はこれに当てはまることはないが、申請さえすれば確かに狩りを行うことが許されているのである。
だからと言って、森は森である。ごく稀に上位へと進化を遂げた魔物が発見されることがある。都への侵入こそ魔術による防御壁によってあり得ないとされているが、森の中ではそうではない。魔除けの用意すらすることが出来なかった一行は、確かに警戒するのも間違いない行為であった。
それを知ってか知らずか、確実に知ってはいるが敢えて気付かぬふりをしているその人は、随分と奥まで進んでいく。ふと明るい光が差し込む開けた場所の前でぴたりと止まった。奥には、言っていた通りのバーベキューコンロが一つ、ポツンとその火を灯されるのをポツンと一人で待つかのように佇んでいた。三人は、薄暗い道の後方で未だその人に追いつこうと小走りになっている。
「あら、良いところに設置したわね?」
(まさか、本当にバーベキューコンロを用意させられるとは……)
「仕事が早くて助かるわ」
(はぁ、呼べばよろしいですか?)
「宜しくー」
その人の足元の影が一瞬揺らめいたあと、何の伊吹も感じさせぬ静寂を生み出した。三人が追い付くまでには、すぐにその足元には揺めきが戻っていたが。
すぐに追いついたハインツの後に、息を切らせたリーシェとさらにその後ろから同じく息を切らせたハルトが顔を覗かせた。はぁはぁと荒い呼吸を繰り返すリーシェとハルトに比べ、ハインツは乱れぬ呼吸と共に周囲を観察した。
「まさか、森の奥にこんな場所があったとはな」
「はぁはぁ、この森の奥に、バーベキュー会場があるなんて、はぁはぁ……聞いたことないわよっ!」
(息が苦しい……あんなに早く進むことが出来るなんて……ハインツさんは勿論だけど、あの依頼人って一体……?)
息が切れ切れの様子のハルトは一言も発することは出来なかった。そう長い距離を走ったわけではないのに、まるで全力疾走した後の様な疲労感だった。
「あそこが会場ですよ!」
今にもルンルンという音が聞こえてきそうなほどの、声音で指を向けた所には、やはり先程と変わらぬ一つの黒い肉焼き装置が静かに佇んでいた。そんな能天気な依頼人を三者三様で呆れた様に見つめた三人であったが、突如その人の背後の木々が大きく揺れたことで、その顔は一気に驚愕へと変化した。
がさり、という音と共に依頼人の背後から現れた存在とは。
「なっ!?」
「う、そ…………」
「ぁ……ぁ……!」
現れたのは象よりは二回りほど大きい魔物だった。巨大な図体には、俊敏さを秘めた屈強な四肢が備えられており、その先には決して何者も逃すことがない鋭い爪がきらりと輝いていた。黄金に近しいその体毛は尻尾にまで伸び、陽の光に反射して美しく輝いていた。しなやかな身体は無駄のない筋肉に覆われ、山形の耳と細長い鼻先は獲物の行き先を何処までも追求できる進化を遂げていた。何よりも目を引くのは、その大きな口から覗く象牙にも似た魅力を宿した真っ白な刃である。捕われたが最後、息絶えるまでそこから逃れることは出来ないと思わされるほどの貪欲さが満ち満ちていた。美しい黄金の凶刃と世間では呼ばれている。
これが普通のサイズであれば、恐ろしいが魅力もある狼である、という感想に留まる。しかし、そのサイズはそんな一般的な視点に及ぶまもなく邪悪であった。
「きゃー大変ー魔物よー」
(楽しそうですね……)
全く緊張感の無い様子で叫ぶ依頼人のその棒読みと言えるほどの演技を指摘するのは、その本心を見抜く者の声なき声のみであった。その邂逅に対してあまりの衝撃を受けた三人はその能天気さに気付かなかった。
(おいおい、冗談だろ……こいつはA級魔物の【日光ウルフ】じゃねぇか……!)
(な、何でこんな所に……!?)
