番外編2 6月の冬の森
越冬 メモ
ハッと気がつくと、目の前一面が銀世界だった。車内は息が白く今まで俺が走っていたはずの道路はどこにもない。
月や星も出ていないのか、見える限り全てが黒く、街頭一本ない。ライトに当てられていない雪面は、ぼんやりと灰色に広がっているが、それだけだった。数メートルも先には穴でも空いているように何も見えない。
とりあえず、と冷房を切った。
エンジンが唐突に嫌な音を立てて止まる。長く連れ添ったこの中古車もついに寿命を迎えたのか、何度鍵を回しても黙ったままだった。しかし、今ここで固まられるとどうしようもない。もしここが田んぼ道のど真ん中だとしても、せめて光が少しでも見えなければどちらに進めば良いのかわからない。
車に雪が降り積もる。黒いバンパーが白く染まっていく。
自分のハンドルを握る指先が悴んで震える。白い息が車内で霧散した。
今の装備は車から降りるにはあまりに薄着すぎる。前後左右車どころか人っ子一人いない。八つ当たりにダッシュボードを殴る。殴ったところでエンジンからは黙殺された上に、拳が痛い。クソ。
読書灯を頼りにグローブボックスからロードサービスの番号のメモを取り出し、悴む手で4-3-3桁のフリーダイヤルにかける。
――――――――――――――――――
オペレーター:私の言葉が聞き取れますか?
―――〜〜、〜〜〜〜〜〜。――
オペレーター:よかった。では私はー、」ーと申します。聞き取れますか?
――…………。――
――〜〜〜、――
――〜〜〜〜〜〜〜。――
オペレーター:そうですか……、では、私のことはオペレーターとお呼びください。
ガソリンはありますか?
――〜〜〜〜。――
オペレーター:暖を取れるような毛布、寝袋、カイロなどはありますか?
――、〜〜〜〜。――
――〜〜、〜〜〜〜〜〜〜〜?――
オペレーター:よかった。あなたはとても運がいい。質問にお答えする時間はありません。私の言うことをよく聞いてください。
まず、夜が明けるまで絶対にドアと窓を開けてはいけません。
雪による一酸化炭素中毒にはなりませんから、寒ければ暖房をかけても構いません。
――〜〜〜〜〜〜〜〜〜?――
オペレーター:エンジンは心配せずとも大丈夫です。さぁ、私を信じてキーを回してください。
――〜〜!〜〜〜!――
明日の朝、必ずレッカー車が迎えに行きますから、バッテリーが上がろうが、燃料が切れようが、どんなことが起きようが外には出ないでください。
――……、〜〜〜……。――
これが最後です。できれば今すぐ、早急に眠りにつき、外を出来るだけ見ないでください。
――〜〜〜〜〜、〜〜〜〜〜〜?――
大丈夫です。必ず朝には迎えが来ますから。どうか、忘れずに。
――――――――――――――――――
電話はすぐに繋がった。が、スマホからは聞いたことのないノイズが混じる。たとえばそれはチューニングに失敗したラジオような、大きくなったり小さくなったり、雑音の混ざる聞き取れるか聞き取れないか怪しい声。日本語では無いようにすら思えるあの音声。相手の声だけに集中してその言葉を聞き取ろうと必死になる。
電話の相手は俺より少し年上の男だろう。どこか手慣れた雰囲気と、問題に焦る顧客を安堵させる話し方がうまい。
話しながらシートを倒し、後部座席を侵食する積まれたままの荷物の中から、小さく袋にまとめられたダウンコートを着込む。あまりの降雪量に外に降りて回り込む気は起きなかった。
運転席の真後ろに積んだ、キャスターと蓋つき収納ボックスに阻まれてあまり倒せない。普段は気にしないが、荷物のせいで車内はひどく狭い。
かしゃかしゃした独特の布擦れ音だけが雪に飲まれずにこの車内で落ちる。
「あー、はい、そうです。」
「ーーーーーーーーーーー」
「車がエンストして……。えぇ、あぁ、はい、」
「ーーーーーー」
「ここは、『彁閠妛』、で、す。
――あ?」
――俺は、今、何を口ずさんだ?
口から出てきたのは想定していない地名だった。聞いたこともない土地だ。自らが何と発音したのか理解できなかった。直前まで走っていた土地の名前を言ったはずだ。しかし、一切思い出す事ができない。一体、どこを走っていたのだろうか。
まるで夢の中にいるように自分がどこかふわふわとして現実味がない。
それとは対照的に電話の向こう側の雰囲気が事務的なものから臨機応変に対応しなければならない緊急事態へガラリと変わった。
ーーー外は雪ですか?
