第20話 犯人

「………………僕は」


 多比良がふと口を開いた。その言葉を発する際に揺れた足にハッと長谷川の全身が小さく震える。


「掃除も洗濯も出来ないし、料理どころかインスタントコーヒーだって淹れ方を知らないし、車の運転だってもう何年もしていないし、予定の管理だって、君に任せてきたね。」


 長谷川がゆっくり多比良へと顔を向け、瞬く。固く組んだ指が白い。

 高萩はその顔を横目に見ながら多比良の言葉の続きを予想して鼻で笑う。多比良は馬鹿だ。呆れて頭が痛い。何を考えているのかと右手で額を覆ってこめかみを揉みしだく。


「君が、止めるつもりがないなら、この仕事を続けて欲しい」

「……」


 長谷川の表情は変わらないが、狼狽えているのがわかる。無言。多比良もそれ以上は何も言わない。首が上下に動いたが、それは頷きではなく困惑による震えだとわかるほど小さなものだった。

 無言。

 虚無。

 笑み。

 ため息。


「……その話は後で二人でしろよ。出てくれるか、ハセガワユリコ」


 高萩のその言葉を聞いた途端に立ち上がって礼をした長谷川が逃げていく。

 綺麗な礼に律儀だな、と思った。


「考えておいてね、長谷川さん」


 そう、黒い瞳以外かわらぬ笑顔で追いかけるごとく告げた多比良に、振り返った長谷川は小さく唇を震わせてからもう一度一礼を残し、扉を抜けて去っていく。その短い間の激しい瞬きや小さく開いてそのまま閉じられた口元、そしてその無表情から滲み出る感情はやはり怒りや肯定より困惑が近い様に思えた。


「ハジメ、犯人僕かと思った?」


 高萩は扉の方へと向けていた視線を多比良へと向けた。  


「あ?」

「僕が、やったのかと思った?」


 高萩は多比良と目を合わせ、多比良も目を逸らすことなく見つめ続ける。何を言うべきか、何が求められているのか、何をしないのか、その変わってしまった目を見て考えて、そして


「思った。」


 隠すことなくそう告げた。理由も告げなかった。それがどのようなものであれ、疑ったのは事実だ。


「そう。」

「悪い」

「いいよ、」


 何かを続けて言おうとしてやめた多比良が開いたままの口を閉じて唇を舐めた。下唇を軽く噛んでから告げた。


「……ごめん、ハジメ。」


 彼は笑顔かつ眉根を寄せた、ひどい顔でもう一度ポツリと謝った。


「なにがだ」

「僕も謝りたいことがあって。」


 長い長いため息一つ吐きながら背もたれに寄りかかって首すら後ろに投げ出した高萩が多比良に問いかける。


「僕は、もっと何かできることがあったんじゃないか、とか、もっと早く気がつくことができたんじゃないかって思うばかりだよ。

 彼女の妹は青笹叔父さんがあんな薬を開発していなければこんな事には巻き込まれなかったはずだ。

 君は苦しい思いをしなかったはずだって。」


 ずっと緩く丸めていた手を開きながら言う。


「馬鹿馬鹿しいことだよ。僕はそんなことできないって解ってるけどね。」

「そうかよ。」


 苦笑いして頭を掻く。怒られるってわかってるみたいに小さく顎をひいて、首も傾げてこれで見逃してくれと笑う。その言葉に眉間に皺を寄せた高萩が首を傾けてそちらを見る。そうかよ、なんて言葉はただの相槌だ。辛うじて首だけは起こした彼が顎をしゃくって続きを促す。


「で?」

「うん?」


 しらばっくれる白々しい多比良を高萩は追い詰める。

 止められなかった、それを気にしているのは事実なんだろう。でも、


「なんであそこであんなに暴れた?」

「?ごめん、多分、脱出の時の話、だよね?記憶、ないんだ。」

「ならなんで今から長谷川百合子を通報しようとしない?」

「……え、えぇと、そ、うだな。ほら!親しい人が捕まるのって嫌じゃないか!」

「おい。」

「……………………聞かないで欲しい……、いや、聞かない方がいいよ。」


 わかりやすい嘘に乗らない高萩が早く話せと顎でしゃくる。大方の予想はついていたが、だからこそ先を喋らせる。


「言う気がないのはいいが、言わねぇなら俺は帰りに交番に行く。」


 情けなくへなへな眉の下がった顔で多比良が口を開いた。


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