【君の名前、三嶋君だよね?】
翌日から俺は、心を入れ替えたように真面目に大学に通った。
大学生は比較的自由な身分とは言え、本分は学業だろう。それなのに、人並みに講義を受けているだけで、自分が偉くなったように感じられるのだから現金なものだ。
むしろようやく、普通の大学生らしい生活をしているとすら言える。
なんて、この程度で大手を振って歩いていることに自嘲した。普通って何だろうな? この俺が『普通』を語るとか、世も末だわ。
天変地異の前触れとかに、ならなければよいのだが。
芳田さんと会った雨の日から、三日が過ぎていた。
昼休みになると講堂の中をブラブラと歩き回り、美帆の姿を探した。
ところが、何処にも彼女の姿はない。
こちらから探さずとも隣にすり寄って来て、手を握るか腕を組んできた彼女が、いったいどうした風の吹き回しか。もう三日も会えていなかった。
やはり妙だ。確かに彼女は、何事にも緩いスタンスで取り組み、日々勝手気ままに過ごしているタイプではあるが、大学を休むことはあまり無かったように思う。
いまの俺と比較したら、余程真面目に生きている人間だった。
美帆に会って謝ることは決めていた。
雨の日の帰り道、美帆の自宅に行くと約束したのに、ほったらかしてバス停に向かったこと。
その翌日、バス停での顛末を話してる途中で、また彼女を置き去りにしてしまったこと。
そういえば、と俺は思う。
気のせいだろうか──芳田さんを見かけた日は、全てが雨の日だったような気がする。偶然だろうか。会ったといっても三度だけだし、そりゃあまあ偶然だろうが。
見覚えのある女子生徒と擦れ違ったのは、今日は帰ろうと玄関ホールを目指しているときだった。「あれ? 三嶋君だよね」と声を掛けられ、芳田さんのことに飛躍していた考えを止めた。それは、何度か美帆と一緒に居る姿を見たことがある、同学年の女子だ。
「ええと、名前なんだっけ?」と言うと、彼女の顔が渋くなる。「佐藤さんだっけ」
「斎藤だよ」
「だよね。そうだと思ってた」
「……やっぱり、噂通りいちいち発言が軽いね」
「余計なお世話だよ。というか、俺のこと知ってるんだ?」
「そりゃ知ってるよ。だって君、美帆の彼氏だったでしょ? 本人からも何度か聞いてるし」
斎藤さん。見た目は及第点だけど性格キツいな。それはともかく、『彼氏だった』ってなんだよ。過去形にすんなよ。今でも彼氏だよ。
「……そっか、なるほど。んで、今日美帆って来てないの? 朝から見かけてないんだけど」
そう訊ねると、彼女は不思議そうな顔で俺を見た。その表情が、憐れむようなものに次第に変わる。
やめろよ。なんでそんな目で俺を見るんだよ。
「もしかして三島君。美帆から、何も聞かされてないの?」
「聞かされてって、なんの話?」
「うわっ、ほんとに?」
彼女いわく、両親が離婚したとかで、美帆は三日前に引っ越したのだと。この時まで俺は、そんなことは露とも知らずに過ごしてきた。
マジかよ?
自分でも似合わないと思う。だが、らしくもなく俺はショックを受けていた。確認の電話をしようとスマホを取り出して──そのままポケットにまた仕舞う。
なるほど、と俺は合点していた。
一週間前のあの日、美帆は引っ越しのことを伝えようとしたのだろう。ところが俺は、ろくすっぽ話も聞かずに駆けだして、浮気をしてるんじゃないかと疑われた時も、弁解ひとつせず自分のことばかり考えていた。
そりゃあ、愛想もつかされるだろうさ。
確かに美帆は嘘をつく女の子じゃなかった。だが同時に、俺に対して全てを打ち明けてくれる女の子でもなかったわけだ。
これで彼女を恨むなんてお門違い。完全に自業自得。一度たりとも彼女に、『ごめんなさい』と伝えたことなどないのだから。
こうして俺は、またひとつ失恋を重ねる。
しかしそれは、七年前の失恋と比べると小さなダメージで、立ち直れない……なんてこともなさそうだ。
むしろ、この程度しか傷ついていない自分のことが、たまらなく悲しかった。フェイドアウトしていくようなこの振られ方は、あの時とよく似たものなのに。
その日の夕方。彼女──芳田さんを描いた水彩画が遂に完成した。
当初、色鉛筆だけで描いた下書きのような絵だったが、そこに丁寧に色を塗り重ね、水彩画として完成させたのだ。大学から帰ってきてから毎日のように作業して、それでも三日ちょいかかった。
完成した絵を、引きの視点から俯瞰する。やっぱり、森川菫とよく似てる。
それとも無意識のうちに、記憶の中にうっすらと残っている森川の面影に、絵の方を寄せてしまったのだろうか?
まあ、どっちだっていい。
俺は明日この絵を持って、彼女に会いに行こうと思う。
◆
翌日は、しとしとと霧のような雨が降る日だった。
玄関口にいくつも並んだ植木鉢の花は、もれなく無残に枯れていた。久しぶりの雨だったが、どうやら少し、手遅れだったらしい。
ちゃんと水やれよな、おかん。
自宅の庭先に植えてあるアサガオの葉の上を、大きなカタツムリがゆっくりと這っていた。
その様子を縁側からじっと見つめ、俺も今日は、カタツムリ同様ゆっくりしようと考えていた。
午前中いっぱいを自室と縁側の往復で費やし、正午になってから階段を下りてリビングに顔を出すと、おかんに朝食を強請った。
「もう昼食の時間だろ。もう少しちゃんとしなさいよ」と咎められた。妹にまで「ダラしないよ。お兄」と責められる始末。「うるせーな。分かってるよ」と、素直に謝っておいた。まあ、これでも俺なりに。
結局、午後も同様に自堕落に過ごして、夕方近くなってから家を出る。出来上がった水彩画を、手提げ袋に入れて持参した。
外はまだ、雨が降り続いていた。
たぶん。
いや、恐らく。
彼女は今日も一人で、バス停に佇んでいるんだろうと、理由もなく俺は思う。
傘を差して歩き始めた。
向かった場所は、徒歩でもじゅうぶん辿り着ける距離。傘を叩く雨音を聞きながら歩き続けること、十分ほどで到着する。
目的地である港北小学校の校門から、傘を差した小学生が何人か出てくる。けれど、その数は少ない。遅い時間なので、大半の生徒が下校を済ませたあとなのだろう。
霧雨によって白く霞みがったように見えるレンガ色の校舎を、懐かしい気持ちで見ていた。
そのまま、何分待っていたのだろう?
「蓮?」と霧島七瀬に声を掛けられるまで、仕事を終えた彼女が学校を出てきた事に気付いていなかった。
「突然、待ち伏せみたいな事をしてスマン。これからちょっとだけ話せるか?」
俺がそう問いかけると、切れ長の黒い瞳を大きく見開くようにして、彼女は「うん」と頷いた。
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