雨戸

古池ねじ

雨戸

 雨の匂いで目が覚めた。

 朧な視界に夫の顔が浮かんでいる。片肘をついて、長くうねった前髪の隙間からこちらを見ている。

「雨、」

「降ってないよ」

 夫は色のない唇を僅かに持ち上げる。信じきれず耳を澄ますが、音はしない。この家に来てから、私は朝にいつも同じことを聞いてしまう。雨の匂いがするのだ。この家は、いつも。

「起きる?」

 うん。

 答えて、私は目をこする。布団から半身だけだし、夫ににじり寄ると、そのちいさな唇を舐め、甘く噛んだ。夫は脅えたように小さく身を引いたが、なすがままになっている。




 夫と二人でいても、夫婦ととられることは皆無だ。歳は同じ二十三だが、たいがい、姉と弟と見られてしまう。私は歳相応だと思うが、夫の見た目はひどく幼い。

 昨日炊いておいたご飯を使って、自分のために雑炊を作る。夫は、朝食をとらない。昼食もとらないし、夕食も、とらない。夫は、ものをほとんど食べない。アイスクリームか果物を、ときどき。それだけだ。当然のことだが、ひどく痩せて、大きな目の下には濃く隈が浮かんでいる。発育不良の病気の少年といった風で、まあ実際そのようなものかもしれない。

 一人分の土鍋に溶いた卵を落として蓋をする。電灯の黄色っぽい光に照らされた台所はだしのいいにおいがして、朝食への期待が膨らむ。

「雑炊?」

「うん」

「好きだね」

「朝だから。簡単なものがいい」

 そうは言っても朝からしっかりと食べたがる私を夫は笑う。だらしなく着た藍色の浴衣が白い肌に映って、ほのあおい。夫は昔からの習慣で、家にいる間は浴衣を着る。

 お椀によそった雑炊を、汗をかき食べる私を、夫は見ている。大きな目を瞠って、卵のよくからんだ雑炊をれんげによそい、口に運ぶ私を、じっと見ている。私はれんげにふうふうと息をかけると、湯気ごと柔らかな米を口に入れる。熱い。口の中の皮が剥けてしまいそうだけれど、食べている間はそんなこと気にならない。私は食べる。熱い、おいしい、雑炊を、食べる。夫は私をじっと見ている。黒い瞳がどろりと溶けて、小さな口がゆるく開いていく。ほとんど恍惚としながら、夫は私を、じっと見ている。

 よく食べるね。

 知り合ったばかりの頃からずっと、夫は私にそう言う。最初は大学の学食で、それ以後は、主にこの家で。

 夫とは、大学の図書館の書庫で出逢った。書庫は地下にあって、頬が引き攣るほど乾燥して、かたかたと排気の音がしていた。その日、私は一般教養のレポートで使うラテンアメリカ文学の全集を探していた。棚の名前を確認しながら、ゆっくりと進んでいく。書庫には人の気配が希薄だ。

 誰かが、ふいに私の手を掴んだ。

 べたりとつめたい、濡れた、おおきな手だった。喉の奥で悲鳴が凝って、太ももをぬるく汗がつたった。つめたい手は、私の手を弱く引いた。

 振り返ると、男の子がいた。ぼさぼさと量の多い黒い髪に、灰色がかった白い顔。中学生ぐらいだろうか。大きな服でも隠しきれない細すぎる身体。首に筋が浮いているのに、頬ばかりふっくら柔らかそうだった。湿った恐怖は去り、あなどる気が生まれた。なんだ、子供か。喉に詰まった息を吐く。

 だまって。

 縦皺が細かく寄った唇で、男の子は言った。声には出さず。何故? 私は眉を顰めた。彼は黙って、小さな顎で棚の向こうを示した。そこには男と女がいた。女が棚を背にして、二人で向かい合っている。女のブラウスは乱れて、男のズボンが下がり、肌が見えていた。女が凭れる棚が、ぐらぐらと、ひどく不安定だった。ラテンアメリカの棚だった。