クエスト中に予想だにしない魔物と出会うことはよくあることというのも分かっている冒険者の二人であっても、流石に装備も心許なければあまりにも予想外の存在に内心穏やかではなかった。
「ぁ……ぁ……!」
初めて見るA級魔物に腰を抜かしてしまうハルトの顔には、大量の汗が浮かび上がり、あまりの恐怖に生理的な涙と鼻水すら浮かべていた。純粋な欲望に塗れた黄金の双目は、ハルトの身動き一つで瞬時に彼を捉え、瞬く間にその赤黒い穴の中へと彼を引きずり込むであろう。彼の首を噛みちぎり、息の根を止めた頃にゆっくりと彼の四肢、肉を挽き裂き味わうなどということはしない。全ての解体作業がその赤黒い空洞の中のみで行われるに違いない。声を出す間もなく頭部に食い込む刃、それと同時に彼の全てを鮮血すら逃すことなく蹂躙する。下手な抵抗さえしなけでば、ある意味では楽な死に方なのかもしれないが、ハルトはただただその純粋な凶刃に恐怖を抱いていた。
(どうする……俺1人で殺れるか?いや、無理だ……こいつの体は普通の剣じゃ斬れねぇし、でかい図体の割にスピードが早ぇ……)
(ハインツさんを強化するにしても……私の力じゃ強化魔術を発動するまでに時間が掛かりすぎるっ!どうしようっ)
ハインツとリーシェは共に打開策を考えていた。幸い、相手がすぐに襲ってくる気配はない。利口であるが故に、それは狙いを定めているのであったが、今はそれがチャンスであった。ハインツがチラリと少年を確認したが、彼は仕方がない状態であった。未だ実戦は勿論のこと武器の使い方も知らなければ、このレベルの魔物に出会ったこともない、只人となんら変わりない状態の見習いなのである。彼の状態を責める人間は居なければ、むしろこの状況は先輩である自分の失態であるとハインツは考えていた。だからこそ、彼は助けなくてはならない、と。
(ハルトと依頼人を連れて逃げ出すのが精々だな……ん?)
そこで初めてハインツは気付いた。あの不可思議な依頼人が居ないことに。
(あいつ……こんな時にどこに行きやがった!くそっ!)
悪態をついても仕方がないが、そうしたくもなる。原因であり何の力も無いだろう怪しい一般人が、戦場から突如姿を消したのであれば。ハインツは心の中で悪態と焦り、切り抜ける手段を考えていた。
声を発した瞬間襲われるのでは無いかという緊張感の中、焦りとパニック、そして恐怖に囚われる三人。
そんな時であった。不意に、ハルトの凡庸な目と魔物の純粋な目が一時の邂逅を迎えてしまった。
瞬時にそれは、ハルトの脆弱さを見抜き、明らかに彼に狙いを定めた。その緊張は、その場の他の存在達にも刺すような痛みと共に伝わった。
((まずい……!!))
ハインツとリーシェが思わず心の中で声を揃えたが、既に魔物は少年に向って動き出していた。どすんと重厚な一歩の地響きは、そのスピードと相俟って重機音の如く辺りに響き渡る。咄嗟にハインツが彼の方に向かって走ったが、残念なことにその黄金の巨狼は勇敢な騎士よりもスピードが上であった。
((間に合わないっ……!))
必死に手を伸ばすハインツと思わずぐっと目を閉じるリーシェ。
しかし、あわや少年の頭ごとその血肉を味わおうと毒々しい赤黒が彼の身に迫ったその瞬間、予想だにしなかった現象が起きていた。恐怖のあまり放心状態であったはずのハルトの周囲に一瞬小規模の風が巻きおこり、魔物の面前から消え失せた。次の瞬間には転がるようにやや後方へと体が吹き飛んでいたのである。その場にいた者皆が驚き一瞬時間が止まったかのようだった。
((あ、あれは……!))
