第11話 欲

 高萩は入って左の部屋に飛び込んだ。

 そこには雑多に資料や実験器具、巨大な冷蔵庫が並んでいた。

 ……入ってきた扉以外の出入り口はない。


 彼は転がるように飛び込み、そのまま地面に倒れ伏す。

 その身を守るために丸まって衝動に耐える。


「うううつあう……くぅぐあがぐぐぐつつつううぅぅぅぅ……」


 歯を食いしばり、叫び出したい衝撃を耐える。どこにあの男がいるかわからない。髪を掻きむしれば、ワックスで固めていたそれが解けていく。鼻と頬をかすめる前髪。

 強張った全身、首筋が攣る感覚、背筋が痺れ、破壊欲が脳をジワジワ浸食する。脳みその表面を直接虫が歩き回っている幻覚。いくらその頭を掻いたところでその表面に触れるには頭蓋骨が阻害する。

 怒りにその身を任せ、床を殴り、足を伸ばして近くの棚に八つ当たりをする。

 床は変わらずひどく冷たかった。

「ああ、……くそ」

 長年連れ添った直感の言うことを無視してはいけない、と言うことを学ばされた。知っていたと言うのに、くだらない好奇心に従ってしまっていた。今日だけで何度床を転がっただろうか。

 高萩は感情を投げ捨てるだけの特段意味なんてない罵倒を口の中で囁く。


 思い出すたびに吐き気を催すナニカ。あれがなんであったのか、気が付いてはならない。思い出しては、ならない。


 ぶつかった棚から頭の上に向かって紙が降り注ぐ。

 簡素な研究レポートとひどく安っぽい取り扱い説明書はどこからどう見ても頭がおかしいのではないか、としか思えない。

 ただ、延髄の奥まで思い知らされた、従うべき直感様が読んでおけと言う。仕方なしに表紙だけ、と見たそれぞれの文字列から手放すことも出来なくなり、諦めた高萩はそこで始めてひどく重いその体を起こした。直感は今日も正しい。

 ……ともあれ、取り扱い説明書の方は読む前に表紙を下にして伏せておく。初めから読むには覚悟が必要になりそうだ。

 まずは、と薬剤の開発レポートの表紙を撫でた。何枚かの紙が止めてあるだけの紙束が同じ大きさの鋼鉄より重く感じる。

 表紙には題と見覚えのある研究者の名前が並んでいる。


「“STOP”、の、研究レポート……。」


 高萩がただ紙の上の文字をただなぞるような言い方で呟く。ひどく掠れた声は耳障りな音だった。なんらかの略称らしき薬品名はひどく馬鹿馬鹿しい字面で、憤怒に溺れそうだ。続いて題の真下、開発研究者の名前をなぞり、目を細める。推理でもなんでもない、直感でできた自らの予測を肯定するその5文字によって、全身が震え出し、口が乾いていくことが体感で理解できる。

 次にめくればレポートの初めに効能がデカデカと書かれていた。……薬剤の効果は人道的と言う言葉に喧嘩を売るようなクソみたいな研究だった。


 それは、人間を人形にする薬。


 0.2㎖を時間を空けて七本。たったそれだけ。

 それだけでその人の時が止まる。老いることはない。代謝をすることもない。その皮膚は若さと張りを保ち、髪は艶やかな光を放つ。見た目だけならば静かに眠りにつく薬剤。美しいままの、芸術品としての、人生の終わり方。人によっては喉から手が出るほど欲しいものなのだろう。

 高萩には興味がないが、読まざる負えない状況にその文字列を目で追っていく。惰性にも似た義務感はこの巻き込まれた状況の答えを探すためのものでしかない。

 しかし、その中で副作用の一つに目が止まった。『眼球が黒く染まる』それは、あの部屋の人形たちの眼球そのものでしかない。

 わかりきったこととしてそれを理解していたとしても、事実として眼前に突きつけられたてしまえば、当然重い。アレは、あの部屋にいた数十人は。確かに全員生きた人だったのだ。


