第9話 黒目
暗闇の中、耳を澄ませる。耳鳴りでよく聞こえない中でも小さな音を拾おうと必死になりながら痛みを抑える。頭を振って吐き気を誤魔化す。
いくら暗いとはいえ、ひどく視界が狭い。目の周りの細い血管に無理やり倍の太さの針を通されている様な痛みが心臓の脈動に合わせて走る。部屋の中央に取り残されたスマートフォンのライトが天井に向けて伸びている以外、なにも見えない。ひどくその白い灯りが目に突き刺さり、吐き気を誘った。
それでもこの中に潜んでいるのはあの男だけではないかもしれない。目を耳を頭を動かし続けなければ。緊張で息が詰まる。ドクドク全身に流れる心臓の音が聞こえるほどの静寂、
…………。
………………。
…………いくら待っても、布擦れの音も自分以外の呼吸音も聞こえない。
体の力が抜ける。脱力し、深呼吸を繰り返す。
差し迫った危険はないらしい。
体力を回復させるためにとにかく床に這いつくばって痛みに耐える。深く息を繰り返す度に心臓が痛い。ギリギリ胃袋が暴れている。真綿で頭蓋の中身を締め付けられている様な感覚がする。視界がぐらぐら揺れてひどく気分が悪い。近場にあったなにかのケースの中身を床にぶちまけ、その中に吐く。苦く、臭い。喉の焼ける痛みでヒリヒリする。首の後ろを多くの虫が這いずっていく様な感覚がした。頭を掻きむしりながら痛みに耐える。額の触れた床の冷たさが少しだけ苦痛を和らげてくれるように思えた。
自らが何か他のものへと変わっていく様な。
何かに侵食されていく様な。
痛み。吐き気。苦しみ。呼吸ができているのかすらわからない。辛い。足の爪の隙間から液体にも似た苦痛が入り込み、身体中を観光して鳩尾で暴れ、毛根から染み出していく様な。
何かの声にならない叫びも呼吸も自分の喉が震えていることだけはわかるというのにどこまでも乖離する。
じわじわゆっくりと身を苛むそれらだけに耐えていると、緩慢ではありながらも確かに濁流めいたその波も鎮まっていく。
腕を支えにして起き上がれば、顔は焼けるほど熱く、頭がうまく回らない。いつのまにか握り込んでいた、どこかにつながる大きな布を手放す。縋った形そのままに残ったシワが手の跡を残す。
額に浮かんだ脂汗で顔がひどくベタベタと感じ、手の甲で拭う。背中にぐっしょり張り付いたべりべり剥がして空気を送り込む。
荒い息だけが響く。胃液で汚れた口を拭い、起きる。
半ば這って取り落としたスマホを拾い上げた。いくつか小さな傷は増えたものの、割れてはいない。
「ふーーーーーーーーー……。」
肺の中身をぶちまけながら項垂れ、そのまままたずるずる地面に落ちた。弛緩した高萩の体が小さく震える。恐怖よりも激しい疲労感に支配された体は何も言うことを聞かない。その司令塔の脳ですらも。
なぜこんなことを、なにを打たれた、なんのために、疑問は尽きることなく奥底から湧き上がる。考えてもわかるはずのないことが無意味にこびりついて痛みを増長する。力の入らない体を引きずってもう一度壁を確かめるも、やはりドアノブが見つからない。叩こうが殴ろうが蹴ろうがびくともしないただの壁。打ち込まれた薬が効いてきているのか、体に力がうまく入らないが、それでも、あの男が走っていった方にしか進むことは出来そうになかった。
「ふざけろ……!多比良……!!っぅ、」
思わず悪態をついて地面を殴る。少し大きく動いただけで頭の痛みが増す。真っ暗な道行はただただ不安だけを押し付ける。それでもできることはない。白くまあるいスマートフォンのライトが地面を照らす。ちらちらと明かりの端にマネキンの手足が掠る。色々なものがぶちまけられ、荒れた室内を進む。……たった数メートルがひどくながく、遠い。先が見えないだけで心境が違う。
ライトを頼りに荷物を避け、男の走り抜けていった扉の前までたどり着く。
「っ、」
耳をドアに当てる。ひんやりした木目が肌に触れた。……向こう側からはなんの音もしない。それでもなお男が隠れていないことを祈る。音を立ててしまえばまた男に襲われるのだ、というような仕草で目の前の扉のノブをゆっくり回した。数ミリの隙間から光が漏れてくる。……向こう側からはなんの反応もない。
そのまま押し開いていけば、音もなく次第に光の漏れ出す隙間が広くなっていき、一瞬目の前が白くかすんだ。しかし、それも数度の瞬きで目が慣れてしまえば大した問題とはいえなかった。スマートフォンのライトとは違う、温かみのある光に安堵感を覚える。乾いた喉を唾液で無理やり潤し、一息と共に大きく開いた。
