第一章4「暇潰しの始まり」

 大きな机の上の前で椅子に腰掛けて書類を読んでいる初老の男性が室内に一人。見事に剃り上げた頭と日に焼けた肌から覗く大きな傷が印象的である。ふと、扉をノックする音が室内に響き渡った。


「ギルド長、ティアです。少々お話したいことがございまして……」


「ティアか、入りたまえ」


「失礼します」


 扉を開けて入室したティアの面持ちは硬く、どこか戸惑いを見せていた。


「あの、ギルド長、こちらをご覧いただいても宜しいですか……?」


 彼女は1枚の書類をギルド長の前に差し出した。受け取った書類を真剣な目で見つめたギルド長は、最後の項目を見てそっとその顔を綻ばせた。


「新しい冒険者か、久々だな。彼がどうしたのかね?特に問題があるとも思えんが」


「実は、彼に少しだけ違和感を覚えまして……何がと問われてしまうと説明は出来ないのですが」


 ティアの言葉を聞き、再び書類を見つめるギルド長は、ある一点を見つめた。


「ふむ、始まりの村【フエ村】の出身者で冒険者志望の少年か。君が気にするのも無理はない」


「それも勿論なのですが……」


 言いにくそう、と言うよりは本当に何と表現すればいいか分からないのだろう。自分の中の得体の知れない感覚に戸惑いながら、それを表すことができないもどかしさを、無意識に己の手を摩ることで紛らわしているティアの表情は、どこか途方にくれている様にも見えた。


「君の【違和感】は時にとんでもない事態を引き起こすからな。分かった、あの方に報告しておこう」


「申し訳ありません……自分でもこれが何なのか分からなくて……」


「構わんさ。まぁ、何にせよ久しぶりの管轄内の見習い冒険者だ。色々と気にかけてやってくれ」


「承知しました」


 綺麗な一礼をした後、ティアが静かに退室した。残されたギルド長は渡された書類を眺めながら、深いため息を吐いた。その後、一人苦々しげに呟いた彼の言葉は、宙に霧散するように静かに室内に響き渡った。


「あの方と連絡を取るのが久々……であって欲しかったな」


 机の上に置いてあるシンプルな装置にそっと己の手を翳し、何かを注ぎ込むギルド長の顔は、胃の痛みを堪えるように顰められていた。



 

 優雅に紅茶を嗜む女性——先程巫女と呼ばれたその人は、せっせと書類を運び出す城内の職員を尻目に考えを巡らせていた。悪巧みをしているようかの様に月の如く愉しげに歪められた口元を見たある人物は、思わず彼女に話し掛けてしまった。


「どうせ良からぬことしか考えていないのでは」


「あら、影。いつから居たのかしら?」


「ご冗談を」


「くくっ、ごめんなさいね」


「本当に意地が悪い御主人様だ」


 いつの間にか巫女の座る執務椅子の背後に現れていた、影と呼ばれた青年。黒い衣に身を包んでおり、その姿は確かに『影』と呼ぶに相応しかった。顔の半分ほどが隠れたフードの中で、月明かりにぼんやりと照らされたような夜の帳の色を帯びた髪がチラつくのが見える。首元にかけられた漆黒のスカーフが仮に彼の顔を覆い隠した時、フードの中には瞬く間に夜が訪れるに違いない。それほど、暗闇が似つかわしい男だった。


「室内にいるときくらい、それ、取ればいいのにねぇ?」


「俺が、ということをお忘れにでもなったのですか?」


「あぁ、だから貴方はそんなに存在感がないのね?」


「俺にそう言ったのがということもお忘れですか?」


 依然として愉しそうな表情を崩さない巫女と、見えないフードの中で涼しい顔を作っていそうな影の口調。放っておけば永遠と続きそうな不毛なやり取りは、主従関係である二人の不可思議なパワーバランスを表していた。主に対して物怖じせずに憎まれ口を言い返す従者、それに対してさらに油を注ぐが如く煽りを重ねる主。傍から見れば複雑そうな関係性の二人ではあるが、随分と仲は良いようだ。