その言葉がやけにはっきり聞こえた。今は六月を少し入った頃だ。早くともこれから半年は雪が降ることはない。その質問が出る、と言うことは、向こうにはこちらの今の状況がわかっているらしい。
よく、あるのだろうか。
最悪の音質だが、相手の言葉はギリギリ聞き取れた。
オペレーターの名前はノイズがひどくかかる。わからない。強く問い詰めても質問に答えず、一方的にああしろこうしろと告げて来る。
しかし、直感がオペレーターを信頼しろ、従えと叫んでいる。
帰る前にガソリンは満タンにした。まだ一メモリしか減っていない。
一昨年買ったカイロがメモ帳の下でぐちゃぐちゃに二つ押し込まれていたのを、電話をかける前に見かけた。
言われるがまま、ダウンごと仮眠用の毛布にくるまった。
オペレーターの言葉に従ってキーを回した。
車体がかなり雪に埋もれて進むことは出来なさそうだが、さっきまでかからなかったはずのエンジンが動き出した。
オペレーターの、――時間がない という、吐息にも似た声がノイズの隙間に混ざった気がした。
――どうか忘れずに。
どうか、ご無事で。
その声がノイズに負けて電話が切れた。そして、耳に刺さるような不通音。
スマホの電源を落とし、助手席に放り投げたウェストポーチにしまった。
静寂。ここは何の音もしない。
暗い。ヘッドライトの一本道以外が全て暗い。一面の銀世界は前も左右も全てに何も見えない。絨毯みたいな雪がただただ広がっている。
バックミラーの中で、バックライトも光っていることはわかるが前方同様、ただ白がライトに照らされて赤く染まる。
ここはどこだろうか。街頭もない公道にも、ここまで暗いと森の中にも思える。もう30センチほどの高さまで積もっている。ドアを開ければ雪が侵食してくる量だ。
雪の降りしきるどこかでぽつりこの車だけが落ちている。
人が通った形跡すらなく、シーツのようにどこをとって見ても平坦だ。
「……車の前を雪かきすれば抜けられそうだ……」そんな気がする。
……、いや、おかしい。明らかに雪がうず高く降り積もっている。少し雪をかいたところで出られるわけがない。何だ今の思考は。知らない思考が自分の中に混ざった。
「この車から降りてはいけない。」
オペレーターの声が聞こえたような気がした。
あの言葉たちに従って、読書灯と暖房をそのままに眠りについた。
――――――――――――
車の振動で目が覚めた。
それはまるで人が同乗してきた時の、ゆりかごのような小さな揺れだった。
ゆっくりシートと共に身を起こす。
首がこっている。回すとコキコキ音がした。背骨が軋む。
自分の周りには何の異常もない。助手席のウェストポーチは放り投げた時のまま、変わりなく座席を占領していた。
バックミラーの角度を変え、後ろを見る。車の背後には何もない。ただぼんやりとライトに雪が照らされている。車の内部にも異常は見当たらなかった。しんしんと雪が降り積もる。
この車のトランクから後部座席までは荷物で埋まっている。人が座るスペースはない。
ドアの開く音はしなかった。
視界に入ったボンネット上にも何もなかった。
……上か。
車の天井をチラと見るが、自分に透視能力はない。
車の光で見える範囲には何もないが、恐らく周りにある木や電線から雪でも落ちてきたのだろう。と、いうことにした。
目覚めた瞬間から今まで何も起きていない。
気が付かなかったフリをしてシートを倒し、毛布を引き上げて再度眠りについた。
――――――――――――
寝苦しさにぼんやり意識が浮上する。
息が詰まっていたのか、大きく吸った息が肺の奥まで冷えた空気を運んでくる。吐いたそれはひどく白い。
寝ぼけた頭でドアの向こうを見た。暗く、何もない上に、雪が音を吸収するためか、ひどく静かだ。
大きく深呼吸。
吸い込むのに合わせて大きな欠伸。
心地よい痺れ。生理的な涙で視界が歪んだ。
倒したシートの上で寝返りを打ったことで、先ほどと似たような動きで車体が揺れる。
助手席向きに体を動かしてみる。座りが悪い。座席を極限まで前に出し、シートを出来るだけ倒した。運転席のヘッドレストを外してしまえばもっと倒せるが、頭の居心地が悪い。
試行錯誤の末、最初より少しシートを倒した状態で、初めとほぼ変わらない姿勢に落ち着いた。
今までより更に強く毛布にくるまって眠った。
――――――――――――
バンッ!!!
