畳壁
診療所に入った八恵華と道花を玄関先で出迎えたのは、すだれ衝立とすだれ衝立にかけられている、愛らしく咲く一輪の桃の桜草の小さな掛け軸だった。
瀧雲は先が開いているスリッパを大人用と子ども用それぞれ一足ずつ靴箱の上段から取り出して床に置き、靴を脱いだ八恵華と道花にどうぞと勧めた。
八恵華と道花は靴を靴箱の下段に入れてから、スリッパを履き並んで瀧雲の後について行けば、まるで和喫茶のような部屋に通された。
三方一面の壁は畳、床は桜色の板、天井は永い年月を連想させる立派な梁と茅で構成されたその部屋には、脚の長い丸い机が四脚、それぞれの机に背もたれのある丸い椅子が四脚置かれていた。
い草の匂いに包まれたそこは待合室で、桜草がちりばめられた襖の向こうに診療室、さらにその奥に治療室があった。
瀧雲は玄関に近い机の椅子に座るように勧めて、隣室の診療室から二枚の紙と水の入った平たい皿を持ってきた。
花瓶と説明書兼承諾書である。
瀧雲が摘んで来た一輪の桜を入れてくださいとお願いすると、八恵華は水の上にそっと乗せた。
瀧雲はぷかぷかと桜が浮いている花瓶を机の端に置き直してから、紙を八恵華と道花が読みやすいように机に置いて、初めの文章の手前に手を置き説明を開始した。
「花と海藻、竹の地下茎にできる茸をまとめて薬草と呼んで、火で乾燥させたこれらに私秘伝の太陽の雫を混ぜ合わせ、日光と月光で乾燥させてできたお香、安眠薬香を八恵華さんに使います。花は桜、海藻は浅いもので夢をずっと見続けます。八恵華さん。よろしいですか?」
瀧雲は斜め前に座っている八恵華に確認すると、八恵華ははいと答えた。
瀧雲は小さく頷くと、確認を続けた。
「使用場所はここの治療室、時間は十三時から二十一時まで。八恵華さん。よろしいですか?」
「はい」
「安眠薬香は明日の朝、十一時にはできる予定ですが、もし十三時までに間に合いそうにない場合は、ご自宅に電話をします。八恵華さん、道花さん。よろしいですか?」
「「はい」」
「はい。では次に注意点を説明します」
瀧雲は紙の中央に書かれている文字の手前に手を置いた。
「安眠薬香は眠れなくなった心身に眠る感覚を思い出させる為のもので、害が及ぶものではないのですが、時間がかかる場合があります。それは何か事情があって患者さんが受けつけたくなくなる場合です。匂いが嫌いだとか、やはり夢を見たくなった、見たくなくなったなどさまざまです。一般的に三日あれば改善しますが、受けつけない場合は時間がかかります。今まで最長で一か月かかりました」
ゆったりと話していた瀧雲は顔を上げて紙から八恵華、道花へと視線を移し、少しだけ厳しい顔を向けた。
「時間もお金も、そして安眠できない不安や焦燥による疲労など、問題は少なからず出てきますが、安眠は大切なので諦めないでうちに通ってもらえたらと思っています。もちろん、私の方法が合わない患者さんもいらっしゃいますので、効果が出ない場合、もう信用できないと思われた場合は、決して無理強いはしません。その場合にも、他の診療所を紹介するなどできるだけ補助したいと思っています。八恵華さん、道花さん。よろしいですか?」
「「はい」」
「はい。では、八恵華さんの名前を、こちらに道花さんの名前を書いてください。机の下に引き出しがありますので、そこのボールペンを使ってください」
いつもの優しい微笑を湛えた顔に戻った瀧雲から言われた通り、八恵華は上からは見えない机の下にある引き出しからボールペンを一本取り出して自分の名前を書き、隣に座る道花にボールペンを手渡した。八恵華から受け取った道花は八恵華の下に自分の名前を書いて紙を瀧雲に手渡し、ボールペンを机の上に置いたままにした。
瀧雲は不備がないかどうか確かめると、名前が書かれていない説明書を八恵華に手渡した。八恵華は説明書を手に持ったまま椅子から下りて瀧雲に顔を向け、頭を一度下げてはまた上げて、よろしくお願いしますと言った。
道花も慌てて椅子から下りて、頭を下げては上げて、お願いしますと言った。
「はい。一緒に。よろしくお願いします」
瀧雲も椅子から下りて、頭を下げては上げてそう言った時、桜もお辞儀するように微かに揺れたのであった。
(2022.2.17)
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