番外編3 友達

 夏休みが明けてすぐのその日は文化祭の一週間前で準備も大詰めだった。

 自分のクラスでは家庭科部と女子が中心になってカフェをするらしい。

 全クラス提出義務のある横断幕の、下書きされた絵への着色はやってもやっても終わらない。

 教室はメニュー開発と飾り付けでこれを広げるスペースはない。下書き通りにとにかく色を乗せておけ、仕上げは得意なやつが後からやる。と追い出され、旧館こと実技棟2階、廊下に男子五人で詰め込まれて美術部の下書きに色をつけていく。

 夏休み明け、ねっとりした暑い廊下で絵の具を混ぜるやつと色を塗るやつに分かれてひたすら作業をする。辺りが飲食系の試作品かなにかの甘い匂いが漂ってきた。同じ棟のどこかにある家庭科室からだろう。

 誰もがやる気もなく、「だるい」「あつい」「かえりてぇ」なんて声も出尽くして、だらだらやる気もないまま描いた横断幕は、色むらがあるわ、そもそも量産しなかったせいで最初に作った黄緑と、続いて作った黄緑は全然違う色をしているわ、神経質なやつが見たら卒倒しそうな有様だった。少なくとも1文字目と2文字目はどうみても別な色で書体も違う。

 教室棟から全校生徒の熱気と、何を言っているかわからない楽しげな声が響いてくる。向こうはクーラーが効いているのかと思うと殺意が湧いた。

 細かい塗り残しをそのままにもういいだろうという雰囲気が流れ始めた頃。担任が財布を持って現れた。クラスの生徒全員にアイスを奢ってくれるらしい。一人荷物持ちに連れて行くと言った。

 風の抜けないここにいなくていいならなんでもいい。少なくともコンビニは涼しいし、教室で配って食ってる間は涼める。全員が汗を袖や襟で拭いながら立ち上がった。足元がふらつく。

 殺意のこもった合図と共に出したチョキが一発で負けた。死ね。

 続いてグーを出した多比良が負け、田中と山下二人を佐藤が一度に封殺したのをよく覚えている。二度続けてグーを出した多比良がバカだと笑われていた。廊下の壁がひんやりして心地いい。負けた二人が審議だ後出しだとギャーギャー叫ぶから、担任がもういいと三人を引きずってアイスを買いに行ったんだった。

「ね、高萩。」

「んだよ。」

 手の甲で首を拭う。首には手についた絵の具が、手には首からとめどなく溢れ出す汗が互いに張り付いて不快だった。色移りした黄色が襟に付く。帰ったら親に文句を言われるだろうなと思った。刷毛で背景に使うらしいクリーム色を混ぜ続ける。白に黄色を混ぜて混ぜて混ぜる。強く混ぜすぎたせいか刷毛の抜けた毛が小さなバケツの中で浮いている。アクリル絵の具の匂いが廊下中に充満して臭い。

 二人きりで残された、多比良とはさほど話したこともない。仲が悪いわけでもなく、ただよく話すメンツが被っていないから縁がない。わざわざ話しかける理由もない。暑さに脳を浸されながら相槌を打った。

 コイツはまじめに作業をしているつもりみたいだが、色塗りは苦手なのか、何度かはみ出して塗っては拭き取っていた。

 よく知らないが、少なくともへなへな情けなく眉を下げて笑うやつだということは知っていた。少なくとも今高萩に向ける顔もそんな顔だ。まぁ、ただし苦笑いの方が近かったが。無言が居心地が悪かったのかもしれない。

「……僕、きょ」

「おーい!多比良ー!」

 多比良が何か口を開こうとした時、体育教師が呼びに来た。パッと驚いた顔をした多比良が振り返る。なんの話だったのだろうか。それはともかく教師曰く、親が来ているらしい。

「えぇ、と、僕、その、作業が、まだ……。」

 チラチラ見てくるのが鬱陶しい。

「行って来いよ。」

 手を払いながら顔を顰める。どうせ買い出しに行った奴らはなるたけゆっくり帰るんだ、自分達だけこんな暑い中まじめに作業するのも馬鹿らしくてやってらんねぇよ。バケツを放り出して休憩しようと壁に寄りかかる。

