第10話 怪物

 ペリ、そう簡単に彼女の目から剥がれたのは通常より何回りも大きなカラーコンタクトレンズだった。

 しかし、通常着色されているべき場所は透明で、透明であるべき部分は陶器のような白で出来ている。目から剥がれたコンタクトと網膜の間で黒い液体が糸を引く。千切れた糸が頬に涙のような跡を残す。

 露わになった彼女のその目に白目などはなく、瞳孔もあるのかないのかわからない程に黒く、黒く。つるりとした闇がただただ広がっていた。もし、覗き込めば覗き返してくるという深淵を擬人化すればこんな目をしているのだろうか。

 心臓が痛むほど強く彼の胸を叩く。全身から脂汗が吹き出した。

 咄嗟にすぐ背後の男のマネキンの腕を掴む。バランスの崩れたその体からカクんと力が抜け、高萩にもたれかかる。掴んだ腕で引っ張り上げられる姿は操り人形みたいだというのに、その体は腕だけで立たせることは出来ないほどに重い。

 ひどく恐ろしい予感に背筋が震え、高萩の背にじっとり湿った黒いタートルネックが張り付く。彼女に触れていた時が嘘の様に指先が寒く、心臓が熱い。うなじを中心として全身が焦燥感で焦げる。

 出来るだけ触れることを拒絶した彼の握り拳の親指が、その閉じた瞼を押し上げた。


 黒。


 黒。


 黒。


 あの老紳士も、そのレディも、ここの青年も。

 どの少女たちも、例外なく。その皮膚は人としての滑らかさと柔らかさがあった。弾力を保つ一貫性あるその独特の見慣れた肌感とは裏腹に、人間とは到底思えぬその黒々した眼球がとうに人を辞めてしまったことを示している。

 足元がふらつく。男に打たれた液体の影響か、それともこの死体の山のせいなのか。

 地面が平らなのかすらわからない。

 高萩は逃げるように次の扉を押し開けた。

 その扉は重かった。体を支えるために縋っているのか、開くために全体重をかけているのか、ひどく曖昧だった。


――――――――――――――――――


 その次の部屋に倒れ込む。冷蔵庫のようにひどく寒く、床は冷たい。

 頭が殴られているように痛い。


「ク、ソが……。」


 ――なに、考えたらあんなもん作るんだ。

 彼が霞む視界の中見たそこは、研究所のようだった。その部屋は今までとは違い、縦ではなく左右に長い。グラグラ揺れる地面に逆らって水道のシンクに掴まって立ち上がろうとした時、シルバーの蛇口に顔が映り込んだ。その見慣れた顔の右目の目がグレーに染まって見えた。それはまるでウェディングドレスの彼女を思い出させる、深い漆黒と白い眼球が混ざったような色だった。

 嘔吐。

 湧き上がる胃の中身をシンクにぶちまけた。もう中身なんかない。ただ黄色いだけの少量の液体がポタポタ落ちるそれだけ。

 水道を捻り、眼球を洗う、洗う、あらう、洗う、洗う、洗う、あらう、あらう、あらう、洗う。

 ぐちゃぐちゃの脳みそまで綺麗にしたかった。シワを全て伸ばせばこの空間でももっとまともにいられる。

 水道の横、安っぽい椅子に身を預け、テーブルに項垂れる。立っていることすら出来ぬ程の不快感。暗い部屋、薬、男、多比良。視界が白く染まり、前がよく見えない。耳を塞いで髪を掻きむしった。歯が砕けそうな音を立てての歯軋り。握った拳をその天板に振り下ろし、激情に耐える。見たものと感情の処理がうまくいかない。心臓を抉り出すほど強く胸を掻いた痛みが救いだった。

 自分の荒い息と心臓の音だけが鼓膜に触れている。その音だけに集中して地面の揺れと嘔吐感が収まるのを待つ。頭の中は最悪の考えで染まりそうだと言うのに、痛みと吐き気、映像のフラッシュバックのせいで何も考えられない。




