第21話 独白
「僕は確かに“人形”たちについて何も知らなかった。それは本当だよ。でもね、あの怪物、それについては聞いていたんだ。」
その生き物は小さな子供に向けた寝物語に何度も出てきた怪物だった。おじさんが話してくれる物語にはよく出てきたけれど、大人になってからそんな生き物の出てくる話は見つからなかったから、きっとおじさんの創作だったんだってずっと思ってほとんど忘れかけていた。
でも、本物を見ればすぐにわかったよ。緑の目が浮かぶ虹色に輝く黒い粘性でタール状の生き物。あれは実在したんだって。倒すことなんて出来ないほどの回復力に、強い力、強い力を持ったあの怪物は実在したんだって。
たった5歳の頃にベッドの下にその怪物が潜んでいるんじゃないかって震えながら寝たのを思い出した。手が布団から出ていたら食べられちゃうんじゃないかっていつも怖かったよ。もちろん大きくなってからは忘れていたけれど……、あの話が本当なら僕なんか人飲みで死んでしまう、――そう、おじさんみたいにね。
だから長谷川さんも連れて逃げないとと必死になっていた。あの時のことはそれだけだよ。
通報しないのは、今は全てを聞いて、長谷川さんが言うように、彼女たちの運命を狂わせたのは叔父さんだったんだろうなって
彼女が法的にどのような理由で裁かれるのかわからないけど、人形みたいになってしまった人たちのことを手入れ……世話をして、黙秘しただけなら見逃してしまおうかなって。僕は死んでいないし。
妹さんは殺してしまったようだけれど、その殺害もその妹さんが望んだものだというのなら、ね。
もちろん、長谷川さんにとっては法的に裁かれる方が為になるのかもしれないと思っているし、人形になってあの屋敷で眠る彼らには申し訳が立たないけれど。
彼らが望んであの姿になったと言うのなら。
あの屋敷の化け物を外に出すわけにはいかないから。むしろ、普通の人がかの怪物について知ることさえ害があるように思う。だから、全てなかったことにしてそのままあそこで美しいまま眠っていてもらいたい。
今この時の正しさはきっと、長谷川さんたちを抜きにしたってあの屋敷に武装部隊だとか、専門家だとかを募って突入してもらうことだろう。
そもそもおじさんの言っていた生態だって正しいのかわからない。それにあの停滞がいつまで続けられるのかだって僕にはわからない。だって、冷却装置がいつ止まるのか僕には知りようがないし、あの屋敷は人の手が入らない以上、いつか壊れる。そもそもあの防火扉がどのくらい効果があるのかだってわからない。
でも、僕はおじさんのいう怪物の生態は本当だと信じている。本物を途切れかけた意識の狭間で見て、絶対に本当だと感じたんだ。だから、アレをただの人の手と銃火器でどうにか出来るようには思えなくて。ましてや消火器なんて嘘だ。
でも、きっと公共機関は即座に焦土作戦だとか、山を吹き飛ばすような爆弾だとかを使うことはきっとしてくれないだろう?なら、人間への恨みをこれ以上溜めないように、刺激しないように、存在すらしないように。そうやって放っておくのが一番安全なんじゃないか、そう思ってしまったんだ。
でも、君が正しくあることを僕は止められない。
「……正しい人であれなくてごめん、ハジメ。」
――――――――――――――――――
荒んだ心でタバコに火をつける。
「はぁ……。バカ。保身とエゴのクソ。」
「うん、ごめん。」
「だが、通報する気がないのはわかった。」
話を聞きながら取ってきた缶コーヒーに、萎れてくしゃくしゃになった箱から取り出した、折れ曲がったタバコの燃えカスを落としながら言う。
「それにしたってお前、料理も掃除も洗濯も出来ないこたぁねぇだろ。自分でやればいい。自分を殺しかけたやつ使う必要はねぇだろ。」
上手くはないが。車の運転はむしろうまい方だろうし、小さなことまで書き込んだ手帳は予定で黒い。そうでなくとも別の者を雇えば良いだけだ。長谷川百合子も追い出して、全て無かったことにすればいい。
「はは、まぁ、……うん。できるよ。出来る。多分ね。でも、妹さんを隠して生きていくのは、その、難しいだろうと……思って。」
「はぁ?」
