第13話 思想
あの鋭い針を刺された真っ暗な部屋で、高萩は霞む視界で出て行く男を目撃した。茶色い髪の男だった。
その男は、多比良によく似ていて、でもどこかに違和感があった。ひどく頭に残ったのは、いつもなら光に透けるその尻尾の先が、扉の隙間から差し込む光に透けもせず、人工的な染料で固く色が乗っていたことだった。
かすみ、歪むその視界のせいだと言い聞かせてしまえるその違和感を直感が肯定した。
その直感を疑って酷い目を見たのは、自業自得だったのだろう。
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埃っぽい準備室に置かれたレポート用紙。研究者の名前、その5文字は見覚えがあった。
『西園寺 青笹』多比良を養子にした、道楽家の資産家。
そう、その男は美しいものが好きなことで有名な人間だった。
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あの履歴書の山の最後のページは、高萩の写真ではなく、彼と多比良のツーショットだった。
「……あの、死体の山は、なんだ。」
あまりにも疑問が多く溢れ、何を聞けばいいのか迷いながらも出た言葉がそれだった。
「ははは、美しかったろう?
美しい生き物は素晴らしいが、経年劣化が激しいことがどうも口惜しい。まぁ、移り変わる表情は魅力的だがね。それが人形との違いだね。」
思わず頬が引き攣る。首が拒否を示して顎が引く。
「ふふふ、僕の考えを聞いてくれるかな?」
返答はない。高萩が男を睨み続ける。
「ありがとう!」
男、西園寺青笹はその身を翻し、狭く、小さく、たった数センチ高いだけの舞台で両の腕をあげて回転する。高萩の答えなど求めないまま。
「美。」
一言。
埃の匂い、真新しい衣装たちの香り。
肺に空気が入っていく音すら聞こえてしまうほどのゼロ距離の舞台。
「美だよ。美しさ。この世界で最も価値のあるものだ。人の心を掴み影響を与え、人生を根底から覆す。世界はこれを中心に回るべきだと私は常々考えている。美しいものに傷を与える戦争など滅びるべきだし、美しいものの弊害となるすべては等しく駆逐されなければならない。美には当然ランクがあり、ランクの低いものは高いもののために奉仕をする。世界はこうあるべきなんだ。私はそう考えているし、これは世界の真理だ。」
吸って。
マネキンの肩を見せつける様に叩く。ここがこれまでの部屋を乗り越えた先にあるのでなければ観劇のリハーサルにも思える芝居がかった仕草。
「この世の頂点は神でも、国でも、ましてや王でもなく、美しいものなのだよ。ソレがなんであるかは到底関係がない。例えば、地球温暖化だのビニールの環境破壊だのなんだのと口だけの人間ばかりだが、あれは違う。私の考えでは一個人が夕日の落ちゆく地平線よりも美しいのであれば、その地平線がどれほど荒らされようとも当然の摂理かつ、当たり前の帰結でしかない。同時に海に降り注ぐマジカルブルーを守るため、一人の生活に不便を強いられるのも世界の道理である。美の前に全ては平等でしかないのさ。」
吸って。
西園寺は高萩に背を向け、指揮をするようにその腕が踊る。鏡越しに淀んだそれと視線が交差する。
「この世界において、美しさほどに優先すべきものはない。そして君たちは美しい。美しいんだ。この世で最も優先されるべきものだ。
私は千尋君に君の写真を見せてもらったときは感銘を受けたね。」
間。
名指しされた高萩がどこか驚いた様な顔で顔を引き攣らせた。
男の苦しげな瞼が震える。長いまつ毛がその頬に影を落とす。
ゆっくりと振り返って視線を合わせに来る。
「君とあの子の様子や写真をたまに見せてもらえるだけで満足していたんだ」
吐息。
ぱっちりと開いたその目が高萩を捉えた。
舞台照明が切り替わったのかと錯覚するほど鮮明に、その表情がガラリと変わる。
「君はいい。実にいい。
髪がいい!エボニーをほんの数滴加えたアイボリーブラックの、深みのある髪色は君のやけた肌に良く似合う。君の精悍で若々しい顔を引き立てる、素晴らしき名画の額縁のようだ!
瞳がいい!ミッドナイトレースオブシディアンのようなブラックブラウンの瞳は強い意志が燃えている!目指すもの、目的を見失うことのないものの目だ!
そして、鍛えられた筋肉は精悍さがが見て取れる!かたく、がっちりとついたその筋肉はまさに犬科の獣!荒野をかけるオオカミそのものだ!
誠実さや実直さのにじみ出るその容姿!その全てが素晴らしい!
