偽教授接球杯Story-4
※このエピソードは自主企画「偽教授接球杯」のために書かれたものであり、当企画の主催の方と交互にエピソードを書く「キャッチボール小説」の一部です。従って、偽教授氏によって書かれた以下のエピソードの続きとなっています。
「尾八原ジュージ様 Story-3」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893829031/episodes/16816927859074739670
以上を踏まえた上でお読みくださいますようお願いいたします。
====以下本文====
一度自覚された怒りは、簡単に恐怖を上回った。御多分に漏れず、おれはナメられるのだけは我慢がならない。どこの誰がどんな目的でおれをここに閉じ込めたのかはわからないが、おそらくそいつは何等かの手段を用いておれを監視し、おれが恐怖し戸惑う様をあざ笑っているに違いない。そう考えると頭の芯が燃え上がるかのようだった。
おれは右足のホルスターにナイフが入っていることを確かめた。誰がこの状況を作り出したのかはわからない。が、そいつは殺す。一度そう決めてしまうと、今度は頭がすっと冷えた。
おれは建物内を探索することに決めた。外から見た印象では、この建物はかなり大きい。さっきの部屋をホテルの宴会場のようだと思ったが、それこそ昔はホテルとして営業していたのかもしれない。エントランスホールから優雅な弧を描いて上へと続く階段を、おれはひとまず上り始めた。
二階を通り過ぎ、三階の廊下に降り立つと、おれは左右を見た。どちらの側にも同じような形をしたドアが並んでいた。やはりホテルに似ている。まるで客室のフロアだ。
手始めに一番近くのドアに近寄る。中から人の気配はしない。そっとドアノブを握るが、動かなかった。鍵がかかっているらしい。おれは心の中で舌打ちしながら、次のドアを探った。
そうしているうちに妻の――イザベラの顔が頭に浮かんだ。長い黒髪に黒い瞳、痩せぎすの、どこか病的なところのある女だったが、確かに愛していた。それだけの価値がある女だった。
(薬をやり始めてから変わっちまった。カモッラが扱ってるものじゃない。あのなんとかいう、新しいやつ)
次のドアも開かなかった。おれはまた、この醜態を何者かに嗤われているような気がした。カッとなって辺りのものを壊して回りたくなる衝動を堪えながら、次のドアに手をかけた。妻の声が脳裏に蘇る。
(ほかのと全然ちがうのよ。自分の頭の中に新しい世界ができて、そこへ飛び込むような感じがするのよ。VRゲームをもっともっと生々しくした感じなの)
イザベラは口の端から涎を垂らしながら、おれにそう言ったものだ。あれをやり始めてから、彼女は人が変わってしまった。おかしな欲求を口に出すようになった。
ああ、このドアも開かない。畜生。
(それでさ、その世界にいると視界がパーッと開けてさ、ほんとの自分ってものがわかるような気になるのよ。凄いのよエディ、生まれ変わったような気がするのよ)
このドアも開かない。イザベラがどこかで嗤っているような気がしてたまらない。
(ね、エディ、あんた人間でしょう。みんながあんたを化け物みたいだっていうのよ。ねぇ、あたし、あんたが怖がるところを見たいわ。見たい、どうしても見たくなったのよ。あんたの人間らしいところが見たいの)
このドアも開かない。次のドアも。どこかに鍵があるのだろうか。
(ねぇエディったら、あたし、あんたが怖がるところを見たいのよぅ。ねぇ、ねえったら、あたしといっしょに行きましょうよ)
