弟の彼氏

加香美ほのか

第1話 嵐は突然訪れる

 繁忙期明けの土曜日の昼下がり。クーラーの効いた1LK。窓越しの蝉の声をBGMに、ファッション誌をぱらぱらと眺める。

 チャイムが鳴って、予定にないそれに首を傾げながら重い身体を起こす。

 チェーンをつけたままドアを開けると、ドアの前には弟と見知らぬ青年が並んで立っていた。

「久しぶり姉ちゃん。ちょっと彼氏紹介したいから、上がってもいい?」

「えっ、待って、ここでそれ言う? あっ、えっと、どうもミヤサカです」

 弟が彼氏をつれてきた。



『弟の彼氏』



 彼氏。彼氏というと、あれか。付き合っている男性のことか。男。うん、たしかにこの人、男性だ。

 弟がこの人と、付き合っている。付き合う。付き合うってなんだっけ。

 前触れなく襲ってきた弟の告白に固まったまま、数秒。

 カンカンカン、とアパートの階段から聞こえる誰かの足音に、ようやくフリーズした頭がぎこちなく動き始めた。

 ドアを閉め、チェーンを外してから開け直す。

「……とりあえず、入って」

 乾いた唇からは、乾いた声がこぼれた。言葉以上の気を使う余裕は、まだ無かった。

 招き入れた二人を、ローテーブルの前に座らせる。

三人分の麦茶を出して、私も二人の向かいに腰を下ろした。

 落ち着かない様子のミヤサカさんとは対象的に、弟は私の部屋を見渡しながら「ちょっと部屋の趣味変わった?」なんて言っている。

「じゃあ、改めて。俺の彼氏」

「えっと……はじめまして」

 適当な弟の紹介に、ミヤサカさんは丁寧にお辞儀した。

「はじめまして、姉の有希です。純がいつもお世話になってます……」

 反射でお辞儀を返しながら頭の中では、私すごくテキトーな部屋着だとか、そもそもすっぴんだとか、デスクの上が片付いてないだとか、そんなことが巡って、でも今考えることはそれじゃないと頭から追い出す。

 今考えないといけないことは、この人は弟と付き合ってて、そう、だから、付き合うの意味だ。

「…………念のための確認、なんだけど、『付き合ってる』っていうのは、その、いわゆる恋愛的なあれ?」

「そうそう、恋愛的なそれ。もう同棲もしてる」

 弟の軽い相槌に合わせるように、ミヤサカさんが首を縦に振った。

 と、言うことは、彼らは恋人同士というわけで。

 弟より十センチ近く背の高いこの男性が、弟の恋人。

 同性愛、ゲイ、LGBT、マイノリティ……テレビごしに聞くようになった言葉達。

 つまりはそういうことなのだと分かって、けれどやっぱり分からなかった。

「……それ、お母さん達は知ってるの?」

「いや、今日初めて人に話した」

「そう……」

 こういうのって先に親に言うものじゃないのだろうか。こんな経験初めてだから、自信はないけれど。

 別に、私と純は仲が悪いというわけではないけれど……でも少なくとも、恋愛事を共有するような間柄ではなかったように思う。

 それなのにどうして、私が一番最初なのだろう。

「あのっ」

 かけられた声に顔を上げると、ミヤサカさんが意を決した顔で身を乗り出していた。

「僕達、ちゃんと真剣です。いずれはご両親にもご挨拶させて頂きたいと思ってます」

 焦げ茶の瞳が、強く、私の目を見てくる。

 『真剣』なのだと目が語る。

 彼の隣の、純を見る。

 私の視線に気づいた純もまた、背筋を伸ばして真っ直ぐに私の目を見つめ返した。

 分からないことばかりで、頭も回っていなくて、でも純が強い意志を持って私のもとに来たことだけは分かった。

 純と、純の彼氏。

 私は、何も分からないとしても、二人に向き合わなくてはならない。

「……失礼ですけど、ミヤサカさん借金とかあります?」

「えっ?」

 不意打ちの質問にミヤサカさんは豆鉄砲を食らったような顔をして、それからすぐに私の意図を察したのか再度背筋を伸ばした。

「車のローンがあと3年残ってます」

「何か宗教とかは?」

「家は仏教ですが、年始に初詣して年末にクリスマスします」

「そうですか。不躾にすみません、ありがとうございます」

「いえ……大切なことです」

 頭を下げると、ミヤサカさんが両手を振りながら朗らかに笑う。

 現状と、自分の気持ちと、言うべき事とを、頭の中でゆっくり噛み砕いて、整理して。それから私は弟の方へと向き直る。

「……とりあえず、状況は分かった。お互いもう社会人だし、あんたの恋愛に口を出すつもりもないし、好きにしたら良いと思う」

 言葉を切って、一つ息を吸った。

「……でも多分、お母さん達とはぶつかると思う。その時、味方になってあげられるかはちょっと分からない」

「別にいいよ。味方になって欲しいとかじゃないし」

純は麦茶を煽ると、ぱっと立ち上がる。

「じゃ、まあそういう事だから」

 純はミヤサカさんの腕を引いて立たせると、目を白黒させている彼を引き連れ「お邪魔しました〜」と部屋を後にした。

 何から何まで唐突で、嵐が過ぎた私の部屋にはただ静けさだけが残された。

 私は玄関から机の上の三つのグラスへと視線を下ろし、頭の中でさっきの出来事を咀嚼する。

 弟の、彼氏。

 そのカミングアウトはそれなりに衝撃的で、戸惑いが大きくて、けれど酷く他人事のような気がした。

いや、気がした……と言うより、他人事なのだ。私のことじゃない、他人事。

 弟がどこに住もうが、どんな仕事をしようが、誰と結婚しようが……それは全部弟の決める事で、『姉』が口を挟むことではない。弟が何者だろうが、法を守る限りは関係ない。

 だからこそ、私の答えは弟に伝えたあれが全てで。これ以上私に悩みようがなくて。あとはもう、出来る事なら幸せになってほしいと願うだけで。

 ただ、何も気付いていなかったということが、ほんの少し寂しかっただけだ。

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