ハンカチ




『責任感の強い子だから余計に思うところがあったのかもしれない。離婚してから、自分が至らなかったから妻が出て行ったんだって。だからせめて八恵華には不自由がないように頑張るんだって。仕事も家事もぜんぶ独りでしようとして。手伝うって押しかけないといつまで経っても大丈夫の一言だけ』


 道花の母親はそう言って、診療所の待合室で寝ている道花の頭を優しく撫で続けた。


「凛香。元気ない?」

「元気モリモリだ」


 十三時前。

 八恵華との約束通り、診療所前で待っていた凛香を見つけて顔を輝かせた八恵華はしかし、凛香の顔を見て眉を潜めた。


「本当に?」

「ああ本当だ」

「………」


 無言の圧力に、凛香は目を僅かに泳がせて、夜通しゲームしていたから少し寝不足なだけだと返した。

 八恵華は納得しなかったが、とりあえず頷いた。


「そう。なら。よくないけど。いい」

「はい」

「お父さん。ここで寝てるって聞いた。ぐっすり眠ってる?」

「ああ。待合室にいるから」


 八恵華は安堵したように微笑を浮かべては、滲ませた涙をハンカチで押さえて出て来ないようにさせて、ハンカチをポケットにしまい凛香を見上げた。


「うん。凛香。ありがとう」

「ああ。また終わった頃に来るな」

「うん。でも、無理しないでね」

「ああ」


 心配そうな表情が取れないまま、八恵華は手を振って道花の母親と一緒に診療所に入って行った。

 最後まで見送った凛香はその場にしゃがみ込んで顔を両手で覆った。


「心配させてどうすんだよ、俺の。莫迦」

「本当に莫迦だな」

「神路」


 凛香はしゃがみ込んだまま、顔だけねじって斜め後ろに佇む神路を仰ぎ見た。

 神路は腰に手を添えて凛香を見た。


「閻魔大魔王のところまで行って、何度も無意識に魂を飛ばしたことを甘えるなって叱られて、立花と喜朗がこのままじゃ凛香の為にならないから早く転生させてくださいって泣く泣く申し出れば、おまえに天国で働いてもらうからまだ現世にいていいって言われたらしいな」

「ああ。もう自覚しているから魂が抜け出しても意識はしっかりしてるし、働けるだろうって言われた」

「筋金入りの甘えただな。了承したんだろう。立花と喜朗に会う為に」

「自覚してる。だって俺、だめだ。ぎりぎりまで一緒にいたい」

「両親の代わりにか?」

「違う。じいちゃんとばあちゃんだからだ」


 神路は小さく淡く息を吐いた。


「………とりあえず寝ろ。魂が疲弊している。きついだろう」

「………珊瑚。怒ってたか?」

「怒っていない。心配していた」

「うう」

「背負ってやろうか?」

「いい。歩く。神路も。ごめんな」


 立ち上がった凛香に神路は無言で手を差し伸ばした。

 凛香がそっと掴めば、神路はゆったりとした足取りで先導して歩き始めた。


「神路の手。見た目と違って、岩みたいだな」

「鍛錬の証だ」

「うん」


 つたない口調になった凛香に今一度背負うと言ったら、歩くと返ってきたので、頑固者めと呟いた神路は悪かったと詫びた。

 もう言わなくていいと言われたので、心中で。


(先生を。超えないとな。あいつと一緒に)






『ごめんなさい!だめなお姉ちゃんで!』


 身体に戻ってくるなり土下座をした凛香に目を丸くした珊瑚は、同じく床に座って凛香の両手に両手を覆い被せて、少しだけ強く握った。


『凛香がだめなお姉ちゃんなら、僕もだめな弟だよ』


 凛香は勢いよく頭を上げた。


『なんで珊瑚はすごい弟だ』

『ううん。すごくない。お父さんとお母さんに出て行くように強く勧めたのは僕なんだ。二人とも、いっぱいいっぱいで色々なことに雁字搦めで、僕たちにはおばあちゃんもおじいちゃんもいたから、二人がいなくても大丈夫だって。自由になっていいんだよって』


 珊瑚は意識して強く息を吸って淡く息を吐いて、まっすぐ見つめてくる凛香に眉尻を下げて微苦笑した。


『ごめんね。僕。凛香が寂しがる理由がわからないんだ。お父さんとお母さんが家を出て行った時も、おばあちゃんとおじいちゃんが亡くなった時も。寂しがる理由がどこにもないって。事件や事故、災害に巻き込まれたわけじゃない。自由に旅立って喜ぶべきだって。僕。多分、生物として欠落してるんだと思う。補おうとも思わないんだもん。だめだめな弟でしょう?』

