第14話 開演
高萩はむせながら両腕を振る。悪い視界の中、白く埋め尽くされる直前の記憶を辿って閉まりかけた奥の扉を開いた。ドアと壁の隙間がゴムで埋められている。何かの扉に似ていた。なんの、扉だっただろうか。
抜けた先は真っ暗だった。否、初めの隠し部屋である、アトリエみたいなあの部屋ほどではない。灯りの落ちた劇場を思わせる部屋だった。
高萩が立つのは客席の背後。いくつもの椅子たちが熱心に奥の舞台の上を見つめ、席を見つけやすいよう足元には小さな照明が光っている。幕の降りた舞台の両端には、壇上から登り降りするための小さな階段取り付けられていることが薄暗い中でもわかった。
ブーーーーーーーーーーーーーーーーー。
長いブザーがなると同時、緞帳が上がる。幕が上がるのは始まりの合図。
……ッカ!!!!!!!!
スポットライトが闇を切り裂いた。
スポットライト、主要人物にだけ許された光を一身に浴びるのは、二脚の椅子と小さなサイドテーブル。
そのうちの一脚に、本物の多比良が腰をかけていた。こう見ると青笹とは全くの別人だ。とはいえ一瞬、多比良がこの件の犯人でないことが確定し、思わず吐息が漏れた。同時にひどくぐったりと椅子の上で脱力した体は生きているのか死んでいるのか遠目からは判断が付かない友人の姿に心臓が激しく脈動した。
その背後ではデカデカとした取っ手の付いた大きな四角い箱が、奥の方とはいえどど真ん中、舞台装置の様な顔で鎮座していた。
めちゃくちゃな心境であっても、高萩は迷いなく叫んだ。ここまで一度も出さなかった大きな声で。腹の底から。
「多比良!」
押し出す声は自らの想定よりも余程必死だった。客席の声は想像よりも早く床に落ちる。絨毯のひかれた床が高萩の強く蹴った足音すら吸い込む。サイドテーブルの上で銀色のトレーがスポットライトを弾く。酷く目に刺さった。
その時。
カツン、編み上げブーツのつま先がスポットライトの円の中にはいった。舞台上の音はどこにいてもよく耳に残る。ゆったりした仕草のたった一歩、たったそれだけが客席には布擦れの音すら許さない。
白い光を黒いスカートは遮り、白いエプロンはソレ自体が輝く様に反射する。
絡まることのない濡羽色の長い髪は艶やかで、その上で輝くヘッドドレスがティアラの様だった。
長いまつ毛がその白い頬に影を落とす。
緑色の瞳が高萩を貫いた。
「……はせがわさん」
その袖はほんの少し前に見た黒色をしていた。
想定はしていても、出てきては欲しく無かった人物に高萩の足が思わず止まる。偶然にもそこは丁度客席の中央、最も舞台がよく見える地点だった。
長谷川百合子は何も答えない。高萩に目を向けることすら一瞬。多比良に寄り添う様に跪き、脈を測り、その瞳を覗き込んでいる。高萩のある場所からは長谷川が影になって彼の目の色を確かめることは出来なかった。
「 …… う、」
多比良は居眠りをしていた様に瞼と指先を震えさせ、足が無意味に跳ねた。その足が長谷川を軽く蹴る。……生きている。高萩は安堵に小さく息をついた。彼女の蹴られてもなお微動だにしないところがひどく人外じみて、その容姿とあいまって酷く畏ろしい。
彼は見えているのかいないのか、焦点の定まらない人間独特の緩慢な仕草。ヨロヨロ漂った手のひらを長谷川が握る。
「……はせがわ、さん?」
「……はい、そうです。」
舞台上の二人のささやきはひどく伸びる。
長谷川が客席に背を向けていなければ、二人の顔が見えていれば、一席数千円の舞台と勘違いしていたかもしれない。暗闇の中の世界の中心で2人が向き合って一枚の絵としてそこで見つめ合う。
「素晴らしい……!!!!!」
老けた多比良の声が興奮を抑えきれなかったように鳴り響く。焼けつくほど欲と悦びと楽しみと充足感と嬉しさに燃え上がった、一枚目の演技とはかくあるべしといった感情の乗り切った声。しかし、それが本気であることは言うまでもなく、故に彼に舞台上に登る権利はない。
一瞬、どこから聞こえたのかわからず、舞台上を凝視する。数度往復をしたところで焦点が二人を避け、スポットライトの届かない、箱の前に揃う。舞台上、1番の特等席で西園寺青笹は腕を広げて叫んでいた。多比良と並んでいると、男は彼のコピーにも見えたが、所詮は劣化コピーでしかなかった。髪の艶もその肉体の存在感も薄い。科学技術と美容と整形。美人の条件である、夜目も遠目も満たした中ですら三枚目。その所作と声だけが貫禄に満ちているのが、どうにもちぐはぐなせいで滑稽で気持ちが悪い。
「クソ野郎!」
「さぁ、百合子くん。打つんだ。」
その発言を鑑みても、その恍惚とした表情から見ても、レポートから考えても、全てを握るのが西園寺青笹、その男であることは間違いなかった。高萩の殺意に満ちた罵倒など聞こえていない程、その緩慢な言葉と共に、ゆったり四角い箱に寄りかかる。仕草に見合わぬ瞳と声が期待でギラギラ輝く。
瞬きと共に長谷川が青笹の顔を見つめ、気乗りしないような緩慢な動きでサイドテーブルの上の銀色のトレーからなにかをつまみ上げた。
それは、世界の何よりも黒い液体の詰まった、注射器。キャップを親指でズラして落とす。
「おい、待て!」
そこからはすべてがコマ送りに進んだ。
高萩が再度駆け出す。
長谷川が注射器の空気を抜き、メモリを合わせる。
多比良がソファに沈む。
青笹が高萩の妨害しようと身を起こす。
その時、重く、硬いものを打ち合わせるような鈍い爆音と、重いものがズレるような音がした。青笹が訝しげに周りを見渡す。
高萩がステージ上に手をついて飛び乗る。
長谷川が多比良の腕に触れながら音のした方に顔を向け、目を見開く。
多比良がぼんやり瞬きを繰り返す。
青笹の目が長谷川と交差し、ハッとしたように一瞬振り返った。
メリメリ、何かが剥がれる音、バキッ、四角い箱の表面に亀裂が入る。逃げようとした青笹が前に一歩踏み出す。
高萩の足が舞台上を蹴る。
長谷川が注射器を取り落とし、多比良の腕を強く引く。
多比良は理解できないまま、握った腕に無理やり立たされて、長谷川と踊るように踵を支点に身体が反転する。
青笹はどうにかソレから逃れようと腕を伸ばす。
金属の擦れる甲高い不快な音、弾け飛ぶ金具、割れる箱。
黒い玉虫色の、鋭いドリルの形状をした悍ましいナニカが箱の隙間から生まれ落ちる。その鋭い切先が西園寺の胸を貫いた。咆哮。
高萩の胸に多比良が突っ込む。
長谷川は自らが取り落とした注射器の中身を踏み躙りながら舞台袖へと駆け出す。
多比良は自らの体を支えることが出来ず、高萩と共に舞台から落ちていく。
青笹の叫び。
ナニカが、凍ってパキパキした体表を引き剥がす。不定形になり切れぬ身体がバキバキ折れ、西園寺の身体、そして冷蔵庫から逃れようとガタガタ暴れる。
ーーー網にかかった害獣のようだ。
その生き物らしきナニカの咆哮は実験施設で聞いた液体の鳴き声に酷く似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます