第2話 さよならは突然訪れる

 弟のアポ無し突撃訪問からおよそ一ヶ月。

 あれ以降、純と何か連絡を取り合うなんていうこともなく。私の生活は今まで通り何一つ変わりなかった。

 当然だ。同じ都内に住んでいながら、顔を合わせるのは盆と正月くらいだった弟だ。もはや『職場の別部署の新人』よりも繋がりは薄い。これで影響を受けろという方が無茶だろう。

 いつも通り、変わりなく、せわしなく、私の日常が流れていく。

「別れよう」

 日曜日の昼下り。レトロ風カフェのテーブル席。

向かいに座る彼氏は、私に視線を合わせないまま、別れを告げてきた。

「……どうして?」

 チラリとこちらに向いた視線は、すぐにテーブルの隅へと捨てられる。

「俺には、君が何を考えているのかが分からない」

 ひどいことを言っていると自分でも思う、と言葉が続く。君が悪いわけじゃない、とも。

 私達の間で、手付かずの紅茶のグラスから雫が流れて落ちた。

 ここで、悲しいとか、嫌だとか、辛いだとか、そういうことを思えればきっと良かった。

 けれど、下げられた彼の頭を見つめながら私が思ったことは、『この人は何を言ってるんだろう』だった。

 だってそうだ。二十五年の付き合いになる弟のことだって、私は少しも分かっていなかったのに。たかだか半年程度の付き合いで、何を分かるつもりでいたのだろう。

 ……なんて思ってしまうあたりが、私が恋愛に向かない所以なのだろうけれど。

「……わかった」

 いや、何もわからない。わからないけど、仕方ない。別れたいと言うなら、仕方ない。

「怒ってくれて良い。何言ってくれても良いから……」

「怒らないよ」

 私は財布から千円札を出して、グラスの横に置く。

「さようなら」

 私の言葉に、彼は慌てたように顔を上げた。

「待って、本当に何もないの?」

「何もない。さようなら」

 カバンを手に席を立つ。傷付いたように顔を強張らせる彼に背を向けた。


 カフェを出ると、雲ひとつない青空から痛いほどの日差しに照らされる。それが眩しくて、つい目を細めた。

 近くの大通りに出て、駅へと向かう。高いヒールが道を叩いて音を鳴らす。

 横断歩道に引っ掛かり、足を止める。信号待ちをしている間に彼の連絡先を消した。

 二つ目の信号待ちで、繋がっていたSNSを全てブロックして。

 三つ目の信号待ちで、デートの時に撮った写真をフォルダごと消した。

 駅にたどり着くよりも早く、片手一つで、私から彼の存在を追い出す。法的な繋がりがなければ、人との縁なんてこんなものだ。

 信号が青になる。道を渡る。

 太陽がジリジリと肌を焼く。額に、首に、背中に、汗が滲んで流れる。髪が顔に張り付く。蝉が鳴く。

夏の不快感にため息が漏れる。

 早く電車に乗りたくて、家に帰って何もかも脱いで楽になってしまいたくて、少し早足で歩いていたのがいけなかった。

 チッ、と何かが足をかすめて、そこからジワリと既視感のある感覚が足に広がった。

 嫌な予感を覚えながら見下ろすと、ストッキングがふくらはぎの辺りが伝線していた。どうやら、街路の低木の枝に引っ掛かけてしまったらしい。

「……さいあく」

 深いため息とともに、疲れた言葉がこぼれた。


 伝線をハンドバックで誤魔化しながら、手近にあった商業ビルへと駆け込む。

 早足で化粧室の個室に滑り込み、ほっと息を吐いた。

 破れたストッキングを脱いで、足元を見る。

 枝が当たったところは何ともなかったが、親指と中指が白く水ぶくれていた。どうやら卸したばかりの靴が擦れしまったらしい。

 気がついてしまうと、痛みまで自覚してしまう。

 ひとまず絆創膏で覆い隠して、新しいストッキングに足を通す。

 汗のせいでなかなか上がらないストッキングをどうにか上げきって、ゴミを片付けているときにふと、バッグの中のソレの事を思い出した。

「…………」

 レースプリントの袋でラッピングした、手作りのアーモンドクッキー。

 会うのが久しぶりだったから、前に美味しいと言ってくれたから、焼いて持ってきていた。

 渡す前に別れを告げられたから、可哀想に活躍の場はなかったけれど。

 ラッピングの封を剥がすと、バターと砂糖とアーモンドの香りがふわりと広がった。袋からクッキーを取り出し、手のひらに乗せる。

 くしゃりと握って、クッキーを潰した。粉となったそれを、トイレに流す。

 一枚、また一枚。袋が空になるまで、クッキーを潰しては流す。

 食べ物を粗末にしてはいけない。そんなことは分かっている。分かってても、食べる気にも持ち帰る気にもなれないのだから、捨てるしかない。

 全部のクッキーを砕いて捨てて流して、個室から出る。油っぽくなってしまった手を洗う。

 ふと鏡を見ると、滲む汗に化粧が溶けていた。朝にセットした前髪も、汗で額に張り付いてしまってる。

 別れ話なら、いっそ電話で済ませてくれたほうが楽だったのにと、それだけが少し恨めしい。

 あとはもう帰るだけだから、崩れた顔を直す気にもなれない。

(化粧して、髪を整えて、綺麗な服を着て、可愛い靴を履いて、クッキーを焼いて……そうする程度には好きだったはずだけど)

 今はもう、あの人に対して何も感じない。痛むよりも早く気持ちは霧散して、虚しさしか残っていない。

 一体この半年に、何の意味があったのだろう。

(…………なんか、タバコ吸いたいな)

 けれどデート服にデート用のハンドバッグ。タバコケースどころか、ライターさえない。そもそもずっと禁煙してたから、家に帰ったところでタバコは無い。

「…………」

 しかし一度吸いたいと思ってしまうと、もうどんどんその想いは強まっていく。

 このまま禁煙を貫いて家に帰ると事と、炎天下で一服して帰る事……脳内の天秤はアッサリと一服に傾いた。

 だってあまりも今日は散々だったし。それくらい、許されても良いと思う。



 コンビニでタバコ一箱と百円ライターを手に入れて、近くの喫煙所に向かう。

 大通りの端にひっそりとあるその喫煙所では、肩身の狭そうな大人達がそれぞれそっぽ向きながらタバコをふかしていて、そこに足を踏み入れるとなんだか妙に安心した。

 ボックスから一本取り出し、咥えて、火を付ける。ゆっくり吸い込むと、半年ぶりの煙が肺にしみた。

 胸の内でざらついていた何かが、煙に柔らかく包まれていくような錯覚が心地いい。

 そうそうこれこれ、と思いながら、タバコの陶酔に浸る。バターの香りが、煙の香りに上書きされていく。

「あれ、ユキさん?」

 しかし私の陶酔は、聞き覚えのある声に唐突に崩された。

 顔を上げると、灰皿を挟んで向かいに、タバコを加えた弟の彼氏が立っていた。

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