「――ヒュッ」
その先、目の前には人がいた。
吸い込んだ息が喉の奥で詰まる。
痛い程に噛み締めた歯が軋み、眉間に深い皺が刻まれる。咄嗟に体がとったのは幾度となく繰り返した柔道の構え。腰を落とした姿勢に入りながら、気合を入れるためのルーティーン、一度拳を握り込んでから手を大きく広げる。溜まった息を吐きながら吠える……、
と、そこまで来た所でようやく高萩は気が付く。その人が人間ではないことに。中途半端に肺に残った空気をすべて投げ捨てた。
「――っ! 、あぁ!クソ、あぁ…………あぁ、はぁ……。」
舌打ち。
全身から汗が吹き出すような毛穴が次々に開いていく不快感。安堵による甘い痺れ。段階を踏んで呼吸を落ち着ける。また激しく傷んだ頭を抑える。 高萩は改めて目の前に置かれた彼女を認識した。
――――――――――――――――――
それは、静かに眠る美女・・・を模した人形だった。人の美醜に拘らない彼ですら美人だと思ずにはいられない女性。誰もが目が奪われる程の、人類でもトップクラスの美女。ロイヤルブルーのドレスを着た人形が黒い革の椅子に深く腰掛けていた。長い睫毛が頬に影を落とす、ゆるく目を閉じたその姿はまるで眠っているようだった。彼女は人とは思えぬほどに美しいのに、人ではないと教えてくれるところがひとつもない。ソファーに置かれたプレートに名前まで付けられてた。
「なんだ、ここ」
美しい彼女からどうにか目を引き剥がした先、彼女の奥に、その部屋は広がっていた。どこぞのイベントホールに迫るほどに大きな、長方形の部屋。先ほどの部屋は物の量の多さから小さく見えたが、同じぐらいの広さがあったかも知れない。
そこに大量の人形がディスプレイされていた。
訝しげな青白い顔をした高萩が進む。
館の廊下で見た仕掛け人形、『エリーゼ』のように精巧なマネキン。あくまで人形としか思えなかったエリーゼと、ここの人形たちの違いは球体人形ではないことだった。ここは、まるでどこかに生きる人々がただそこにいるような見た目。
不気味の谷すら超えた美しき空間。
その部屋を見た高萩が思い浮かべたのは映画館だった。
カジュアル、モード、ストリート。ビジュアル系から始まって、スリーピースに至るまで。一角ごと、服に髪にメイクにそしてポーズに至るまで。一人一人にあった、至上の装飾が施されている。
その一人一人が映画のワンシーンから切り抜かれたその世界の主人公として君臨し、全員がそれぞれのために作られた空間は何処をとっても銀幕の向こう側のようだった。
ただ、人形としては然程可笑しなことではないかもしれないが、精巧な人形たちのすべての目が閉じられていることが印象的だった。スケボーに乗ろうとしている若い男、歌い出しそうな女、ギャルソンと老紳士。とあるキネマの一瞬から攫われた様子であるのに、誰とも目が合わない。
誰もが居眠りしているようだ。
その空間を見て、咄嗟に街中のような場所を連想しなかったのは、全てが作られた美しさだったからだろう。人々もそれを飾り立てるセットも、この空間そのものも全てが計算されていた。
例えば、この部屋のどこに立っても部屋のすべてを見通すことが出来る。部屋の隅の紳士もスケボーを片手に立つ青年も全員を目にすることができた。しかし、同時に、中央に道、その左右に彼らが配置されていることによって、正面に立てば一人ひとり、もしくはテーマごとに個々を鑑賞することもできた。家の中にこんな場所があることが理解できない。頭がどうにかなりそうだった。
――……気味が悪い。
自分以外の時が止まってしまったような空間に高萩は思わずそう心中で零しながら苦虫を噛み潰した時のような気分になる。それでもセットの時計の秒針が無慈悲に進み続ける時を告げる。この空間にいるだけで脳の片隅が侵食されるような嫌な予感に包まれた高萩は眉を顰めながら人形たちの林を抜け、部屋を進む。先ほどと同じ位置、部屋の突き当たりに扉があった。次の部屋へと向かうその扉の真前、そこに彼女はいた。その人を認識した瞬間、高萩の体が強ばり固まって、全ての関節が軋む音が聞こえた。
「……っ!」
それはあえて意識を逸らしてしまうほどに美しい、入口にいた青いドレスの彼女より劇的な、花嫁の人形。
