第12話 邂逅

 それを見た瞬間に高萩は研究所を駆け抜けた。

 研究所でうっかり何かを目にいれてしまわないよう、呼吸すら止め、向かいの扉に飛び込む。その扉はまたもひどく重かった。パッキンが噛み合っているせいでより開け辛い。全体重をかけ、重い扉を押し開ける。独特の音。次の部屋への警戒をする余裕すらもなく、一息をついた背後でゆっくりとドアの閉まる音がした。

 高萩が軽く見渡したその部屋はただのどこにでもあるような一部屋だった。この屋敷にしては、という注釈付きでとても小さな一室。せいぜい六畳、あっても七畳半といったところだろうか。

 ベット、作業机、人形の部品。もっともわかりやすい場所に掛けられた、男物のベスト。

 高級品が多いことはわかるものの、サイズはせいぜいただの成人の男が暮らしているような寝室。その範囲から逸脱しているのは、その部屋には4つ扉があることだった。左右と正面、そして入ってきた扉、その四枚。それとは別に他四枚に比べれば少しチャチな戸が一枚。


「ここが、もし、その部屋なら……。」


 唇を噛み締めながら自らが呟いた言葉を反芻する。気のせいかもしれない。希望観測かもしれない。実在しない虚像を望み、その可能性にかけているのかもしれない。

 それでもあの白紙の履歴書を見た時から世界を鮮明に感じ、希望が出来たから。視界が広がる様な感覚にどこか浮いた足元がくっきり認識できたから。肺が新鮮な空気を求めて大きく広がる。

 この予想が合っているのなら急がなくてはならない。ただし同時にこの考えが合っていないなら不用意に先に進むのは危険だ。

 自分の考えを裏付けるためにまずは、と、そのチャチな戸を開けると、中はウォークインクローゼットだった。予想通りのどうと言うことはない室内におかしなものはなく、高萩は軽い安堵ともにその中を見て回る。高級な紳士服と共にドールの部品が並んでいた。長方形を二つ重ねたような少し変わった形をしているが、かなり広めに作られており、寝室の半分ほどはあるだろうか。荷物が所狭しと並んでいた。

 残るは四枚の扉のうちの三枚はどこに続いているのかわからない。吸い込み、鋭く吐き捨てた。


 まず研究所から入って左。

 耳をぴったり添え、瞼を閉じて耳を澄ませる。……なんの音もしない。そのことに安堵する時間はなかった。高萩の閉じた瞳の裏側に強く、強く刻まれた、あの蠢く黒い生き物の映像が寸分違わず流れ、脳が揺さぶられているような感覚に襲われる。それでも小さく震える手を押さえつけ、歯軋りと共にその扉を開いた。

 決意に反してそこは浴室だった。……正確には脱衣所であり、そこから通じるところに風呂場、別室にトイレ。これを避けるようなデッドスペースに配置されたために、ウォークインクローゼットは長方形を二つ繋げたような形をしていたらしい。わかりやすく高級品の男物のソープ類が並ぶ。ただ人の生活している残り香が漂っているだけ。これまでの非日常が聞いて呆れるような日常感だった。


 続いて部屋を横切り、入って右側の扉に耳を澄ませる。どこかで見覚えのある扉の木目を目で追いながら、当てた耳から何かの情報を得ようと必死になる。……やはりなんの音もない。

 速く逃げださなければという仄暗い本能に突き動かされるように、ゆっくり音を立てぬよう、最新の注意を払ってつまみを回す。耳を澄ませていなければわからないような音で鍵が外れた。