 そこに、静かに潔く斬り込んだのは、もう一人の優秀な従者であった。


「巫女様、イダスタのギルド長、ランプ様から魔術伝信が入っております」


「あら、よく気づいたわねルティちゃん。繋いでくれる?」


「承知しました」


 ルティちゃんと呼ばれた無表情の侍女が、未だ巫女の執務机の上にのさばる大量の書類の束の中に徐に手を突っ込んだ。途端に崩れる書類の束をすかさず黒い何かが支え、それらをローテーブルへと避難させた。黒い何かはそのまま影の元へと消えていった。書類のタワーの中から、何かしらの装置を引っ張りだしたルティは、相手に目線で礼を送ったあと、執務机の僅かに空いたスペースにそれをどかりと置いた。「わー息ぴったりー」というただの棒読みのセリフをわざとらしい拍手とともに送ったその人は、見事なまでに何もしないのであった。それもいつものことなのだろう、彼と彼女は同時に軽い溜息を吐くのみであった。

 ルティが取り出した装置の一部が赤い光を纏って点滅していた。ルティが手を翳して何かを装置に注ぎ込むと、赤く光っていた部分が黄緑へと変化し、何も無いはずの空間にギルド長の姿が映し出された。


「やぁ、今日はどういった用件だろうか?東のギルド長よ」


「お久しぶりで……いえ、このような挨拶は巫女様には不要でしたね。失礼しました。実は、先程我がギルドの職員が新規の冒険者候補者の登録を行ったのですが……」


「あら、良いじゃない。新規登録者が増えるのは喜ばしい事でしょ?」


 いつものだらしない膝立て座りで、頬杖を付きながら興味がなさそうに言葉を返す巫女の表情は、穏やかではあれど無機質極まりないものだった。


「それが…担当した職員がその冒険者に【違和感】を感じたそうでして」


「【違和感】、ね。へぇ?」


 ふとその瞬間に巫女の様子に変化が現れた。ニヤリと不気味に歪められたその人の眼元に、ギルド長は己の背筋に一筋の汗が流れたことを感じた。これはまずい、と。


「ねぇ、もしかしてその職員ってティアちゃんかしら?」


「お、仰る通りです」


 それを聞いた巫女の顔に下卑た笑みが広がる。側に控えていた侍女が咳払いを一つして諌めるも、効果は無いようだ。高貴な存在である筈なのに、その人は時に信じられないほど歪み卑しい笑みを浮かべることがあることを知っている側近は、せめて外部にその顔を漏らさないでほしいと切に願っていたが、その願いは既に虚しいものになっていた。巫女のその横顔を壁に寄りかかりながら眺めていた影は小さく溜め息を吐いた。彼の足元のがゆらりと笑うように揺らめいた。


「そのの情報を送ってくれる?」


 満面の笑みで問い掛けとは最早言えぬ圧を纏った言葉を吐く巫女を前に、この国の誰が拒否をすることを許されようか。普段から表情の変化に乏しい側近の2人が、思わず面倒なことになりそうだと言わんばかりの顔を作っていたことを知るのは、同じ顔を作りたい気持ちを押し隠しながらモニター越しに対峙しているランプのみであった。





 小さな一人部屋で、ようやく 。見習い制度を利用し宿を確保することが出来た彼は、一ヶ月間だけの自分の城で今日の出来事を振り返っていた。

 ハインツに着いて王都を見て回ったが、今日彼らが歩いたのは【東エリア】と呼ばれる王都の一部分だけであった。どうやら、この国は王城を囲むように東西南北それぞれ四つのエリアに分かれているらしい。ハルトの宿はイダスタ集会所にほど近い東エリアに位置しており、先程までハインツと夕食を共にしながら様々な説明を受けていた。王都の事、ギルドや見習い制度の事から他の冒険者や職業の事まで、時間が許す限り彼はその知識を吸収していった。中でも、彼の興味を引いたのはハインツが語ったとある人物の事だった。


 「この国は少し特殊でな、統治者が二人いるんだ。内政を担当している【女王:レイア】様と、外政を取り仕切る【巫女】様のお二人。特に、巫女様はギルド統括者でもあり、世界4大ギルドの一つである【ノーネーム】という冒険者ギルドのギルド長でもある。その実力は計り知れず、ランクも【最高ランク】。【能力】においてもその限界を見たものは誰も居ないという、冒険者にとっては憧れの存在さ」


少しの身じろぎでもぎしりと音が鳴る簡素なベッドは、彼の思考を徐々に奪っていく。


「巫女様か……どんな人物なんだろ、う……」


まだ見ぬその人に思いを馳せながら、一瞬チリついた脳に気付く事なくハルトは簡素なベッドの上で静かに眠りにつくのであった。

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