唐突な爆音に目が覚める。
キョロキョロと周りを見渡したが何もない。外は変わらず暗く、寒い。窓の外で雪が降り積もっている。
思わず投げ捨てた毛布が車の前半分を覆い、ハンドルの形に盛り上がっている。包まれていた全身が温度差でひどく寒い。
…………静かだ。
今の爆音は上から聞こえた。思い返してみると、大粒の雨が叩きつける音に似ていた気がする。うるさい。跳ね上がった心拍を抑え、勢いよく息を吸い、そして吐いた。喉の奥が氷を差し込まれたようにつめたく、意識が覚醒する。深く眠っていた時の感覚があった。
抑えきれない欠伸が漏れた。
朝ドリンクホルダーに差したままの、飲みかけの缶コーヒーでため息を飲み込んだ。ペットボトルのような蓋は便利だが、溢れないから放置してしまいがちになる。暑くなってからは良くないだろう。飲み慣れた味に少し気分が落ち着いた。
結局抑えきれなかったため息が漏れた。
目も覚めてしまった。
報告書の草案を番号の載っているメモ帳を使って作成してしまえば、次の出勤は幾分楽になるはずだ。毛布で足を包み、上半身はダウンだけになる。ひどく動きやすく感じた。少し動いてみて気がついたが、足が酷く冷えていた。カイロを肌に触れぬよう、足に仕込んでおく。これで幾分マシだろう。
――――――――――――
報告書も概ね出来上がってしまった。
コーヒー缶も中身はもうカラだ。
時間を確認しようと助手席の方に顔を向けたその時、体がギク、止まる。車の脇に色白の赤いコートを着た女が立っていた。
思わず驚いたが、ここはどこか尋ねようと助手席の方へ身を乗り出した。その女の前を遮るドアを開けてやろうと思った。……なぜか、運転席から窓だけを開けて話しかけようとは思わなかった。
ロックにもう少しで指が届く、と言うところで女が窓を叩いた。車体が揺れるほどの強い揺れに、思わず手が止まる。
強い意志の宿る目がこちらを睨んでいた。そして、ドアロックに向けた手を降ろすと女は煙のように消える。その直前、女の髪の隙間で黄色い眼球が蠢いた。
ドアと窓を開けてはいけない、その言葉が脳裏の片隅で叫んでいた。
――――――――――――
静寂。
ゴキュ、ツバを飲み、忘れていた息を吐く。冷たい空気で心臓と肺が大きくうねる。
どこかぼんやりとしていた頭がはっきりと覚醒した。
ここはおかしい。どこかの山の中でも、田んぼのど真ん中でも、道路でもない。
雪は未だに降り積もっているというのに、地面から30センチのところから少しも増えていない。バンパーの表面の雪ですら5センチ程度だろう。ワイパーを一度も動かしていないのに、窓に至っては一欠片も雪がない。
ここはあまりに音がしない。生き物の気配もない。植物の影もなく、人工物の光もない。
寒い。暖房が効いているはずなのにひどく寒い。
ーーッブッ
何かがちぎれるような音を立ててカーラジオの電源が入った。……、俺は指一本触れていない。
壊れたラジオから一切聞き取ることのできない音が流れ出した。それは音楽のようにも言葉のようにも呪文のようにも聞こえる。
声であろうものは男の声にも女の声にも少年の声にも老婆の声にも聞こえ、楽器や金属をすり合わせた音にも思える。
まずい。
プップッンワンプッ局が変わるごとに混ざる音は日常と変わりない。
――――――――――――
車の外、真隣で女が何某かを必死に叫んでいる。
それでもその声は雪かラジオに全て食われているようで何も聞こえない。
怒りに震えた細い腕が運転席の窓を殴る。
その唇が「おいお」と動く。母音だけがわかった。
「……降りろ……?」
女の目が赤く染まる。怒髪天が視覚化すればこれだろう。ざわめくその長い髪が、意識を持った触手めいた動きで車を覆っていく。白い雪が見えなくなる。
ラジオの電源が落ちた。
読書灯の電球がチカチカひかる。
視界が霞む、眠い。
女が窓を殴る。
目を擦る。
――――!!!!!