 どれほど経っただろうか、全ての考えなければならないことを後回しに、幾分か良くなった体調で改めてシンクを鏡に自分の顔を見つめ直そうとふらつく体を起こした。渇いた喉、胃液で焼けた喉が音を立てている。震える手がシンクを掴んだ。強く目を瞑り、息を大きく吸った。

 そして、見る

 ……白い。白目は確かに、両目ともに同じ色をしている。

 全身から力が抜けていく。肺から息が抜けていく。

「ふーーーーーー…ーーー…ーー……ーーー…ー……ー…………さいあくだ……。」

 言葉とは裏腹な、甘いほどの溢れかえる安心感に言葉が漏れた。口を濯ぎ、腕で拭う。


 そして、改めて周りを見渡す。   テケリ


 入ってきた扉から正面、壁一面に何十個もの水槽が置かれている。その中で何かが蠢いている。ひどく曇っていて、中は何がいるのか良く見えなかった。


 寒い。 テ


 ここは清潔で、白い。

 エナメルの床、白い照明、実験器具、水道。そして、壁にはびっちりといくつもの、小さな水槽。左右の部屋へ続く扉がそれぞれ一つづつ。


  リ・リ


 何か、小さな音がする。

 なんの音かは聞き取ることができない。

 街の雑踏にもにた、意味をなしているのかすらわからない小さなざわめき。

 いくつもの音なのか、声なのか。

 さっきまでは聞き取れていなかった、折り重なるような複数のソレは、ただそこにあった。


    テケ


「なんなんだ……、ここ……。」


 直感がここにいてはいけない、その音を聞いてはいけないと告げている。

 その声に逆らって水槽に近寄った。放置されたタオルを引っ掴み、その結露を拭った。タオル越しでさえ、氷のようにその表面は冷たかった。


  テケり


 その中身が鮮明に見える。


   ケリ・り


 見えて、しまう。


  ケけてリ・テケリてリリ・リ


 ざわめき、声、言葉、祈り、嘆き、怒り。

 そういった、耳鳴りのようだった音が一瞬全て止まった。


   ………………


 静寂。全ての視線が質量を持って突き刺さろうとしている。唾液を飲み込み損ねた音と心臓の音が鼓膜を直接殴る。そして、



        テケリ・リ!



 全ての音が重なって、一つの音として認識できたそれは言語化することが難しく。

 一言だけなにかを口を揃えて言ったそのあとは一つ一つの音がバラバラに崩れ、各々好きに呟く作業に戻る。

 嫌な予感に身震いしながら水槽、否、冷凍ショーケースの中身を認識した。



  り・  て


 拳大ほどの粘性の黒い玉虫色のナニカに、目が沸き埋もれるように中に消え、また現れ飲まれる。一つの瞬きごとに形を変え、ぬらぬらしたその表層が色を変えた。どこか緩慢な動きでガラスの表面に張り付き、こちらを凝視し続けている。ソレは薄く、薄く、広く伸び続け、そのガラスが漆黒の虹色で覆われる。


     テケ


 手や唇が震え、その存在を凝視し続ける。次第にまた結露が薄く張り始める。首を絞められているのかと思う程息ができない。酸素の足りない脳のせいで視界にチカチカした星が瞬く。


   て リ


  テケリ


        けり  テ


 …………どれほど見続けたのだろうか、いつの間にやら、もはやぼんやりとしか見えぬほどにそのガラスは白く曇っていた。

 取り落としたタオルが足元で丸まっている。

 振り返り、シンクにもう一度抱きついた。どれほど、どれほど吐いても吐き足りない。びちゃびちゃの、既に個体すら残らない液体が喉を焼く。食道が壊れたようにひどく痛んだ。


    り り


 ゆっくりもう一度水槽を見る。そう、水槽たち・・・・

 もし、この全てにあの生き物のような悍ましい何かがいるのだとすれば。

 寒さが原因ではない震えが全身を襲った。


   テケリ・りてりけりてけリ・リテリケリケテケリケ


 個々の水槽全てからその声が、声が。

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