『そんなことない』


 珊瑚は真顔になって、やおら頭を振った。

 考えて、考えて、考えて。現時点で導き出した答え。

 やはり間違っているとは思ってない。

 けれど、間違っている部分もあったのだと。

 結果は同じだったとしても。


『ううん。だめだめ。だって凛香にも話して四人で。ううん。おばあちゃんとおじいちゃんも加えて六人で話していたら、もしかしたらお父さんとお母さんと一緒に暮らし続けられたかもしれないんだもん。その機会を奪ったのは僕だから』

『だったらなんにも気づかずに走り続けた俺が一番だめだめだ。今だって。俺。ごめん。珊瑚。ごめん。でも俺』

『うん。凛香はぎりぎりまでおばあちゃんとおじいちゃんに会いたいんでしょう?』

『うん』


 珊瑚は項垂れる凛香の後頭部を優しく撫でた。


『言ったっけ?僕。凛香の走る姿がこの世界で一番好きなんだ。特に後ろ姿。二番目はただいまって帰ってくる凛香の顔。わあ。僕ってシスコンだねえ』

『俺は珊瑚のどんな姿も顔も好きだ。相当なブラコンだ』

『うん。こんなに相思相愛な姉弟ってそうそういないと思うよ。そこは胸を張ろうか。だめだめなところもあるけど。今度は。家族のことはちゃんと話し合おう。まずは凛香の魂抜け出しについて。梨響も神路さんも、おばあちゃんとおじいちゃんも加えて。ね?』

『ああ。閻魔大魔王のところで働くことになった。あ。ちゃんと働きながらだから安心してくれ』

『ん?』

『うん?』

『凛香』

『はい?』


 雰囲気の変わった珊瑚を前に、姿勢を正して座り直した凛香。見下ろす態勢にも拘らず、つい上目遣いになってしまった。


『凛香』

『はい』


 そこからこんこんと魂の抜け出しの危険性についての説教が続いて、今もなお、閻魔大魔王のところでの勤務は許されていないのであった。






『許してあげたらどうですか?』

『だめですよ。危険すぎます』

『おや。見送る珊瑚さんが珍しい』

『茶化さないでください』


 説教の最中、限界を迎えて意識を失った凛香を待合室で寝かしてのち、傍で座って寝顔を見ていた珊瑚の元に瀧雲がやって来た。


『京一さんも一時的に眠りましたね。薬ではなくきっと、あなたのさくらがゆが効いたんでしょうね』

『両方ですよ。心身共に疲弊していましたから』


 瀧雲は珊瑚の横で正座になって凛香を見つめた。


『なんの対策もなしに閻魔大魔王が天国で働けなんて言いませんよ』

『そうでしょうけど』

『きっと喜朗さんと立花さんだけが要因ではないのでしょう。魂が抜け出してしまうのは。だから閻魔大魔王が理由を探る為に傍で診ようとしている。のだと思いますよ』

『ただこき使いたいだけだったらどうしますか?』

『その時は私がきちんと話をつけて辞めさせますよ』

『瀧雲さんは閻魔大魔王よりも権力があるんですか?』


 ちょこんと瀧雲を覗き見た珊瑚に対し、瀧雲は人差し指を唇に当てて秘密ですと言った。

 目を丸くした珊瑚は肩の力を抜いて笑った。

 少し弱弱しく。


『あなたも別の犯罪組織の情報収集で疲れたでしょう。ほら。私の膝を貸しますから眠りなさい』


 瀧雲はぽんぽんと自身の膝を叩いたが、珊瑚は遠慮しますと言って立ち上がった。

 疲労など微塵も感じさせずにあっさりと。


『瀧雲さんも眠ってください。式神も動かして、夢鏡蔓の対処もして大変でしょう。もう少し。いえ。大幅に仕事を減らした方がいいですよ』


 真顔で言われた瀧雲はおもむろに何度か瞬いたのち、苦笑を零した。


『あなたと安心して暮らす為にお金を稼ぎたいのでお気持ちだけ。と言いたいところですが。そうですね。同業者もぼちぼち出て来ましたし。身体も疲れて来ましたし。大幅に。とはいかないまでも減らしますよ。これから騒がしくなりそうですしね』











(2022.3.3)


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