この目の前に来るまでその存在に気が付かなかった事に驚くことしかできない。美しさにレベルがあるとすれば、長谷川と同格だろうか。人形の生命力のなさがその美貌に更なる磨きをかけていた。
重厚な絨毯、薄暗い照明、白いスポットライト、針金のトルソー、二人がけベルベットのソファー。白いウェディングドレスは幾重にもレースが重ねられ、重厚な存在感を放つ。嫋やかな指先はドレスと揃いのグローブに包まれている。ランプブラックの髪がドレスに広がり、その一本一本に至るまで鮮明に高萩の目に焼き付いた。癖の一つもない髪は舞台セットの家具たちに緩く掛かり、それすらもまるで彼女の装飾の一つのようだった。
彼女にはここにいるどのマネキンとも違うことが一つ。
彼女だけはただ一人、その眼を開けていた。
薄らと開かれた黒い瞳は足元をただ見つめ続けている。
彼女はただそれだけで誰よりも完成された存在としてそこに在った。
違和感。
彼女が人の手で作れると思えないほど美しいことだとか、その存在感だとか、その出来の完成度だとか。そんなどうでもいいことを踏み倒すほどの違和感。
無視することの出来ぬほどの、違和感。高萩はセットと道の境界を踏み越え、マネキンに近づいた。足が沈むほど柔らかな絨毯が彼の靴の形に沈み、その跡を残した。埃が絨毯に絡み付いてその作られた世界を踏み躙る。そんなことを気にも留めない高萩が彼女のその目をよく見ようとその前に跪き、違和感を探るようにその顔を覗き込む。メイクでわかりづらいが、その瞳だけでなく、ほんの少しだけ見える目尻と目頭が黒い。変わったデザインの目だった。
彼の無意識的な行動は彼女のドレスに膝が埋まるほどに近く、絶妙なバランスで腰掛けていた彼女の上半身が傾ぐ。咄嗟に腕を伸ばした高萩のその手のひらが彼女の頬を滑り、指先がその美しい黒髪に少し埋まるようにしてその体を支えた。さらさらした髪が彼の焼けた手に絡みつく。黒い男と白い女性、二人の対比はひどく絵になった。
そんな彼の手のひらにズッシリした重みがのしかかる。――人の頭部はボーリング球ほどの重さがある。そんなどこかで耳にした情報が頭の中で乱反射した。耳の軟骨が手と頭の間でブニブニした感覚を与える。
グニュ
柔らかな頬が潰れた。
シリコンなんて安っぽいダミーじゃない。
全身の毛という毛が沸き立ち、逆立ち、心臓から送り出された筈の血液という血液が逆流を始めたような、気温がグッと下がったような寒気が走る。高萩の全身が痙攣した。薬が効いてる中の急な体の動きのせいか、衝撃的な感触のせいか。頭がかき混ぜられているように彼の瞳がぐらぐらゆれ動く。鼓膜を突き破りそうな程の心音が身体中で響き渡る。
自分の体では無くなってしまったように軋む、彼女を支える左手をそのままに。彼がブリキ人形より歪な動きで後ろを振り返ればこの部屋の全てのマネキンを見返すことが出来た。
ここまで見た彼らの、ひとつたりとも、否、ひとりたりとも、
ここにいるのは全員元人間だ。この部屋の真相に嘔吐感が込み上げる。そう思えてならない。
――……いいや、俺の勘違いかも知れない。
高萩は自分にそう言い聞かせ、彼女にもう一度振り返る。柔らかく、グニュリとした、弛緩した皮膚の感覚になんら変わりはない。自らの頬が乾いた地面のように引き攣り、ひび割れるように思えた。顔どころか唇も、舌も喉も全ての水分が弾け飛んだ感覚すらあり、喉仏の上下に合わせて唾液を飲み下すのに失敗した音がする。手のひらと顔はひどく暑く、心臓は寒い。
暖かいとも冷たいともつかない体温だけがこれは死体ではないとではないと告げてくる。それが希望的観測だと理解しながらも投げ捨てたいほどの不快感を理性と倫理観で押さえつけ、彼は彼女の目をよく見ようと、震える手でゆっくりとソファに横たえた。投げ出した足にハマったロイヤルブルーのハイヒール。――花嫁は青いものを身につけると幸せになれる。いつだったか、どこかで覚えた知識が理性を苛む。
嘔吐感に耐え、震える指先が彼女の目蓋を押し上げる。
白目、その外側が黒かった。
心臓が何よりも強く胸を殴り、ひどく傷んだ。
彼女の網膜に高萩のかさついた指が触れる。
唾を飲み込み損ねた喉仏が上下した。
白い、眼球がペリ、と剥がれた。
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