「【緊急回避】……ね、ふふっ」
ハルトの手元についている指輪の薄緑色の石がきらりと光った。彼の腰に備わっている剣の鍔の石も一段と強い輝きを放っていた。主の事態を察したのか、それらは少年に一縷の希望を齎したのである。
今までの出来事を少し離れた木の上で足を組んで楽しそうに眺めている依頼人——巫女の側には、影の中から姿を表した影が呆れたように佇んでいた。
「……楽しそうですね」
「彼は他に何を見せてくれるかしらね?」
その人の顔は、愉悦に満ちていた。腕を組み、手の甲に顎を乗せたまま高みの見物を決めるその人とその隣の黒い影に気付く者など、この場には誰一人居なかった。
地上の様子は一気に慌ただしいものへと変化していた。
キョトンと巨体の割には可愛らしい表情を見せた魔物とハインツが意識を戻すのはほぼ同時だった。
「リーシェ!ハルトを連れて逃げるぞ!!俺が奴を足止めする!」
「で、でも!……分かったっ!」
咄嗟の判断力は上位ランクのハインツの方が上であるし、状況を考えたら妥当であると思ったリーシェは彼の判断を信じて了承の言葉を返した。しかし、その会話を聞いていた魔物は言葉を理解したかのように、今度はリーシェに目標を変えた。
「なっ!!」
リーシェ自身もそれに気が付き、魔物と目を合わせてしまった。咄嗟に持っていた杖を握る力が強くなる。先程とは違い、徐々に徐々にと距離を詰めていく魔物は狙いを定めるように慎重に歩みを進めていた。
「あら、そっちじゃ無いのよねぇわんちゃーん」
「貴女と言う人は……」
残念そうではあるがそれでもその愉快な表情は崩さない巫女に、本日何度目か分からないほどの溜め息を吐き捨てる影は、内心で少年へ哀れみの言葉を投げ掛けていた。
「ちっ……リーシェ!!」
「分かってるっ……!」
ハインツが魔物目掛けて走り出した。その手に持つのは、ハルトと会ってから今まで使われることがなかった大剣であった。ハインツの殺気を察したのか、魔物が彼に気付き、咄嗟に彼との戦闘態勢をとる。地面に着いていた足を思いっきり蹴り上げて、目にも止まらぬ速度を以てハインツの方へ距離を詰めた。ハインツは、勇敢にもそれに正面から対峙した。彼は走った勢いで地面を思いっきり蹴り上げて飛び上がり、重力を使い魔物へと斬りかかった。がしかしその硬い皮膚には傷一つ残すことはできなかった。
「クッソ!やっぱり無理か……!リーシェ!」
「——」
ハインツが相手をしている間にリーシェは目を瞑り意識を集中させ、上級火炎魔術の詠唱していた。ハインツに呼ばれるも、反応しない。それは、未だ詠唱途中である証であった。一度集中を途切らせてしまえば、リーシェの能力であれば再び最初から行わなくてはならない。その時間を稼ぐことは、現状では不可能である。
ハインツ相手だと手こずりそうだと考えた魔物は、再びリーシェに目を向け、彼女に向けて走り出した。
「リーシェ!!」
ハインツの叫び声が響く中、ギリギリまで魔物が迫ったその時、リーシェの足元には複雑な紋章と共に周囲には強い橙の輝きが広がった。
「《その焔を以って焼き尽くせ
彼女の橙は、魔物へと直撃した。轟音と共に吹き荒れる熱風は、離れた場所にいた二人の見物人の場所まで僅かに届いていた。一体には小さな火の粉がきらきらと舞い落ちている。
(B級魔術か!詠唱に時間は掛かったが、流石の威力だ!これなら……なっ!)
彼女の力を改めて認識したハインツは、手応えを感じていたがそれも一瞬。炎と煙がおさまり始めた頃に、その中に火の粉と共にきらきらと煌めく巨大なシルエットが浮かび上がってきた。そこには、やや火傷を負ってはいるがほとんど無傷の状態で、体をぷるぷるとやはり可愛らしくも見える日光ウルフの姿が現れたのであった。
「そ、そんな……B級魔術でもこの程度だなんて……む、無理よ……」
「リーシェ!しっかりしろ!くそっ……逃げるぞ!ハルト!!」
力の差が形としても歴然となったことで、リーシェは絶望に打ちひしがれた。あれを打ち倒すことなど不可能であることを改めて思い知らされたのである。しかし、それにいち早く気付いていたハインツは、その経験と騎士特有のカリスマ性から強い意思で以て仲間を奮起させた。ハインツの言葉に我に返ったリーシェが釣られてハルトの方を見るも、未だに先ほどの吹き飛ばされた体勢から微動だにしていなかった。
再びハルトに目をつけた魔物は、のそりとハルトの方に巨体を向け、控えめに一歩ずつ歩き出し、徐々にスピードを上げて彼に迫っていった。今度こそ、その凶刃で彼の血肉を引き裂くために。
「ハルトぉぉ!!!逃げろぉぉぉ!!!」
「立ちなさいよっ……ハルト!!」