 一度口を開きかけたものの、また困った顔をした多比良は何度か名残惜しそうにしながら体育教師に連れられて正門の方に歩いて行った。

 壁と体の間で濡れたシャツが肌に張り付いてひどく不愉快だ。でも同時に背中からコンクリートにじわじわ熱が奪われる。ズボンすら湿っている気がする。ベルト周りは既に水に浸したのと変わらない。どうせ一人だし、戻ってくるのも男だけだ。Yシャツの前を開けて中のシャツを直接扇いだ。暑い。

「、あ、っつ……。」

 思わず声が漏れた。もう限界だ。冷たい飲み物が欲しい。今なら温度さえ低ければなんでも飲み干せる気がした。教室に財布取りに行って自販機で買うか。誰かが戻り次第必ず涼みに行く。そう誓った。

 こうして一人になると廊下は案外静かで、裏門に続く階段が近いせいか出入りする人々の会話をする声は案外はっきり聞き取れる。

 暇つぶしに耳を澄ませると、走り回る足音、うまく行っていないのかギスギスした話し声、だらけたサボり、仲の良さげな先輩後輩。戯けた叫び。色々な音がする。校舎のつくりのせいで音が響く。耳が拡張されたみたいだ。ただ、どの音も教室棟と正門に偏っていて、案外裏門を使う奴は少ないらしい。

 ハイヒールと少し嫌そうに足をひきつづるローファーの音が作業場の脇の、階段の下付近で止まった音がした。正確な場所は目の前の窓の下辺りだろう。その女性の足音が意外だった。学校では聞いたことがない。ピンヒールの高圧的な音をさせるような教師はいなかった。

 それでもボソボソ二人の会話が始まるとすぐにそれが誰かわかった。片方は多比良だ。またあの情けない困ったような顔をしているのだろうと分かる声でその女に何の用か問いかけた。ひび割れて掠れて、その相手が苦手なのだろうと予想がついた。

「あの、かあさん。なんの、用……?」

 予想通りピンヒールの方からは女の人の声がした。一歩の感覚も狭い。身長は凡そ平均程度か。静かで落ち着いた質の声だ。なんと言っているかまでは聞きなれないから聞き取れない。

 すくなくとも優しげな声に多比良がなぜそんなにも萎縮しているのかわからない。中腰になって腕を伸ばし、静かに窓を開けたが、風一つ吹かない。太陽に焼かれた空気が入り込んでくる。廊下には置かれていないとはいえ、クーラーの影響は多少あったらしい。暑さは廊下の方がまだマシだった。涼しさを求めたわけでなくとも辟易せずにはいられない。

 階下に耳をそば立てる。それでもまだ他の声に埋もれてよく聞こえにくいが、なんと言っているのはわかった。その女の口から出た言葉は、声に反して尖っていて毒々しい。

 多比良の人生を否定する呪詛がその口から漏れ出していた。

 小学校受験に失敗した話。中学で何らかの賞を取れなかった話。テニスだのピアノだの絵画だのの習い事で成績がよくなかった話。そこそこの賞を取っていても一番でないからと言って責める。

 高校に至ってはこの高校ではなく、進学校か最低でもトップクラスの大学の付属校でさらに上を目指すべきだの。柔らかで優しげな口調、心配するような言葉の本質は猛毒のオンパレード。多比良の何かが気に入らないらしい。ただその邪魔をしたいと言外に聞こえた。

 多比良は小さく苦笑して、顔を苦笑いに歪ませながら言う。

「うん、――うん、……うん。……あの、はい。……でも、おじさん関係なく僕が選んだ高校だから。――――、うん、うん。」

 立ち上がって思わず本当に多比良か確かめていた。多比良は適度になんでもできると思っていた。けれど。

 窓から身を乗り出して真下を見ても多比良は見えなかったが、想像通りの場所に綺麗な女の人が見えた。毒を吐くようには見えなかったが、清廉潔白にも見えない人だ。多比良の方は周りを見渡せばすぐ見つかった。校舎から二、三メートルほど離れた木の影にいるらしい。植物の影から少しだけ見えるアイツの立っている場所は、二人で話すには少し離れていてその心情が見て取れた。