「いや、わかる!わかるよ!?死んでしまった人はきっと墓の下で眠っているべきだ。でも!でも、タイミングってあるから。彼女が大切な人を望まれるままに殺してそれから大変だったんじゃないかなとか思うと、その。あの場所でいろんな人の世話をしながら切り替えるって無理だろうし。あの、きっかけがないと妹さんと離れるのは難しいんじゃないかと思って。今すぐは多分無理そうかなってさっき話を聞いていて思ったというか。
だって彼女明らかに気力も無くなって今にも死んでしまいそうだったろ?自殺でもするんじゃないかって思ってさ。なにか生きなければいけない理由があれば少しはマシかなって。それが僕への贖罪でもなにか大切なものとか人でも。
それはここじゃないと無理だと思う……から……その……。それこそ、よくある……エゴ……みたいな……やつ……。」
多比良の言葉が尻窄みになっていく。訝しげな顔をした高萩がその顔を覗き込みながら聞き返した。
「あぁ……?これまでと変わらねぇ無表情だったろうが」
「えっ、全然違うよ!すごく追い詰められてた。自分を傷付けないか心配なぐらいにね。」
「………………」
いや、5年も同じ屋根の下で過ごすお前と一緒にするなよ。
半目の高萩が多比良を呆れた目を向ける。
「俺は、もう付き合えねぇぞ。」
高萩にも生活がある。多比良の護衛みたいなものを続けることは難しい。この二週間だってあの上司の元でなければ貰えなかったものだ。
じっと目を見つめる高萩に、へら、と情けない笑顔を浮かべた多比良が言う。
「彼女はこれ以上僕を傷付けるどころか他の何かをする元気もないと思う。一番罪を償うべき人は死んだんだ。
あぁ、お医者さんのほうかな。あの人も大丈夫。西園寺って、僕が思っているよりも大きなお家らしいから。よくは、知らないけれど。
大丈夫だよ。
僕は、西園寺 千歳、だからね。」
眉を寄せ軽く俯いた千歳の顔は後悔に満ちて深く沈む。そのあとに取り繕うように続けた言葉が非現実的過ぎて逆に同情しないでもないが、高萩としてはほぼ寝ずの番をした二週間弱を返せと思わずにいられない。
缶コーヒーに吸い殻を詰め込んで立ち上がり、自分の荷物をまとめて段ボールに適当に詰める。サイドポーチを巻いて纏めたゴミの袋三つを片手に握った。
「……じゃあな。俺はただの休日をお前んところで二週間過ごした。以上。今の話は全部聞かなかったことにしてやる。ここには二度と来ねぇよ。」
「その……、ごめん……。」
「聞かなかったつってんだろ、その段ボールウチに送っとけ。今持って帰れねぇから。
謝るぐらいなら来週末までにあの屋敷に置いてきた車回収させろ。
俺は帰って寝る。じゃあな」
空いた左手にレトルトと細々したゴミの詰まった袋を二つ掴む。刺さった割り箸で破れそうだ。さっさと捨てるが吉。
「、え、え、まって、ありがとう、お礼ができてない!この二週間いてくれたの、あー、いや、謝る方が先かな!?」
「ハッ!ばぁか」
存外元気そうな友を笑う。プツンと二週間分のやる気が切れる音がした。初めて力が抜けた。ねむい。
片手を空けてサイドポーチから取り出したジッポの蓋を開け、そして閉じる。彼の話の途中でも一度響いた、心地いい聴き慣れた独特の音がした。
あの時車の鍵を取って逃げる直前、机の上で輝く金色のこれを手に取って逃げた。ひどく手に馴染むこれは曇りひとつない程磨かれている。滑りや音も新品のように非常に良い。彼女の丁寧な仕事が見えた。
「あ、それ、……。」
自分の送ったものだと気がついたらしい千歳に肩をすくめてドアを開ける。ドアの横で体を強ばらせて小さくなっている長谷川百合子が一拍置いたのちに高萩を見た。
ゴミ袋を握った手を軽く上げて多比良に挨拶をし、ドアを閉め、外へと向かう。小走りに後ろをついてきた彼女が追い抜いて出やすいように扉を押さえる。それに何をいうでもなく潜り抜けた。久々に鮮やかな空を見た気がする。
躊躇しながらも控えめに手を伸ばした長谷川にゴミの山を渡す。受け取ったそれを横に置いて深々と下げた旋毛に向かってあくびを噛み殺す。
「一度だけだ」
廊下の奥の方で頭を下げる医者にも軽く手を振って帰る。しばらくは足がない。面倒だと思いながら歩く。
この二週間のせいで鈍った体が重く、硬い。
眠いし、疲れた。
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