二人の声が聞こえたのか、ハルトはノロノロと顔を上げて魔物の方を向いた。彼は未だに放心状態が続いたままであった。なんとか恐怖と戦いながら必死で逃げようとするも身体は思うように動かず、全身の震えは治ることを知らなかった。体液と砂埃に塗れたその顔は、恐怖のあまり固まったように動かない。見開いた彼の目には全てがスローモーションの様に見えていた。
(に、逃げなきゃ……ぁ……)
魔物は彼の目の前まで迫っていた。
動くことが出来ないハルトの頭の片隅に見慣れぬ文字が浮かんだことに、その時の彼は気付かなかった。
未だ動く気配の無い主に、流石に声を掛けた従者の判断は、三人に生命と言う点においては正しかったのかもしれない。ただ一言、彼は言葉を発した。
「巫女様」
「んーここまでかしら?」
そう言って伸びをした後、つまらなさそうな表情を残した後にその場から一瞬で巫女は消えた。
影の視線の先には魔物とハルトの姿が映っているだけである。
それは突然のことであった。
ハルトの前に突如として人が現れた。音もなく軽やかに一瞬で現れたのは、頭から全てを覆うローブに身を隠した依頼人だった。離れた位置のハインツとリーシェは驚きを露にした。今まで何処にいたのか知らないが、全く最悪のタイミングであると。声を掛けることこそ無かったものの、二人の胸中は絶望と焦りがひしめいていた。魔物も我が道の先に彼女が居ることに気付いたが、スピードを落とすことなく少年とその人の元へと重苦しい音と共に駆けていった。
その人に一切の動揺は無かった。むしろ、笑みさえ浮かべていた。
「躾のなってないわんちゃんね」
言いながらその人はそっと手を魔物の方に向け、軽く小指と薬指を曲げた。それは、あたかも何かを打ち込むような格好に見えた。
次の瞬間、今までその人が纏っていたローブが一瞬のうちに姿を変え、その姿が露わになった。それを見たハインツとリーシェは驚愕の表情と共に、胸中には安堵の感情が降ってきていた。それは、『この人が居ると言うことは自分達は生き残れる』と言う無意識からのものだった。安全性の確保であった。
「わんちゃんの丸焼き……」
そう楽しそうに呟いた直後、魔物の動きがぴたりと止まった。ハルトからは彼女の背によって何が起きているのかはっきりとは見えなかった。しかし、遠くから見ていた二人は、何か細い糸のような物が光に反射した際にちらりと見えた気がした。魔物は自分が急に動かなくなったことが不思議である、というキョトンとした顔をしていた。
巫女は差し出していた手をまるで安全装置も撃鉄も無い銃の真似事をする子供の様な動作で反動を演じるように上に動かした瞬間、一瞬の内に膨れ上がり魔物の巨体が一気に爆発したかのように破裂した。そこら中におびただしいほどの魔物の血肉が飛び散り、後には白銀の輝きを放つ
ハルトの顔にはビチャっと生温かい血と肉片が飛び散ったが、不思議とハルトの目の前に佇んでいるその人の身体には埃一つ付いていない様だった。その足元すら、若々しい緑が彼女の存在を称えるかのようにそよそよと短い背丈を泳がせていた。
しかしそれを除けば周囲にはただただ、鮮血と小さな肉片が散らばっていた。鮮度の良さからか、嗅覚に刺激が少ないのがせめてもの救いであるが、その人以外には誰も理解などできなかった。この血の池地獄よりも悍しい真っ赤なバーベキュー会場の、その訳を。
そんな中その人が告げた一言は、あまりにも軽い訂正の言葉であった。
「じゃなくてミンチね」
楽しそうに、それでいてつまらなさそうな不思議な表情を彩る美しい紅の唇から、ぽつりと言葉が放たれた。
——その時の事を今でもはっきりと覚えている。振り返った彼の人が僕に向けた顔はとても不思議なものだった。色々な感情が綯い混ぜになったような、楽しそうにそれでいて混沌を秘めたような空虚を愛おしむような細められた眼と、それに反してくっきりと綺麗に描かれた口元の弧があまりにも不釣り合いなような、それでいてあたかもそれが自然であると言わんばかりのような不思議な気持ちにさせられる顔。ただ一つはっきりとしているのは、そんな彼の人の表情が、ずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。——
「はぁ……」
遠くの木の上から伺っていた忠実な影は溜息を一つ吐いた後に一つの黒を何処かに放つと、自身はバーベキューとは程遠い血肉の饗宴の中心に佇む出鱈目な存在である主の元へと音もなく向かうのであった。
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