 小さな女の人の前で縮こまる多比良は身長の高さも相まって情けなく見える。諦めたような仕草でその体の力を抜き、ふと上を向いた。

 あ、目があった、と思った時。

 もういいから帰りましょう。あなたの居場所はウチにしかないわ。女の人がそう言った。

 多比良の顔は見えない。でも、植物の隙間から見えた目が潤んでいる。高校生にもなって、泣きそうに立っていた。風が吹いて葉がざわざわ揺れた。多比良の口が、声を出していないとわかるぐらいヘタクソに「助けて、ハジメ」と、動いた。

 ――何度か本当に困っている友人に手を伸ばしたことがあった。次宿題を提出しなければ落第するやつを手伝ったり、大会の日にマネージャーの手が足りなかったり。それも自分から助けたわけではなく、3、4回もしくは4、5回頼まれて、最終的に折れて手伝っただけだった。その時生まれたあるフレーズがあった。きっとクラスのやつ全員が聞いたことがあったと思う。たまたま全員が叫んだフレーズがこれだった。

「お願いもう無理助けてハジメ。」

 別に願いを聞くことにおいて、そのフレーズが重要だった訳ではないけれど、語感がいいせいか、これを言えば俺が手伝うんじゃないか、みたいな風潮が仲間内で出来上がった。

 おまじないの言葉として俺に小さな頼み事をするときに何度か仲間内で使われた。クラスメイトにはいつしか俺に頼み事をする時の呪文として広まっていた。あの呪文は?なんて。

 そんなノリ、せいぜい一月もたなかったブームだ。

 もしかしたら多比良は別のことを言っていたのかもしれない。盗み聞きするなとか、ただ目に入った俺の名前を呼んだだけとか。でも、さっきまで混ぜていた白と黄色の絵の具が大量にぶち込まれたバケツに水を放り込んで混ぜて窓枠に置いた。悲しそうだった目が瞬いた。目が見開かれる。固まった多比良に女性が呼びかけた。

 ただ止めるわけでもなく見続ける多比良の目の前で中身を窓の外にぶちまけた。天地無用のバケツからバシャバシャ大量の色水が落ちる音。

 甲高い悲鳴。

 それも浮かれた学校の雰囲気に飲まれて消えた。咳をする音がする。下を覗き込むと、慌てて駆け寄った多比良が丸まったその人のそばに片膝をついてその背を撫でていた。

 ハッとこちらを見た多比良の口が、高萩、と動いた。声が出ていたのか、出ていなかったのかはわからないが、そちらに向けて、ぐ、う、ぜ、ん、とだけ口を動かしてバケツは荷物の影に置いて逃げた。

 教室に駆け込むと驚いた顔をした奴らが揃ってこちらを見返してきた。財布を掲げて言外にこれを取りに来ただけだと示せばすぐにその視線だって霧散する。出来るだけ人の少ないルートを走ってあの廊下から遠く離れた校舎の反対側にある自販機まで行って、そこにしかないまずい乳酸菌飲料を買ってゆっくり歩きながら戻った。

 多比良が適当な言い訳をしたのか、そこには誰もいなかった。座りながら一気にペットボトルの三分の一を飲む。まずい。

 そうしていると多比良と体育教師が戻ってきた。

 手に持った飲み物を見て教師がここを離れたか、と聞いてきた。結露したそれを掲げながら肯定する。嫌そうな顔はしたものの、疑うには別段証拠もない。

 教師は念を押した後、嫌そうな顔をしながら踵を返す。首を傾げる教師を横目に多比良は気配を消してこの場に残った。

「そ、の。」

 気まずそうな多比良に対して言う。

「俺はこれを買いに行ってここにはいなかった。」

「え、あ、うん。どこにかはわからないけど、偶然どこかに溜まってた水が落ちてきたんじゃないかな、昨日は雨だったしって言ったよ」

「そうかよ。」

 二度と買わないと心に誓っていた乳酸飲料を口に押し込んでまた顔が歪む。蓋を締めて端に放る。

「あの、」

「んじゃ行くぞ。」

「え?え、どこに?」

「美術室。」

 通常授業で使う消耗品を使い込まないよう、絵の具の貸し出しは禁止されていた。美術教師を多比良に押し付けている間に刷毛をとるふりをしながらでかいチューブに入った、多分他のクラスの余り物であろう絵の具を2本を比較的綺麗そうなバケツに放り込み、上から筆と刷毛、ヘラ、ハサミで隠して持ち出した。暑いふりしてYシャツを上に丸めて入れた。