女の口が動く。
「……おきろ」
プツン、意識の糸が切れ、抗い難い眠りに落ちていく。
何度も車が揺れていたのは眠りに落とすゆりかごの揺れではなく、自分を揺り起こそうとしていたのだと気がついた。
――――――――――――
「――、てください!」
「ッッッッ!!!」
窓が叩かれている。眩しい。うるさい。暑い……。苦しい。外で真夏の虫が鳴いている。そこは雑木林のど真ん中だった。
警官だ。
「こんなところに車止めてどうしました?」
ダウンと毛布を投げ捨てる。そこで初めて全身から汗が吹き出した。適当に畳んで丸める過程でぶつかったドリンクホルダーから缶コーヒーが落ちる。中身はとうにカラだった。
ジメジメした雨を大きく含んだ空気が喉にまとわりつき、肺を侵食する。息苦しい。
「……あー、バッテリーあがって。」
覗いたバックミラーの中では田舎の公道が伸びている。
……邪魔にならないように避けていたような位置に車は止まっていた。
「…………、……はいはい、そうですか。署が近いんで、車持ってきましょうか?」
「……えー、そー、うですね」
まずい。本当にバッテリーが上がっているかはわからない。
「……どうかしましたか?」
「……。」
何か言い訳を……、と思ったところで大きな車のエンジン音がした。
「あー!お客様!お待たせいたしました!」
巨大なレッカー車。
何某か言おうと開いた口が音を発する前に運転手が警察につらつら会社名と自分の名前を名乗っている。
その中にあの雪の中で掛けたロードサービスの名前が出てきたから全てを任せて脱力した。……帰ってきたようだ。
思えばあの雪の中はどう考えてもおかしな場所だった。
初めから、前後左右の全てが平坦な絨毯のような雪が伸びていたのだ。そう。自分が歩いてきて車に乗り込んだようなヨレも、車の轍もなかった。
「お客さん。高萩一様、でお間違い無いっすか?」
「……ああ、どうも。」
話がついたらしい、自転車に跨った警官が去っていく。
それを尻目に運転手に挨拶をする。
「……、いやー、今回は災難でしたねぇ。とりあえず、エンジン掛かります?」
まさに気のいい男、といった様子の運転手が笑っていう。その直前に一瞬見えた、間違えた、というような表情が気になった。
言われるまま回したエンジンは当然のようにかかる。メモリが合わせられたままの暖房が熱く、ねっとりした空気を吐き出した。もうお呼びでないそれを冷房を全開に切り替え、窓を開けて車内の空気を入れ替える。
「お!いやー、バッテリーあがってないっぽいっすねー。よかった。でぇ、お客さん、自分で運転してこの車で帰ります?それともレッカー乗せていきましょうか?」
「自分で帰れるんで、いいです。」
「そうですか。ところで、あそこがなんだったのか〜とか、おれ……もとい会社のわかる範囲で説明入ります?」
「……はい。」
「んー、ソレをお伝えする前に〜。ところでお客さん。戻ってきてからケータイみました?」
唐突な質問に眉がよる。促すように見返せば、運転手が言う。
「あっちゃー、やっぱ気付いてませんでした?
今日は月曜日です。……ついでに今は13時半」
助手席に飛びついて画面をつけると、たしかに(月)と13:37の文字。……ウチの探偵事務所に曜日の感覚は、ない。土日休みでは、ない。
最後の記憶にある曜日は金曜日。思わずもたれ掛かったハンドルのクラクションが情けない声を上げた。
「…………あらー……。お客さん、やっぱ途中まで乗っかってったらどうですか?助手席に乗ってもらっていいんで、着くまでの間に電話とかしてもらっていいんで。電話終わったらわかる範囲で色々お教えしますよ。」
――――――――――――――――――
運転手にキーを預け、上司に無断欠勤について突かれ、――給料半月カットで見逃された。クソ。
――――――――――――――――――
「いやーーー、お客さん災難でしたねーーー。もう説明しちゃって大丈夫っすか?