 私の手を握るしめった手が、ぬるくなっていった。棚のゆれが納まって、二人が離れて衣服を直し、書庫から手を繋いで出て行くまで、私と男の子は息をつめて、じっとしていた。

 かたかた、と排気の音がした。

 おどろいた、と私が呟きに似せて男の子に言うと、おどろいたね、と答えが返ってきた。私たちはまだ手を、繋いでいた。手を離した後もあの棚から本を借りる気にはなれず、黙ったまま一階へと登り、開架の椅子に並んで座って、二人で少し話をした。バルガス・リョサの資料がほしかったのだというと、男の子は家にあるよと言い、どうしてか、私は彼の家へとついていった。雨の匂いのする、古い大きなこの家に。

 それが三年前のことだ。男の子は、実際は私と同じ歳の、国文学科の学生だった。砂金踏いさごとう、という奇妙な名前の彼は、街中のひどく大きな家に、一人で住んでいた。つやつやと黒蜜の色に光る廊下を歩きながら、雨の匂いがする、と私は言った。わからない、と踏は応えた。踏の家の中は空気もどこか濡れていた。常に雨戸を締め切り、外の光を極力入れない習慣のせいかもしれない。眩しいのは苦手なんだ、と踏は言った。目が痛くて、視界が滲むのだと。言われてみれば踏の目は変わった色をしていた。一見深い黒だけれど、明るい場所でよく見ると、その黒の底には濃い緑がある。緑のガラス玉に、黒い煤を薄くまぶした。そんな色。

 踏は、私を気に入ったのだそうだ。変わった色の目をとろりと緩ませてそんなことを言う踏が、私には可愛かった。関節どころか骨の形まで露に痩せた体も、ものを食べないところも、ひどい猫背も、散髪が嫌いなところも、時折高い熱に苦しんでいるさまも、可愛かった。といっても、しばらくは小さな生き物を可愛がるような気持ちで可愛がっていたのだった。大学の帰りや休日にこの家へと通い、本を読んだり菓子を食べたり看病したり、していた。

 雑炊を食べ終える。満足の溜息をつくと、あわせて夫も溜息をついた。尋ねてくる。

「美味しかった?」

 腹が満ちているので気持ちが広くなっていて、私はにいと笑うと、夫に口付ける。夫の唇はぬるんで柔らかい。舌先で弄んで離すと、夫はまだぼんやりと目を潤ませていた。

「美味しかった?」

 雑炊の匂いがまだ食卓に残っている。夫は口を小さく結んで目を逸らし、うん、と頷いた。




 夫は、仕事をしていない。私も勿論、していない。夫の父は有名な洋画家だ。寂しげな女性の絵が良く知られていて、私も見た事がある。文庫の表紙になっていたり、古めの喫茶店の壁にかかっていたりする。夫がまだ幼い頃から海外にいて、日本にはほとんど帰ってこない。生きているのかもわからない、と夫は笑う。夫は、そんな父親の財産と、いくつか持っている絵を貸し出したりすることで、生計を立てている。細かいことはよくわからないが、画商や、税理士のような人たちが、ほんの時折、尋ねてくる。みな歳がいった人で、行き届いた身なりをしている。茶を出す私が夫の妻だと知ると、驚くけれど、穿鑿したりはしない。実際はどうあれ、振る舞いが自然に上品なのだ。夫やその父親は、本質的には私のような人間とは係わり合いにならないはずの階層にいるのだろう、と思っている。

 高校生のとき、友人に本が好きな男子がいた。彼はウッドハウスの小説に出てくる青年貴族にたいそう憧れていて、なれるものならああなりたいのだと折に触れて言っていた。仕事もせず、膨大な詩句を引用し、ふらふらと遊んで暮らす、貴族。彼が今の私を見たら何と言うだろう。ときどき思い出す。