 一つは生物の取り扱い説明書らしい。

 量産の家電じみた安っぽさを感じる文面にやたらポップなフォントが印象的なトリセツの表紙は、隣の水槽で蠢くアレの写真が使われていた。読むべきだろうとは思うものの、あまりにも気分が悪く、ひどく恐ろしい。

 嫌々持ち上げた拍子に見えたその黒い粘液のその姿に高萩はひどい嫌悪感を覚え、その資料を思わず振り払った。足元から粘性の生物が這い上がってくる感覚に震える。幻覚でしかないことは理解できているのに、無視することは難しい。

 ぺションと床に落ちた際に開いたであろう一ページに、アレの原産は南極大陸だと書かれている。ひどく聞き覚えのある場所で、高萩は思わず、そんな訳あるか、とデカデカ書かれた顔を晒す。誰かがもし見ていたのなら指を刺して笑われたであろう表情は埃っぽい床に座れて消えていった。

 深いため息。嫌悪感を抽出して作ったような顔で二種ともを紙吹雪にして捨てる。

 足の裏でその紙を踏み躙る。


「クソ……!頭どうかしてんだろ…!」


 目的も効能も副作用も原料も高萩には全てが理解できかねるもので、ひどい頭痛に襲われる。地面に項垂れ、俯いたまま固く目を閉じ、人生幾度目かの死の危機に覚悟が固まっていくのを感じる。心臓が鼓膜をノックするような緊張感。もはやワックスの名残しかない頭を申し訳程度に後ろに撫で付けた。


「ここは不思議の国じゃねぇんだよ。」


 そんな怪物にそんな薬あってたまるか。いや、直前見たものがその怪物でしかないのだが。完成した人形を目にしたのだが。

 早く、早く帰りたい。

 高萩の目が生存欲に燃える。

 荒い息で他に何かないか、と探せば履歴書の束が出てきた。履歴書の顔写真がやたら大きく、ブロマイドのようだ。どれを見ても顔が整っている。いくつかパラパラと見ていけば何のものかはすぐにわかった。


『片岡 涼子 28 女

 26を過ぎた頃からでしょうか、肌のハリが失われ始め、エクボがほうれい線へと形を変えていきました。これ以上醜くなることなど耐えられません。早く人を辞めたい。 


 モデル業


 CHANEL (他ブランド品が続く)』


 几帳面で神経質な文字で名前、志望動機、普段の生活がどういったものか、普段の服の傾向と並ぶ。どの欄も絶対に落ちてたまるかという熱意と神経質さでびっちり書き込まれている。写真はきつそうな美人だった。


『真山 翔 21 男

 ギャンブルで負けました

 金がもらえるって聞いたんで来ました

 最後に金使ってパーっと遊んだらまん足なんで


 ギャンブルしてます

 パチプロです


 ウィーゴ?ウィゴー?』


 汚い文字で適当に書いたことが伺える文字が並ぶ。いかにも若者、と言った二三行書いてある程度の文章。熱意なんてかけらもない。写真はチャラく軽薄そうな男が写っていた。


『瀬蓮 夜 57

 ⬛︎⬛︎(塗りつぶされている)様がお望みですから。


 執事業


 燕尾服』


 整った文字で一言二言だけ書かれた履歴書もあった。おそらく知ってる相手のために形式上書いたものだろうと予想が容易に出来た。写真は整った顔の老紳士で、この中では最も年嵩の男性。あの部屋にいた老人の人形であろうと予想がつく。

 どれもあの部屋にいた人形たちの履歴書だった。形や理由はどうあれ全員が望んでアレになったらしい。どうかしている。理解ができない。


「イカれてんな。」


 そう呟いた瞬間、高萩は気がつく。

 その履歴書の山、一番最後のページは何も書き込まれていない白紙につけられたブロマイドは昔多比良と2人で撮った写真が挟まれていたことに。

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