第17話 脱出
「あんた、何を知っている」
「今何が起きている」
「いや、これまでに何をした。」
「あの男は何だ」
「コイツはどうなってるんだ。」
「ソレは……。あんたの妹は」
「さっきの怪物は」
「この隠し部屋は」
溢れて止まらない疑問が敵意に変貌する。
歯をむき出しにした威嚇。獣の唸り声ほど低い声で、魅了されたときのぽかんとした顔からかけ離れた、ギラギラした目が彼女を睨め付ける。
「………………………………」
「何とか言ったらどうなんだ。」
背に背負った友が重く、重くのしかかる。実際の重さよりずっと重い。熱い。じっとりした汗が2人の間でじわじわ量を増す。
「どうなってる!!!答えろ!!!!」
喉が焼けるほどの恫喝にも似た強い怒号。黒く重い感情が心臓に纏わりつき、締め上げ、理想的な行動を阻害する。激情を抑えるのは背中にのしかかる友の重みだけ。
全てが知りたい。
同時に何も知りたくはない。
高萩はあの無意味なほどあっさり死んでいった老けた声の男の代わりを求めていた。恨みも怒りも疑問も全てがそれをぶつけるよりも先に消えた男のせいで、体内で消えることなく消化不良のまま居座り続けた。
ただ背中でぐっだりもたれる熱いだけの友が。頭を締め付ける痛みが。無駄に美しく飾り立てられた冒涜的な死体の山が。怨嗟を吐き続ける生き物が。人を辞める願望が。あの男の思想が。舞台装置に押し潰された怪物が。このベッドの上で横たわる何かが。
人形でもないのに無表情でただ立ち続けるこの女が。
「……この屋敷に来た時から、旦那様の命令に従ってきました。」
天窓のついたこの鳥籠の中にいる、美しいその妹。人と思えぬ整った容姿の少女が恐ろしい。存在しているだけで人を狂わせる人間が存在していることは罪なのか。
「この子の願いを叶えたかった。」
何もわからない。何も知らない。高萩はどこまでも部外者で他人だった。
「この子を殺したのだって私。」
高萩の腕に力がこもる。
「私はこの子を守るために生きている。だから、」
眉間に深い皺を刻みつける。
その時、口を開く前に重いものをひっくり返す轟音が屋敷を揺らす。パラパラ天井から埃が舞い落ちた。
あの怪物が動き出したのだと直感する。思わず高萩が振り返る。
「っ。話すことはありません。お出口はあちらです。」
夢や暗示が解けた瞬間のような、ハッ、と無表情を取り戻した長谷川の、つぅと伸びた細く白い指が左手の奥を指した。その視線を追った先、部屋の角に豪奢な部屋に見合わない、飾り気のない簡素なドアがポツンと取り付けられている。
降り注ぐ埃も揺れる大地もものともせず揃えた足でしっかり大地を踏みしめて、強い光を放つ緑色の目がじっと高萩を見返した。
じりじり足を下げても彼女は何もしない、言わない。
「そんな言葉でこちらが納得すると思うか?」
「しなければ、あの怪物がここに来るのを待つだけです。」
伏せた瞼から伸びた長いまつ毛が白い頬に影を落とす。
高萩が何かを言おうと口を開いて、何も思いつかないまま口を閉じた。背中で多比良が蠢く。歯を食いしばって身を翻し……、その時背中にのしかかった重圧が剥がれ、焼けるような暑さが消えて汗ばんだ背中が凍えた。
「……――め、はせが、さ、。」
「っ、おい⁉︎」
背負われた足をそのままに、顔から地面に落ちた多比良が腕を伸ばす。体を起こすのも辛いと浅い絨毯の上を短い爪が往復する。その跡が毛羽立って残った。
「バカが!」
足を手放すと全身がそのまま重力に従って落ちる。それでもなお、腕を伸ばそうと手足がバタバタ這いずった。
高萩が襟首と腕を掴んで起こしてやると、固く瞼を閉じたまま弱々しく体を支える高萩の腕を掴んだ。
自立するように全身をぐらぐら揺らした後、高萩に頭突きをして止まる。多比良の意図を読もうと高萩がその顔を覗き込んだ。
多比良の目がゆっくり開かれる。床と擦れて割れた額から一筋の血が流れ落ちた。
高萩が目を見開き、その息はつまり、心臓が大きく跳ねる。思わず助け起こす時に掴んだ襟首を持つ手に力がこもった。そんな高萩にえずく余裕すらない多比良が小さくむせる。そんな彼の白くあるべき眼球が黒く、黒く、瞳孔は濁り切って埋もれていた。
「――が、さん……、にげな、と。」
震える唇から声が漏れた。
高萩は思わず眉を顰め、肩を組んで立たせようと引き摺る。多比良は座り込んでその腕から逃げる。
背負ってしまおうと両太ももを掴むと腕を伸ばして抵抗する。
「――ッチ、クソが……!」
高萩が長谷川を睨みつけた。長谷川の肩が小さく揺れ、唇は戦慄き、喉が小さく上下した。
「……交渉だ。このバカはあんたを連れて行きたいらしい。」
小さく長谷川が顎を引く。
「あんた……とその人を警察に突き出すようなことはしない。代わりにこいつを外に連れ出したい。」
顔を背けることと否定する間の仕草で長谷川の首が右に逸れた。瞳が多比良を見てぐらぐら揺れる。
「俺はここで心中をするつもりはない。
同意を得るためならそこで眠っている人を連れていくことも止めはしねぇよ。……舞台上のあんたはこいつを殺したくはないように見えた。
……死にたきゃ他所で死んでくれ。」
舞台のある部屋の壁が砕けたであろう轟音が響き、地面が大きく揺れた。
長谷川の顔は怯えに歪み、小さく手足が震えた。食いしばった歯のせいで綺麗な頬が歪む。それでも、彼女は小さく頷いた。
繰り返し破壊音が響く中、高萩も頷き返し、多比良を担ごうとしたところで、耳に入っていないのか、うわ言のように逃げよう、早くと繰り返すその姿に、こちらの説得は無理そうだと無慈悲に判断を下す。
時間はない。
高萩が多比良の胸ぐらを掴んで、迷いなくその頭に思い切り頭を叩きつけた。
骨同士がぶつかり合う打撃音なのか、脳が直接揺れた音なのか、外から聞こえる音なのか、高萩には判別がつかないほど脳が揺れ、平衡感覚が一瞬ずれる。
弱り切ったところに強い衝撃を受けた多比良が昏倒し、高萩に掴まれた胸ぐらだけを残して後ろに倒れ込む。首と腕が折れそうなほど適当に投げ出され、髪は後ろに垂れ、足に力はない。
痛みと衝撃による揺れがある程度治るとしれっとその体を担ぎ上げた高萩を信じられないものを見る目で長谷川が見返した。
「行くぞ」
その言葉にハッとしたように妹に駆け寄って、落とせば砕けて壊れるものを扱う柔らかい仕草で妹に触れ、シーツで包んだ。顔まで覆い隠したそれを両腕に抱えたのを確認したところで高萩は振り返って次の扉を開いた。
長谷川は小走りに進みながらその額に頬を擦り寄せた。今この瞬間であっても死んだ妹からは後悔の匂いがする。
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