「……っちゃー、脱力してますねぇ。ま、そらそうか。
「ま、説明つっても、こっちでもわかってることって少ないんすけどね。
「アソコはなんつうんすかねぇ。上司曰く、時間が止まってるけど進んでる、夢と現実の間、って感じらしいんすよぉ、
「俺はアソコ行ったことないんでよくわかんないんすけど、お客さんはわかりますかね、
「雪は降っているのに積もらない。進んできたのに轍はない。的なね。お!気付いてました?お客さん鋭い〜〜。」
「……、んで、アソコはまぁ、そういう場所で、ちゃんと《こっち側で》目が覚めると出られるんすよ。
「オペレーターにすぐ寝ろって言われませんでした?お客さんは寝なかったのか、向こう側で目が覚めたのか知りませんけども。
「あは、なんで寝るのかって当ったり前じゃないっすかぁ。だって、寝ないと起きれないでしょ。
「いやー、お客さんは帰るまで長かったっすね〜。おれ、お陰であそこ通うの、土日月で三日目っすわ。
「んで、アソコは他にも色々ルールがあってぇ。
「まず、窓開けたり、ドア開けたりするとアウトっぽいっすね。開けたらまぁ帰ってこないっす。あの世界に食われるんじゃないっすか?俺電話対応したことないんで知らないっすけど。
「あ、寒いんで普通に防寒してないと死にます。真夏日にあの雑木林で凍死体見つかってるんで。ギリ起きたけどダメだったっぽいっすねってのが上の推察です。
「あと、こっちから具体的な解決策を伝えるとアウトっぽいっすね。
「んで、飲み食いしちゃいけないとかもありますし、あぁ、最後に女を見ちゃいけないってのもありますね。
「なぁんでここまでわかってるかっつーと、アソコいると、電話とかもすぐ切れちゃうんすけど、ちょっと通じる間に話聞いたり、帰ってこれた人の証言聞く限り、ドア開けたって言ってた人は大体帰らないです。他もそんな感じっす。
「……は?女見ちゃいけない理由?あー、なんか女も自分と同じように困ってる奴だから助けるべきという使命感に駆られて、窓だのドアだのを開けずにはいられないらしいっすよ。こえー話っすよね。
………………は?」
――――――――――――――――――
「……え、マジで言ってます?女見たんすか?」
「……ああ。」
見開いた目をこちらに向け、運転手は一瞬マジマジ見てくる。
危険運転を注意しようとしたところで視線を前に向けた。
「はぇー、初めて見ましたわ、無事なお人。」
「開けようとしたらむしろ邪魔をされた。」
――ついでに言えば起こしたのもあの女だ。
その言葉を飲み込んだとき、運転手は前を見据えながら答えた。
「へぇ……。んじゃ、女に殺す気はないんだ……。――オレ、丁度こっちと電話繋がってる時に、女見ちまった男の音声聞いたんすよ。……そりゃもう狂気的に女を助けなくちゃっつって。ドア、ガチャガチャ開けて、こっちの呼びかけなんか聞こえてないみたいにでてくんすよ。いやー、こう言っちゃなんすけど、キモかった。」
運転手の声に初めて強い感情の色が乗る。
「へー……、そうなんだ……。お客さん、オレ、色んな人あの雑木林からちゃんと送ってるんすよ。その内、だっれも女見たって人いなかったんすよ。……変なこととか起こりました?」
「……。」
「あったんだぁ……。不思議現象に遭って帰ってこれる人も稀なんすよぉ……。」
へぇ。と運転手は嗤う。
車が止まった。
「オレ、こういうちょっと不思議体験みたいなの好きでこの仕事してるんすよ……。お客さんは他の人と何が違うんすか?知りたいっすねぇ……。」
運転手の目がギラと光り、唇が釣り上がっていく。
助手席の窓に側頭部をぶつけた。肩押し付けた窓がひどく冷たい。床を空滑りした足がマットを蹴り飛ばし、後ろに下がり損ねた。
向き合った運転手は迫ってくるわけでもなく、ただこちらを見ている。気味が悪い。
胸の上で会社の名前と運転手の名前の書いたネームプレートが光る。彼は黒穴と言うらしい。
そこで体感では昨日の電話と、運転手との初対面がフラッシュバックした。
電流。
「……っ!ここまででいい!ここで大丈夫、です。」
「は?……あー、もうここまで来てたんすねぇ。今、車下ろすんで待っててください。」
唐突に普通に戻った運転手に面食らう。
窓に頭を預けながら勘弁しろと呟く。あの時の、間違えた、と言う表情の意味に気が付いてしまった。
すぐ戻ってきた運転手からキーが手のひらの上に落とされた。チャリ。
「いやー、すんません。オレ、好きなもんに目ぇなくて。んじゃ、またなんかあったら電話ください。」
三日月を描く観察するような不快な目で普通の言葉を投げて運転手は去っていく。
握りしめたキーとキーホルダーが軋む。
頭痛のする頭を掻きむしった。いつものオールバックにセットしたままになっていた髪が、解けて顔にかかる。
タイミングは兎も角、雑木林にあのレッカー車が現れたのはいい。話ぶりからしてアソコに行ってしまった人々は同じところから出るのだろう。
しかし、
「勘弁してくれ……。俺は、電話口でも、あの男にも名乗ってねぇ……。」
俺の名前を呼ぶ運転手の声を思い出して虫唾が走った。
梅雨のベタついた汗とは別の不快な冷や汗で背中がひどく湿った。
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