盃
季節を先取りしたのか。
深更のような暗闇でも鎮められぬ炎暑の残影に軽い息苦しさを覚えながら、最初手の甲で拭いていたのだが、面倒さが勝って、浮き出るまま、流れるままにしておいた煩わしい汗。
まさか空を舞うのはこれではあるまいなと薄く笑う。
ひらりとつまめるほどに眼前で、腕を伸ばしても届かないほどに遠くで、銀の花びらが舞う。
ひらり、ひらりと。
さくらの花びらだ。
いいや、花ではなく雪だ。
やはり、塩の結晶か。
それとも、名を知らぬ存在か。
正体が掴めぬそれに視界だけは逃すまいと追い続ける。
ひらりひらりと。
目を傷めぬ仄かな輝きを以て。
他の音を微かに吸い上げながら。
ひらり、ひらりと。
舞い続けて。
呼び寄せているのだろうか。
夜明けを。
溶けたのか。
見えなくなっただけか。
帰っただけなのか。
不意に銀が消えて、深淵一色に染まり無音の世界が訪れたかと思えば、深海の薄明りが足元からせり上がり、さくらの花びらがまるで雀の大群のように一気に飛び立った。
朝が訪れた。
いずれ眩い陽光が世界を照らすだろう。
私は小さく噴き上げただけの前髪を整えて、歩き出した。
どこへかは、わからなかった。
近くに植えられておらず、また、強風が吹き込んだわけでもないにもかかわらず、灰の盃に舞い降りた一枚の桜の花びらを退かさずに米酒を片口から注ぎ込めば、花びらは海月のように、すぼまっては広がって底に辿り着き、ひらりひらりと踊りながら、やおら浮かび上がってきた。
瀧雲は呟き、杯を傾けて米酒で唇を湿らせてから、空へと捧げんばかりに盃を持った手を振り上げては、地へとばら撒いた。
「さあて一仕事ひとしごと」
桜の花を摘んで来た凛香たちの声が聞こえて来た瀧雲は腕を曲げては気合を入れ、出迎えに行ったのであった。
(2022.2.15)
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