ああなぜ私はこの程度の言葉でしか君を表せないんだ!?自分の語彙力のなさに震えるばかりだ!!!!!」
革靴のヒールが地団駄に合わせ甲高く鳴り響く。肩幅に開いた手のひらが上下に振り回され、首を振り乱しながら俯いた顔を振り上げる。照明と目を合わせた男が一息つくと共に高萩に視線を戻した。
敵意なき害意を初めて真正面から浴びた高萩は自らの直感のやくに立たなさを呪った。
コテンと倒されたその頭の表面で瞳が毒々しい澱みをみせる。沈澱した執着と信仰心が明るいミルクティーカラーを持って見つめ返してくる。
見慣れた色、見慣れた顔、似通った声に高萩の何も残っていない胃袋から吐き気が込み上げてくる。視界がぐらぐらと揺れ動いて見えるようだった。
照明がグッと暗く絞られたせいで男の顔も仄暗い。パンドラがその蓋を開けた。
「……しかして君は残念ながら自分の容姿に無頓着が過ぎる。顔の傷は確かに君の精悍さにワイルドなテイストを加え、君の香り立つような人の好さに、近寄りがたいアンダーグラウンドな色気を加えたが、完成されたものに加えるにはあまりに蛇足としか言いようがない。現に君の美しさは削られているのだから、不要さは言うまでもなく証明されている。君の顔に傷が出来たと聞いたときは比喩ではなく気が遠くなったよ。確かにこの目で君の傷を見せてもらった限り、君の美しさを文字通り傷つけるものではあるが、損なうものではない。しかしてそれは君に傷をつけるものであることに変わりはない。その上、君は気にする様子もないし、きっと今後もこのような傷に頓着することはないのだろう。実際に昨日の夜、君はその手に傷を作ったと言うのに、気にするそぶりもない!」
男の痛む胸を押さえるその手が、心臓の形の皺を服に作った。ぐしゃぐしゃの心臓がそいつの呼吸に合わせドクドク何かを送りだす。
「そうあっては困るんだよ。これ以上君の美しさが欠けることなど私には耐えられない。そうなる前に最善の状態で保存しなければならない。それは美しいものを愛する一信徒として義務だ。」
西園寺は息すら止め、微動だにせず固まる。
その両目は大きく見開かれ、ひどく驚いている様子だった。
高萩は西園寺にその身を向けたまま、後ろにゆっくり腕を伸ばした。
自分の言葉にハッとした男が虚空に笑みを浮かべ、二度地団駄を踏む。
肺が大きく膨らみ、唇がつり上がっていく。
「そう!義務!
芸術品は美術館で守られているものだろう?美しいものは全て守られているべきだ。大切に保管されているべきなんだ。それも、最も美しさを保てる状態でね。わたしはそのためにこれを作り出したんだ!」
満面の笑み。
最高のコレクションを紹介するパトロンの笑み。
どこからか取り出した、その手に握られているものが注射器でなければ、まともに見えなくもなかった。
目を離した瞬間に飛びかかってきそうな熱量。高萩が先ほど確認したお目当てに向かって後ろ手に、静かに手を伸ばした。
「この薬は生きた人間をそのままの状態で保管できる、素晴らしい薬!まるで時が止まったかのようにそのままの状態で活動を停止するのさ。代謝は停止し、腐敗はしない!柔らかな肌はそのまま、伸びやかな筋肉もそのまま、豊かな髪もそのまま!標本なんか目じゃない!」
吠えるような歯をむき出しにした叫び。
地団駄。簡素な舞台に張られた床板がガッタンガッタン音を立てる。唐突に脱力し、顔からも表情が抜け落ちる。
高萩はその指に触れた、手に馴染む様作られたそれの感触を確かめる。
「しかし、欠点もある……。どうしてもね、眼球の状態だけは保つことが出来ないものだから、僕だって出来ることならこの薬は使いたくないんだ。その目が黒く染まってしまうからね。ぼくが人間の器官で最も美しいと考えている眼球が美しいまま保てやしないのだから世界はままならないものだね……。
もちろん、今後動くことはないし、表情も無くなってしまう。そんな人形と変わらない、作り物になってしまうのは勿体無いと思うのだが……。
でも、仕方がないだろう?全体の美を守るためには。」
肺が膨れる音すら聞こえる様な気がした。
とつとつと落ち続ける言葉は始めから最後まで高萩に理解できるものではない。
隙を見て後ろの箱に突き刺さったそれを握る。中のおもちゃたちがぶつかり、小さな音を立てる。握りしめたグリップは少し小さいが、手によく馴染んだ。
これを握るのは小学生の頃の草野球以来だった。かつての原っぱとは対照的なその部屋で。
「僕は君たちにこの薬だけは本当に使いたくなかった。
君の大きく強い意志を突き刺すような目から生気が抜けるだけでも許せやしないと言うのに。黒く染まってしまうのだから。
だから、これまで君がどれほどの怪我をしたとしても今まで行動には移さなかった!」
男……青笹の目が燃え上がる。
「でも、もう我慢の限界だ。」
高萩は手に握ったバットを引き抜く。
するとプラスチックと木材がぶつかり合う、甲高い音が軽やかに鳴り響いた。巻き込まれた野球ボールといくつかの積み木、クマのぬいぐるみが箱から飛び出した。
どう控えめに見ても狂人としか言いようのない青笹に向け高萩が走り寄ろうととした時、何かが彼の顔に向かって真っ直ぐ飛んだ。
咄嗟に顔を庇ったバットが黒い液体の詰まったそれをかち割った。まるで意識を持っているかのような動きでソレがぬちょ、とバットに纏わりつく。二つ前の部屋で見た粘性の生き物を思い起こさせる“ソレ”に高萩は全身の産毛が総毛立ち、息が詰まった。
取り落としたバットがぐるぐるまわって壁にぶつかって転がった。
ハッと青笹に振り返る。
ソレに気を取られたたった数秒の隙、ドアが独特の音を立てて開く。こちらに背を向けて走る青笹の前でぽっかり口を開けたその奥は暗く、何があるのか、誰がいるのかわからない。にゅっと影の向こう側から消火器を持った黒い袖が伸びる。その脇を青笹が駆け抜けた。
プシューーーーーーーーーーーーー!!!!!
止めるよりも早く、こちらを向いたホースから飛び出した煙がその部屋を埋め尽くす。視界が真っ白に染まった。ひどく冷たく、寒い。
「おい!待て!」
男の足音を追って高萩も進む。叫んだことによって肺に入り込んだ気体に咽せる。消火器をぶち撒けた腕を知っている様な気がした。
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