第18話 落橋

 その部屋はベットと机とクローゼットだけの質素な部屋だ。普通のメイドの部屋らしい部屋に見える。今入ってきた妹の部屋に続く扉、屋敷の中へ続くであろう扉のほかにもう一枚、『緊急警報』と書かれたボタンと、外に続いているであろう扉だけが異質だった。

 暗証番号式ロックらしきその扉を高萩には開けることは出来ない。長谷川に開けてもらうしか方法はないらしい。

 ついに完全に気絶した多比良がずっしりと背中にのしかかる。ひどく重く、ひどく熱い。熱が上がっているらしい。あの得体の知れない薬のせいだろうか。そんな焦燥感すら押しつぶす、怪物の叫びが全身をバラバラにするような大きさで響く。


「……そちらに出口が。……テーブルの上に車のキーがあります……。」


 部屋に入ると同時、首を絞められた後程掠れた声で長谷川が口を開いた。

 高萩が机に飛びつくと確かに小さなトレーに玄関のものであろう鍵とセットになった車の鍵と、屋敷中の部屋用であろう鍵束、そしてマスターキーがそれぞれ置かれていた。

 車の鍵ごと玄関の鍵を握った時、丁度長谷川が扉に暗証番号を入力し始めていた。テンポよく音が響く。多比良を背負い直しながら駆け寄ろうとした時、ふと、目に入った机の中央に置かれた銀色のそれを思わずポケットに押し込む。

 『緊急』と書かれたボタンを叩き押しながら外に飛び出した長谷川を追って屋敷を出る。

 扉の砕ける音が奥で聞こえた。二つ隣の部屋は既に飲まれた。


 ビーービーービーービーービーービーービーービーー


 甲高い警告音が辺り一面に響き渡る中木々と雑草の隙間を抜ける長谷川を追うと、花壇の前に出た。そのことから屋敷の庭の外側、木々や雑草に隠れた西館、南面の端に付けられたドアから外に吐き出されたのだとわかった。これまでは木々でこの出入り口を隠していたらしい。

 背後で

 ピピッ、ガチャン、

 そう音を立てて閉まった扉が更にシャッターで覆われていく。

 ぷしゅーと気体が溢れ出す音がして思わず右手を見ると、屋敷中の窓が白く染まっていく。あぁ、あの火災グッズはこのための……。と思ったところで全ての窓も銀色のシャッターで覆われていった。甲高い叫び声。


「こちらに……!」


 長谷川の声に導かれ、前へ進む。最後に見上げた屋敷の窓の全ては既に全て銀色のシャッターの幕で覆われ、可愛らしい人形屋敷は無骨な要塞へとその形を変貌させていた。

 久々の外気が頬に触れ、肺が植物の香りで満ちる。見上げた空はひどく重厚な雲に覆われ、ゴロゴロカミナリの怒りがこだまする。

 全身を嫌悪で包まれる、怪物の獲物を獲り逃した怨嗟の叫びが警告音すら霞ませる熱量で迫り来る。

 足を止める暇なんてなかった。前を走る長谷川が木々のトンネルを抜け、吊り橋を駆けていく。高萩は躊躇なくその後を追って走る。四人分の体重を乗せて2人が駆けるせいで、いくら頑丈な橋でも大きく揺れる。撓む床に足を取られながらそれでも2人は進む。

 高萩の更に背後から出口を探す怨嗟の呼び声が追ってくる。

 渡り切った瞬間、長谷川は橋へと振り返り、高萩はBMWへと向かう。目一杯倒した後部座席に多比良を座らせても来ない長谷川に痺れを切らし振り返ると、シーツに包まれた塊を片手で支えながら、橋の脇のレバーを引こうと必死になっていた。


「おい!!早く乗せろ!!」


 そう叫び、エンジンをかける。力強く動き出したその音に安堵していると、駆け寄ってきた彼女が言う。


「あのレバーを引けば、橋が落ちると聞いています。」


 ――だから、早く、戻って。

 後部座席を倒し、大切そうに横たえながら言外に言う言葉に思わず振り返り、そちらを見返すと確かにその橋を支える支柱の両側に目立たない細いレバーが取り付けられていた。


 ピッ

 カーーーーーーーーーーーーーン


 天の堪忍袋が切れると同時に土砂降りの雨が降り注ぐ。一瞬で着ていた服がぐちょぐちょに濡れ、肌に張り付く。後ろに流していた髪は既に解け、顔に張り付いた。

 駆け戻ってレバーを握り、支柱に足をかけ、全体重をかけて思い切り下に引く。遅れて戻った長谷川がその勢いのままレバーに飛びついて下に引く。

 しっかりと止まっていた支柱が地面から押し出されるままあっさり抜けて谷底へと落ちていく。引きずり込まれかけた長谷川の腕を掴んで支えた。

 怪物の声がまたどこか近くで落ちた雷と打ち消しあって聞こえない。雨がひどく、お互いの声すら聞こえない。

 目があった長谷川の瞳はひどく黒々としてみえた。

 ぱくぱくと何か言ったようだったが、雨の音にかき消されて聞こえない、そう返すと聞こえていないことに気がついた様子で押し黙った。

 車の中にはお互いの人質が眠っている。

 高萩は殺すつもりなどなかったが、長谷川の不安に焼かれながらも妹を守る、そう叫ぶ瞳に手を振って何もしない、と主張しながら運転席に収まった。助手席に収まった長谷川が濡れた長い髪を解いて顔を隠した。

 細く白い指先が手のひらに埋まるほど強く握り込まれ、左右四つずつの傷を作る。音のない小さな吐息を吐いたように見えた。

 雨音はドアを閉じて幾分か小さくはなったとはいえ、天井を叩く音がうるさい。快適な空調は雨に濡れた体には少し寒く、小さく震える手で温度を上げた。


「俺が運転する代わりに、行き先はあんたが決める。」


 座席を後ろに下げ、自分に合わせてサイドミラーやルームミラーを調整する。


「いいな。」


 そう言いながらミラー越しに2人……正確には多比良と顔まで隠されたシーツの塊を見る。意図を察した長谷川が小さく頷いた。


「…………はい。」


 事務的な会話しか挟まれない、水に侵食された最悪どころか地獄のような車内で長谷川が指定した先は、別名幽霊屋敷こと、銀竜荘。西園寺青笹の別宅の一つだった。


―――――――――――――――――――――



 別名に恥じない埃とクモの巣に満ちたその屋敷は街の中にある、正真正銘左右対称のお屋敷だった。

 長谷川が主人の私室に当たる部屋と、そこから全く反対に位置するもう一部屋だけをものの30分である程度きれいにしている間に、高萩は車にしっかり鍵をかけた上で応急処置セットを購入し、戻って多比良の割れた額に手当を施した。

 シーツの塊には指一本触れていない。それを長谷川は確認した上で互いの元人質こと多比良と妹をそれぞれ抱え上げ、長谷川が綺麗にした部屋へとそれぞれ立て篭もった。

 多少ほこりの匂いはするものの、積もってはいない、ある程度綺麗なベットに多比良を転がし、部屋に鍵をかければもう頭が回らなかった。今はおおよそ16時ごろだろうか。ひどく、ひどく、ねむい、

 ああ、朝に打たれたくすりのえいきょうだろうか、ねむい。せいかくな時間が、たいらを、びょういんに、つれて、

 ああ でも あの め を なんと せつめい すれ ば


 長椅子にうつ伏せで倒れ込んだところで意識がぷつんと途絶えた。

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