 滑らかな蝶番は軽い力でなんの音もなく開いていく。

 その先は東館の奥、多比良の部屋の扉が出てすぐ隣で鎮座していた。……ここは、先代の部屋、と聞いていた開かずの間。その扉の奥だった。

 見知った場所に高萩の口から小さな声が漏れた。安堵感。まずい、と気を引き締め直しはしたものの、これで出られる……という自分の心の声がひどく大きい。

 ――犯人は友人の多比良千尋。いや、西園寺千尋だった。帰って通報でもなんでもしておけばいい。あの死体の山の処理には時間がかかる。逃げることなどできない。

 ――俺が抱いている違和感、否、確信はきっと間違っていて、ここから帰るのが正しい筈だ。

 高萩はそう、自分の感情に従ってしまおうと、一歩部屋の外に踏み出した。



 ……握ったノブを離すことができない。

 腕が小刻みに震えるほど力のこもった指先が白くなるほどに強くノブを握っている。あの渡り廊下の隠し扉のように、手を離せば二度と開けられないかもしれない。そう思うと指を引き剥がすことはできない。

 感情はこんな非日常に溢れた場所から逃げようと言っている。ここから出て行く、それだけで少なくとも友人一人をチップに日常には帰ることが出来るだろう。

 それでも、直感が。自分の豊富な経験に基づく勘が。ここまで見てきたものたちが。ここから出てはいけないと叫んでいる。

 力を込めすぎた手が震える。ひどくぎこちない姿でノブから一本ずつ指を引き剥がした。

 ため息。

 高萩は踵を返す。その背後でドアが閉まる音、鍵が回る音がした。いつでもこちら側から鍵を回せるとはいえ、閉じ込められるようでいい気分ではない。

 それでも。

 研究所の扉から真っ正面。それはこの部屋で最後の扉。今までと同じように耳を当てた。……、ずっとこの部屋に入ってから小さく聞こえていた鼻歌がはっきり聞こえる。

 それは、ひどく聞き覚えのある声に似ていた。多比良の声に、似ていた。

 音のしないよう、そっとノブを回した。屈んでその扉をくぐり抜ける。大きくなったその声に疑惑が確信に変わった。出なかったことへの後悔が形を変えた。もう、後戻りは出来ない。

 その部屋はまるで舞台裏、衣裳室だった。さまざまな衣装や小道具が所狭しと並んでいる。ひどく広い。あの寝室の何倍あるのだろう。少なくともあの“人形”の展示場と同じほどの広さはあるように思える。迷路のように並んだ、大量のハンガーラックの隙間をくぐり抜け、隙間を通って声の元に近づいていく。

 衣裳室の中でも、床が他の場所より数十センチ高くなった、舞台にも似たメイクルームのような場所にその男はいた。高萩のいる衣装の並ぶ位置の照明は暗く、男の立つメイクスペースは明るい。マネキンと男は向かい合い、その真横に鏡が置かれている。

 その奥で次の部屋に続くドアのノブが鈍く光っていた。

 男から見て真横、高萩から見て正面に置かれた鏡の中で、自分の顔が何ともいえない表情をしているのが印象的だった。よほど集中しているのか、男が気がつく様子はない。

 そこにいたのは茶色い髪の男だった。金色じみた明るいブラウンの髪を伸ばし、緩く黒いリボンでまとめている。染めているのでだろう、よく手入れのされた髪が動くたびに揺れる。青いベストとクロスタイがよく似合う、白いシャツの男。アームバンドがその腕を包む。


 鼻歌まじりに、椅子に腰掛けた正真正銘本物のマネキンに洋服をあてがう。高萩の目からは違いのわからないシャツを並べたて、いくつものリボンから一つを選ぶ。

 高萩は足元に置かれた、大量のおもちゃの詰め込まれたボックスをチラと覗く。目当てのものはわかりやすく飛び出していた。高萩はそれがある場所を頭に叩き込む。

 男は数多の衣装の中から一つを選び抜いたらしい。満足したように笑みを浮かべ、自らの体にあてて鏡を覗き込んだ。

 その上機嫌な鼻歌がピタ、と、止まる。

 そして、満面の笑みを浮かべ、振り返った。


 男の視線の先では高萩が立っていた。


誰だ・・・あんた・・・

私は・・西園寺 青笹・・・ ・・だ。はじめまして。高萩一くん。」


 その男は顔も、声も、髪も、多比良によく似ているが、どこか少し違っていた。

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