 保健室の方が騒がしい。あの母親がいるのがそこなんだろう。

「え、え、あの、大丈夫なの?」

「しらねぇよ。でもどうせあまりの絵の具なんか誰も把握してねぇし、白い絵の具は使い切った。」

 廊下に戻ってすぐに隠して置いたバケツに向かって絵の具を出す。チューブに直接鋏を入れて、筆で掻き出した。黄色はなんとか余っていたからそれを突っ込んでヘラで混ぜる。ダラダラやっていた無駄に時間のかかる作業が一瞬で済んで気分が萎える。初めから機材担当が用意しろよ。いくらか絵の具が足りない分は水で誤魔化した。初めに作っていたものより黄色いがまぁ、許容範囲内だろう。

「あの、……あの、」

「んだよ。」

 冷たい以外に価値のないペットボトルを弄びながら促す。文句ではないみたいだが、何もなかったフリでもしてればいいのに。

「あの……、僕も、ハジメって呼んでいい?」

 まじまじその顔を見た。頭おかしいんじゃないか?

「頭おかしいのかよ」

「え?ダメだった?」

 好きにすればいい。ため息が漏れた。

 俺が口を開く前に、手を振る買い出し組が戻ってきていた。どこ行ってたんだよ。アイスはもう溶けるからクラス全員で食べた。そう言う買い出し組と一緒にやってきた美術部に混ぜた絵の具を渡すと、黄色すぎるし、水っぽすぎる!そのまま横断幕を見て色むらがひどい、塗りが雑だと怒り出した。

 説教を話半分に、白い絵の具がないことを言い訳にして多比良を引き摺って買い出しへと校内を後にする。絵の具のチューブは回収して他のクラスのゴミ箱に放り込んだし、どうせこれで証拠自体は隠滅が終わった。今残ってる奴らに話を聞こうにも全員何も知らないし、俺たちは校内にいない。そのうち学校が有耶無耶にしてくれることに期待しておけばいい。

「あのさ、高萩。」

「……」

「……」

「……、お前もう要件から入れよ……。」

 答えるまで何も言わない多比良を睨みつけると、困った顔で笑った。続きを早く言え。

「ありがとう、聞こえるとは思わなかった」

 思わず言葉に詰まった。

「――、――――きこえてねぇよ。多分そうなんだろうなと思っただけで。」

「そっか、――そっかぁ……。あのさ、証拠も隠滅して学校側にもうバレることはないと思うし、これで怒られたりバレたり騒がれたりってことはないと思うから安心して。」

「……はぁ?」

 眉間に深い皺がよる。どうせ証拠が集められたら自分がやったってバレるんだ。何言ってんだこいつは。

「うん、その、かあさんは、騒ぎになるのが嫌だからさ。犯人探しはもう良いって断ってるんだ。きっと学校に戻る頃には有耶無耶になってる。俺のあの無茶な言い訳が通ったことになったって言うか……。

 ただ、あの、そっちには聞こえてなかったんだろうけど、僕、あの時最後にお前の名前読んじゃったから、母さんに名前だけはバレてると、思う。だからあの学校の“高萩”のことも今後機会があっても避ける。今後一切行事にも来ないんじゃないかな。

 母さん、その、野蛮な?こと本当に嫌いなんだ。絶対関わらない人だから。

 それで……その、こう言ってはなんだけど、助かった。……ごめん、助かった、んだ。」

 そう言って多比良は笑った。へなへなの眉が情けなく下がって、口元は歪に引き攣っていたけれど、本人は多分、笑ったんだろう。二人で並んで歩く。ホームセンターまでが遠い。

 母親とどの程度仲が悪いのか高萩にはわからない。それが度を越したものなのか、多比良の反抗期が下手くそなのか。あの助け方は二人の間にどんな影響をもたらしたのかわからないし、その責任だって取れない。

「……お前、俺のことハジメって呼ぶんじゃなかったのかよ。」

「!いいの?」

「好きにすれば」

 高萩が彼ら親子二人の間に決定的な亀裂を走らせたのかもしれない。実際に多比良は思うところがあるのか自分の手首を硬く固く握りしめて笑う。爪が割れそうなほど食い込んで、指先がずっと真冬の雪原に突っ立っていたせいで霜焼けにでもなってしまったのかと思うほどに白く、赤い。

 小さく震えて小さく言った。

「アイス、奢るよ。」


 二人だけの秘密ができた日

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