 ほとんど一日中、夫は部屋に篭って、文机に本を置き、ひどい前かがみで、本を読んでいる。何の本でもいいようだ。小説も好きだし、エッセイも、研究書も、実用本も、写真集も、漫画も、なんでも読む。毎週、膨大な本がネットで注文されて、運ばれてくる。ご飯の代わりに、夫は本を、読む。ゆっくり頁をめくり、頭を掻き、延々と、読んでいる。夫の痩せこけた身体の中、脳だけが、豊かに太っている。何に使われるでもない、知識の贅肉。

 私も居間で、本を読む。今は「終わりなき夜に生まれつく」を読んでいる。そのうちに、クリスティを全部読もうと思っている。今まで読んだものは全部、とても面白かった。「五匹の子豚」と「忘れえぬ死」は特に面白かった。若いうちに全部読んで、歳を取ったらもう一度読み返したい。

 でも私は夫と違ってそこまで本に熱中できる性質ではないので、飽きると部屋に掃除機をかけたり、紅茶を淹れてお菓子を食べたり、洗濯をしたり、庭を散歩したりする。今日は、天気もいいので庭を散歩する。本を机に伏せて置いて、電気を消す。この家の照明は、みな古いガラスのものだ。揃いではなく、部屋によって違う。居間のは白濁したガラスが、ひらひらとフリルのようになっている。埃が少したまっているようだ。気になるけれど、高いところにあるし、ああいったものの手入れの仕方はわからないので、放っておく。どのみち、もうすぐ掃除と手入れのために人が来ることになっている。

 廊下に出て外に続くガラス戸を開けて木の雨戸も開けて、ようやく外が晴れていることを信じられる。今日はとてもいい天気だ。日差しにとっさに目が慣れなくて、まばたきをくりかえす。庭は、雨の匂いがしない。晴れた日の植物と土の匂い。

 ここの庭は、散歩に適しているほど広いというわけではない。それでもちいさな池も、起伏もあって、歩いていて楽しい。いろいろな植物がうえてあるので、いつも何かの花が咲いていて、見飽きない。庭にも時々人を呼ぶので、いつも快適だ。クロックスをはいて、ぶらぶらと、目的もなく、歩く。頬の内側の剥けた皮を舌先で弄りながら、歩く。一本だけの八重桜が、まだ咲いている。濃いピンクが、重たげに微笑むように咲いている。

「今日も綺麗だねえ」

 私は桜に声をかけてみる。無論答えは返ってこない。ざらざらとした幹を撫で、抱きついて頬をつけてみたりする。年月の手ごたえみたいなものが伝わってきて、頼もしい。味方にしておきたいな、と思う。生き物の少ないこの家で、せめて樹ぐらいは私の味方にしておきたい。

 今日は、いい天気だ。植物が近くにある場所特有の湿り気が髪に染みていって、気持ちがいい。庭の隅には縁台があって、そこで本を読んだり、何か食べたりすることもある。今日は、座るだけにする。

 空は明るい。春のみずみずとした空に、みっしりした雲が浮いている。遠くで子供の声がする。どこだかわからないぐらい、遠くで。

 のどかだ、と思う。何の仕事もしなくてよくて、夫が可愛くて、のどかだ、と。それを幸福と呼ぶのかどうかは、わからない。

 結婚することにしたのは、就職活動がいやだったからだ。働きたくないな、というと、踏が、じゃあ、結婚しようか、と言ったのだ。いいよ、と考えることもなく答えていた。答えてから考えても、特に問題はないように思えた。それまで二人の間に結婚という単語を置いたことはなかったとはいえ、私は踏が可愛かったし、踏も私を、気に入ってはいるようだった。それで十分ではないかと、そのときには、思った。

 卒業する少し前に、地元から出て来た両親と、踏の母親違いの歳の離れた兄と五人で、フランス料理を食べた。反対というわけでもなく、どういう態度を取るべきか困惑している両親に向けて、踏は落ち着いた様子で、よくしゃべった。線の整ったスーツに骨ばった身体を隠し、散髪をしてすっきりとした踏は、発育不良の少年ではなく、幼い顔をした青年に見えた。