そう言ってイザベラはおれの口に薬を染み込ませたシートの欠片を入れようとした。おれはそいつをひったくり、大きな紙片と一緒にダストシュートにぶち込んだ。イザベラは意外なことに泣きも喚きもしなかった。おれが外出しているうちに、彼女はおれが飼っていたドーベルマンを殺して、斬り落とした首をスミレとベビーリーフを敷き詰めた皿の上に載せ、帰宅したおれの前にうやうやしく運んできた。一瞬何があったのかわからず、固まっているおれに、イザベラは尋ねた。どう? どう? エディ、顔色が悪いわよ、あんた、怖い? ちゃんと怖いこと、わかる? あたしに怖がってるところを見せてよ。見たい見たい見たい見たい、あんたが怖がってるところが見たいのよぅ。彼女の目は血走り、上ずった声はまるで別人のようだった。おれはふいに、この女をおれの前から消してしまわねばならない、と直感した。顔を拳で殴ると、痩せた女はいとも簡単に吹っ飛んだ。口の中を切り、血液の混じった涎をまき散らして、イザベラは赤ん坊を抱く母親みたいな慈愛に満ちた声でおれにいった。よかったわねエディ、やっぱりあんた化け物じゃなくて人間なのよ。愛してるわ。おれは完全に狂人の顔になったイザベラを殴って、殴って、動かなくなるまで殴り続けた。拳の皮が弾けておれとイザベラの血が混じった。心臓が止まるまでイザベラは微笑んでいた。
こうしておれは妻を殺した。おそらく傍から見れば、くだらない夫婦喧嘩の末に起きた無様な殺しのように見えるだろう。おれとてイザベラを殴っている間、カモッラの制裁が頭に浮かばなかったわけではない。だが殺した。そうせずにはいられなかった。おれは変わってしまったイザベラが怖ろしかったのだ。
どのドアも開かない。畜生め。
思わず拳でドアを叩いていた。その鈍い音と痛みでおれは我に返り、慌てて周囲を見回したが変化はなかった。
二階へ下りよう。おれは廊下に背を向け、階段に足をかけた。
そのとき、何者かがおれのすぐ背後を通り過ぎた。
振り返ると、視線の先、一番奥のドアが閉まるところだった。隙間に白いハイヒールを履いた女の足が一瞬だけ見えた。
ふたたびおれの全身を寒気が襲った。あれはイザベラが履いていた靴によく似ている。森の中に埋めたときも同じ靴を履いていた。まさか。馬鹿な。
おれは今しがた開閉したばかりのドアに向かって、荒々しく歩みを進めた。もはや足音によって誰かに動きを悟られないよう静かに、などという配慮は働かなかった。誰かが襲ってきたら戦えばいい。おれはエディ。「殺人に最適化された有機稼働体」とまで評され、おそらくカモッラの誰よりも殺しに慣れている。仕損じたことは今まで一度もない。
恐怖などあるものか。ただ何もかも忌々しいだけだ。イザベラも、カモッラの制裁も、イザベラがやっていた薬も。
薬。あれから何もかもがおかしくなった。どこから手に入れたのか、聞いたことのない名前だった。シート状に加工された表面に、味気ないゴシック体で「PC01」という文字が印字されていた。使うにはそいつをちぎって口の中に入れさえすればよかった。そうすれば見たことのない世界で、
ドアの前で、おれは足を止めた。
(ばかな。おれは薬なんぞやっていない)
頭を振って、おれはドアノブに手をかけた。
(おれは怖がってなんかいない)
ドアノブは、さっきの手ごたえのなさが嘘のように、するりと手の中で回った。
(おれは恐怖を望んだことなんかない)
ドアは向こう側に、音もなく開いた。
(薬もやらない。ましてPC01など)
ドアの向こうに立っていたのは、イザベラだった。
彼女は右手首から先がなかった。ぎこちなく開いた口から、湿った森の土がぼろぼろと溢れた。
「え、エディ」
体が動かない。
イザベラがぎくしゃくと動いて、おれにもたれかかってきた。氷のように冷たい肌をしていた。
「よかったわ、ね、あんた、ふざけた化け物なんか、じゃ、なくって」
口の中に違和感を覚えた。
いつの間にかおれの舌の上に小さな紙片がある。おれはそいつを彼女から受け取ったのだ。頭の中にできたもう一つの世界、そこに飛び込むような――
「あいしてるわ」
間延びした声でイザベラが囁き、土の臭いがする冷たい指をおれの口に突っ込んできた。
おれの口から絶叫がほとばしった。
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