 魚と肉が選べるコースで、私は肉を頼んだ。出てきたのは鶉だった。骨が多くて食べ方に困ったので、骨ごと食べた。踏が学校で専攻している内田百閒や父親の話をしている間、ばきばきと奥歯で赤ワインと血の味のする鶉の華奢な骨を、噛み砕いていた。鶉の骨は案外脆くて、特別美味しかったわけではないが、そのような料理があっても悪くはないと思った。

 骨、食べてたでしょう。帰り道のタクシーの中、踏が言った。窮屈だったのか、茶色の細いネクタイは緩められ、襟元のボタンが外されている。皮膚を無理にひっぱって作ったような喉仏。うん。私は頷いた。けっこう大丈夫だよ。踏は背もたれに身体を預け、目を細め、小さく口を開いていた。興奮しているの、と私が尋ねると、そうかもしれない、と長くまばらな睫を伏せて、応えた。踏は、可愛かった。私と結婚するためにスーツを買い、ほとんど会わないという兄に連絡をして、フランス料理の予約をして、嫌いな散髪をして、背筋を伸ばし、よくしゃべり、骨を食べている私を見て、興奮する、踏。痛いほどに、可愛かった。

 踏、可愛い。

 そう言うと、踏はいつでも困惑してしまう。その顔も、私は可愛くてならないのだ。

 君のほうが可愛いよ。

 困惑しきったまま言うので、私はシートに置かれた踏の中指を、握った。踏の手は、大きい。きちんと食べれば、きっと背も大きくなったろうに。もしかしたらまだ、大きくなるのかもしれないという気さえする。彼の兄もしっかりとした体格で、話を聞く限りでは、父親も大きいそうだ。惜しいことだとは、でも思わない。私は今の踏が、可愛い。そのときには、それで十分だった。

 そうして、大学を出てすぐ、去年の今頃、私たちは籍を入れた。式は挙げていない。これからも挙げない。

 結婚して何が変わるかと思っていたのだが、ただ生活が、いっそう怠惰になっただけだった。二人とも、ほとんど外に出ることもない。働きもせず、家事もせず、学びもせず、遊びもしない。いいのだろうかと、考えないではない。働きたくない、ということは、つまりこういうことを意味するのだろうか。

 夫に会いたくなった。




 夫はやっぱり、本を読んでいた。夫の部屋は、見るたびに本が増えていく気がする。四方が本棚になっているので窓のない小さな部屋には、雨のにおいとインクのにおいがじっとり満ちている。

「何読んでるの」

「ん? パット・マガー」

 背中に覆いかぶさるようにすると、夫は少しだけこちらを見て目尻を下げた。読んでいる文庫は東京創元社の活字だった。ぼさぼさの髪に鼻を埋める。夫の匂いがする。悟られないように深く吸い込む。小さな獣の匂いだ。可愛い。

「推理小説?」

「うん。ちょっと変わったやつ」

「面白い?」

 この質問には、夫はいつも同じ答えを返す。

「うん」

 夫に言わせれば、面白くない本などないのだ。面白くない人間がいないように、と続けるのだけれど、でも夫は生きた人間が好きではない。

「本と私とどっちが好き?」

「君だよ」

 夫は本を開いたまま答える。

「馬鹿じゃないの」

 自分で聞いたくせに私は言う。夫は小さく声を出して笑う。

「そろそろお昼じゃないかな」

 まだ十一時だ。でも準備をするならもうそろそろかもしれない。

「林檎があるよ」

「うん」

 生返事をされる。でも、剥いたら一切れぐらいなら食べるだろう。私は夫の身体をずりおちるようにして、髪に隠された白い首筋に口付ける。びくりと背筋が引き攣って、細い肩に力が入っている。口を大きく広げて歯で撫でるようにして噛んでやる。そうしながらも、産毛を生える方向に逆らって、舐める。やめて、と夫の声が震えている。可愛くて、やめたくないけれど、でも、やめてあげる。




 お昼には白菜とにんじんを塩昆布で浅漬けにしたものと、豆腐の味噌汁と、鮭の塩焼きと、ミニトマトにした。林檎はまだ剥いていない。

 掃除や家や庭の手入れには、人を呼んでしまうけれど、料理だけは、一応している。料理が好きなわけでもないが、よほど億劫なとき以外は、作っている。

 食卓に並べて、いただきますをして、食べ始める。夫はまた、行儀よく横に座って、私を見ている。食べもしないのに。そういう習慣なのだ。習慣。私たちの習慣。雨の匂いがする家での。

「美味しそうだね」

 私の口元を凝視しながら、半ば夢見心地の体で言う。背骨のあたりがざわざわして、私は鮭を手でつまんで、夫に差し出す。

「一口あげる」

 夫は鮭をいっそ悲しそうな風情で見つめ、それから私の顔を見る。私は指を、夫の唇に付ける。口がゆるく開くので、そこに鮭を放り込む。夫は小さな鼻に皺を寄せ、鮭を噛んで、筋張った首を動かして、どうにか、飲み込む。その様が可愛くって、胸がきりきり痛んだ。塩っぽい油に光る指を、舐める。

 食べ終わったので食器を下げて、林檎を剥いた。もう旬は過ぎている、と思うが、綺麗な赤い林檎だ。剥いて種を取って、八等分にする。夫の分は、それをさらに三等分にして、一口で食べられるようにしてあげる。こんなことをしていると、私は自分がもう身体が利かない年寄りの若いおめかけか、後添いででもあるかのように考えてしまう。でも、その考えが案外的外れというわけでもないので、おかしい。たとえば私は夫と性交をしたことがない。性交というのが、挿入を意味するのであれば。夫が機能的にできないのか、やりたくないだけなのかは、知らないけれど。夫については、知らないことが、多い。

 白い皿に、淡い色の林檎を並べて、食卓に運ぶ。

「ほら、食べなさい」

 こういうものいいを、夫はあまり好きではないのだと思う。叱られた子供の顔で、皿を見ている。申し訳なくて、でも可愛くて、ついいつも、そんなことを言ってしまう。

 私は私の分の林檎を食べる。口の端から蜜が垂れてしまう。後から拭けばいいので、気にしない。しゃくしゃくと口の中で林檎が砕けていく。細かく砕けて、蜜が溢れる。夫は私を見るばかりで、自分の皿に手をつけない。

「食べないの?」

「食べるよ」

 でも、食べない。

「食べなよ」

「うん」

 夫は、自分の皿を、じっと見ている。




 昼過ぎには、宅配が来た。インターネットで注文した食材とか、日用品とかだ。判子を押して、ものをあるべき場所にしまう。お菓子も来たので、紅茶を淹れて、本を食卓に持ち込んで、食べながら読む。この家に紅茶のカップはないので、湯のみを使っている。

 お菓子は、バタースコッチビスケットという、ざくざくしたクッキーに、バターの味の飴の欠片が練りこまれているものだ。とても甘い。皿に三枚ほど盛って、食べる。

 結婚して随分太った。全身にもったりと肉がついていて、ちょっとしたときに、重たい。夫に太った、と告げると、そう、と笑う。そのうち財産食いつぶしちゃうよ、と言うと、そう、と笑う。嬉しそうに。

「豚だな。豚女」

 自分に言う。結婚してから、独り言も増えた。言葉は全部、雨の匂いに吸い込まれてしまう。

 夫は、女と暮らしたことがほとんどないのだそうだ。同棲、という意味ではなく、親族その他とも、女という生き物とは暮らしたことがないのだと。母親は記憶がないうちに亡くなって、父親も海外へ行ってしまったので、義兄に育てられた。穏やかで低い声で話す人で、小説家らしい。私は名前を知らなかった。歴史小説を書いているということだが、まだ読んでいない。

 夫が高校生のとき、義兄は結婚して、別に家を買ったそうだ。その奥さんも、結婚して一年ほどで亡くなった。妻殺しの家系なんだ、と知り合ってすぐの踏が言っていた。

 病弱な人が好きなんだね。

 以前に見た踏の父親が描いた踏の母親の絵を思い浮かべて、私は答えた。写実的な絵ではないけれど、少女のようなか細さとしろい肌の持ち主だということは、感じ取れた。実際まだ二十歳にもなっていなかったらしいので、少女のような、というよりは、少女そのもの、かもしれない。

 私の言葉に、踏はぱちぱちと目を瞬いて

 君は頭がいいな。

 と言った。本気のようだったので、私は肩を竦めた。可愛いやつだ、と思った。そのときはまだ、口には出さなかった。

 ビスケットを食べ終えて、手に付いた粉を舐める。食べるのは、好きだ。時折、薄く寂しいものが腹にこびりついてくるようだけれど、好きだ。

 食器を片付ける。冷めた紅茶を啜りながら、本を読む。クリスティは、面白い。単純に面白いものが、私は好きだ。たくさんの面白くないものを重ねて面白い形にするようなものとかつまらないものの中から真実を探り出すようなものは、もうあまり読みたくない。好きなこと、楽しいことだけをしていたい。私は、普通の女だ。

 暫らく読んでいると、電話がなった。座ったままずるように移動して出る。

「はい」

「もしもし、元気?」

 母だった。

「うん」

「そのおうち、いつも静かね」

「テレビないからね」

 母の声のうしろには、テレビやその他生活音の、にぎやかな気配がある。この家にはない気配。

「旦那さんにわがまま言ったりしてない?」

 笑ってしまう。

「してないよ」

「本当に?」

「うん」

 母はときどき電話をしてくる。実家は遠いので、結婚してから会ってはいない。別に会わなくてもかまわないというか、会うのが、正直、億劫だ。

 母は近況を説明してくれる。兄の彼女が家に来たとか、飼っている犬の歯が抜けたとか。犬には少し、会いたい。ヨークシャーテリアで、警戒心が強くあまりなつかないが、可愛い。威嚇する顔と細い声と、毀れそうな脚が、可愛い。フローリングに爪があたる、かちゃかちゃ、という音のささやかさ。小さな生き物が、私は好きだ。

「ああそうそう、もうすぐ一年よね、あなたたち」

 忘れていた。

「ああ、うん」

 そうだった。もう一週間もすれば結婚記念日だ。尋常の夫婦が一年目の記念日で何をするのかもわからないし、私たちが何をすればいいのかも、私にはわからない。

「そろそろ子供ができてもいいわね」

 驚いた。反応に困っていると、母は勝手に結論をつけてくれた。

「まだあんたも子供だから、ちょっと早いかもしれないけど」

 笑い声で相槌を打つ。母の話はまだ続く。

「お盆ぐらいにはこっちにも顔を出しなさいね、旦那さんと二人で」

 という母の言葉に少しだけ、うん、と言うのが、遅くなった。そのうちに、電話は切れる。途端、静寂が私の耳を覆う。この家は、静かだ。

「嘘つき」

 独り言も、雨の匂いに吸い込まれていく。




 夫は、自分が早死にすると信じている様子がある。私は、信じていない。会う人誰もに不安な気持ちを塗りつけるほど痩せて顔色は悪いが、持病もないし、身体的に虚弱なわけでもない。ただ、食べないだけだ。

 昔から小食だったんだけど、食べなくなったのは、高校生ぐらいからかな。

 義兄が、そう言っていた。義兄は私と夫の結婚を、とても喜んだ。ずっと夫を心配していたのだろう。期待に応えられているかどうかは、結婚以来会っていないので知らない。

 あなたはよく、食べますね。

 そう言って、笑った口元が、夫に似ていた。口には出さなかったけれど。

 夫は時々寝込む。ひどい熱が出るが、多分ただの風邪だ。医者も呼んだことがない。ごうごうと苦しい呼吸をして、とめどない汗で布団ごと濡らし、喉が破れるような咳を繰り返す。でも多分、ただの風邪だ。私ひとりで看病する。手を握ってやると熱く、普段白い顔にも僅かに血がさしている。

 可愛い。

 湯冷ましを口に含ませてやり、寝巻きと布団を代え、冷えないようタオルをかけながら骨ばかりの白い身体を拭いて、うすい粥を作って、りんごを磨って、と、あちこち動きまわりながら、可愛い、という言葉だけが、私の頭を埋めている。熱を出しているときの夫が、なによりなにより可愛い、という気もする。

 濡れた目で、夫が私を見上げる。よしよし、と頭を撫でてやると、目を瞑る。睫に涙が雫になって纏いついている。それをぬぐってやりながら、私はほとんどうっとりとする。夫の発熱は、夫の身体が夫に下す折檻めいている。そこには死とか、病とかそういう暗いものの気配はしない。ただ、制御しきれない強い力があって、夫は翻弄されるだけだ。夫の弱さが、私には可愛い。

 熱は二日もあれば引いてしまう。熱が引くと、夫は風呂に入る。熱いものはなんであれ苦手なので、夫の風呂はぬるい。この家の風呂場は、一面の水色のタイルに臙脂や紫のが模様を作っていて、浴槽は白い。ひとの肌のぬくさの湯に、夫の身体が沈んでいる。肋骨の一本一本が数えられる。骨盤と肋骨の間には骨がないので、抉れている。体毛は薄くて、脚の間が少し翳っているだけだ。白い身体の中、性器だけがほのかに濃く黄色い。

 石鹸で泡を大量に作って、浴槽に浸かったままの夫を洗う。夫はなすがままだ。いつも、なすがまま。

「骨しかないね」

 背中にも肋骨が浮いている。その隙間を指先で洗う。夫は応えない。肩甲骨に噛み付いてみると、皮膚が柔らかくて、可愛くなる。

「美味しく、ないよ」

 浮いたような声で、夫が言う。

「骨も、食べられるよ、私」

「そうだったね」

 ばきばきと奥歯で砕かれた、血の味のする、鶉の骨。

 夫の胸の前で手を組んで、暫らく、黙っていた。夫の背中は、存外広い。男なのだ。背中の突き出したところをねめあげる。

「死んだら骨、食べてあげるね」

 うん。

 可愛い声で、夫は応えた。

 骨を食べる、という言葉が、以来頭から、離れない。何をしていても、くっきり沁み付いていて、離れない。夫の骨は、美味しくないだろう。存外太くて、硬いかもしれない。白く、つやつやとしている。閉じた雨戸のうちの薄闇に、ぼうっと白く、浮かび上がる。目を閉じた夫の顔が、横に置いてある。しっかりとした骨を両手で握り、齧りつく。最初は硬いが、力をこめると、あっさりと割れる。やってしまった、と後悔に似た感慨が薄く張り付くけれど、齧り続ける。がりがりと、夫の骨が砕けていく。とがった破片が頬の内側を傷つけ、血の味がしても、齧り続ける。ぱらぱらと白い粉が落ち、膝に降りかかる。骨をすっかり片付けてしまうと、指に唾をつけて、落ちた粉を集めて、舐める。膨らんだ胃を撫で、私は雨戸を開ける。そして、出て行く。夫の頭は、置いていく。

 薄さむくなって、二の腕をこする。




 夕食には、時間のかかるものを作る。何かを煮込むのが好きだ。食べるまでずっと、そのものの匂いに包まれるから。今日は鳥肉をトマトスープで煮込んだ。上にチーズを乗せる。それとレタスときゅうりのサラダと、ご飯。

 レタスを、私は上手く食べられない。いつも欠片をこぼしてしまう。口元がトマトで汚れる。夫は行儀のよくない私を、じっと見ている。

「今日、電話があったね」

 不意に、言う。

「うん。母さんから」

「何かあった?」

「ううん。元気かって」

 思い出して、尋ねてみる。

「もうすぐ結婚記念日だけど、何かする」

「君がなにかしたいなら」

 夫は、なすがままだ。いつも。ふと、堅く結んであった靴紐がほどけるように言葉が流れ出た。

「こどもほしい」

 自分の言葉に、驚いた。驚いているうちに、夫は悲しそうに目を伏せた。細い、まばらな睫。灰色の影が、頬に落ちている。

「ほしい?」

 ガラスが震えるような、高い声。別にほしくない。ほしいと思ったことは、ない。でも、わからなかった。

「そのうちには」

 口を付いて出た当たり前の言葉があまりにもこころうちにぴったりで、薄さむくなった。そのうちには、子供がほしかった。そうしたものだと、思っていた。奥の方で、ずっと。私は普通の女だった。

「ほしくない?」

 聞きながら、怖かった。夫は応えない。

「ほしくない?」

 わからない。

 嘘がつけない夫が、可愛かった。私は匙を置いた。食事はまだ、半分以上残っている。

「もう、いらない。食べて」

 うん。

 夫は頷く。皿を引き寄せて、私が置いた匙を、握る。白い、大きな手。苦しげに顰めた、眉。

「いいよ。食べなくて」

 夫の手から匙を取り上げる。私を見上げる。変わった色の、潤んだ目。夫は、なすがままだ。




 私たちの夜は早い。十時を過ぎると、二人で一つの布団に入って、灯を落とす。枕元の電燈も消してしまうと、ほとんど完璧な闇が、寝室に満ちる。

「おやすみ」

「おやすみ」

 言いあって、目を閉じる。雨の匂いと、夫の匂いがする。布団の中は、あたたかい。のどかだ、と思う。とても、のどかだ。手を伸ばす。夫の身体に触れる。背中を、手のひらで撫でる。可愛い夫。夫の全部が、私には可愛かった。

「子供、ほしくない?」

 もう一度、聞いてみる。

「あんまり、ほしくない」

「そのうちにも?」

 わからない。

 浴衣の粗い布地の下の、ぼこぼことした骨。指先でなぞる。夫の喉が鳴る。身体が引き攣る。可愛い。可愛い。可愛い。可愛い。可愛くて、苦しい。

 そのうちに、この男と、子供がほしかった。そのうちに、夫も尋常に食べるようになって、この家の雨戸も開いて、日を入れるようになるのだと、思っていた。一日いちにちを、のどかに過ごす、そのうちに、と。奥のほうで、ずっと。

「私のこと、好き?」

「好きだよ」

「何よりも?」

「何よりも」

「愛してる?」

「愛してる」

 夫は、嘘を付かない。けれど、愛って何か、本当にわかっているのだろうか。私には、わからない。そんなことは、知らない。ただ、夫が可愛いだけだ。

「じゃあ、私が死んだら、骨を食べてね」

 怖くて、でも言うのを止められなかった。夫の身体が硬くなる。

 できない。

 泣き出しそうな声だった。

「やってよ」

 できない。

 首を振る夫の髪が、ぱさぱさと私の頬を叩く。頑是無い子供みたいに、首を振り続ける。

「できないことを、してよ。愛してるんでしょう」

 できない。

 夫が私に、しがみついてくる。薄いけれど広い胸。私なんかよりずっと、強い力。夫が、可愛かった。可愛くてたまらなかった。可愛くて、可哀想で、哀しかった。夫について言うなら、それらは全部、同じことだった。どうしようもなかった。目を瞑る。

 雨の匂いがする。

 胸に顔を埋めて、私が言う。夫が言う。


 わからない。


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雨戸 古池ねじ @satouneji

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