第7話 夕食

 高萩が食堂で待っていれば5分もしないうちに多比良が。二人でしばらく談笑していればカラトリーをワゴンに並べた長谷川が入室してきた。彼女からはスカートと髪からは染み付いた焼いたチキンとバターの香りがほのかに漂っていた。

 次々並べられていく輝く銀のカラトリーと純白の皿に、ディッシュカバーを開けると普段食べることのないような絶品の食事が立ち並ぶ。趣味のいい金細工の施されたガラス製のグラスには多比良の好きなワインが注がれた。グラスに刻まれた西園寺家の家紋が赤いアルコールの中で浮かび上がる。どちらかと言えばブラックビールやブランデーのほうが好きな高萩でも良いものだとわかる、葡萄の香り。

「――ハジメそれほんとう?」

「……………………あぁ。」

「……いやいやいや。6月に雪山で遭難って何?海外旅行行ったの?」

「隣県」

「意味がわからない……。」

 香りもよく味も良く。舌鼓をうって時計がぐるりと回り。宴もたけなわ、会話に興が乗った頃。

コツン

 高萩の肘がグラスにあたり、その高級そうなグラスが傾ぐ。その瞬間を全員が目撃した。

 ゆっくり倒れ、テーブルの天板に弾かれ、そして、床に吸い込まれて、いく。というところで高萩はそのグラスを地面に吸い込まれて割れる運命から救出した。ステムを握ろうとした指先が滑り、プレートに引っかかって止まる。狙ってできた事ではなく、反射による偶然だった。一瞬の安堵がその場を包む。多比良のものであろう息を吐く音が聞こえた。

 しかし、その偶然を実力に変えるための幸運は、残念ながら彼から不足していた。グラスは殺しきれなかった勢いのまま指の間からすり抜けていく。咄嗟にテーブルの天板についた手が高萩の体を支え、さらに地面近くまでその指は伸びる。

 「あ」

 誰かの声が響いた。

 グラスを追うように伸びた高萩の手、そのさらに2センチ先のところで床に叩きつけられたガラスが軋み、歪み。それは極限まで押しつぶされた風船のように、無常にも弾け、キラキラした大きな破片がくるくる跳ねて高萩の右手の甲を引き裂く。

「あーーー!!!グラスが!!?!!???」

 ざっと顔を青ざめさせた多比良が頭を抱える。

「ぃ、ってぇ!」

 赤い血が滲みだすその手を左の手で覆う。咄嗟のことだったが、じわじわと指の間からべたついた液体が漏れる。

 特注のグラスに刻まれた西園寺家の家紋だけが無駄に綺麗に残っているのが虚しい。悲しげ、名残惜しげにグラスを見ていた多比良が顔を上げ、高萩の手を見てみるみる目を丸めた。

 テーブルの上で丸めた指を伝った血がテーブルクロスに丸いシミを作った。

「悪い、多比良」

 ザッと顔を青ざめた多比良が叫ぶ。

「わ、わぁぁぁぁ⁉︎⁉︎⁉︎ハジメ⁉︎傷‼︎‼︎は、は、は、長谷川さん‼︎‼︎きゅ、救急箱‼︎‼︎」

 静かに、ただ、少し厳しい顔をした長谷川がナプキンで高萩の手を包み込む。互いになにを言うでもなかったが、自分の怪我に手慣れた高萩が咄嗟にその上から抑えた。

「止血を。救急箱をただいまお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ。」

 彼女にしては珍しく、少々慌ただしい足取りで退出していく。

 自分の怪我というものを見慣れた高萩はこの手の傷も然程気にもしていなかった。むしろ垂れた血が見るからに高級そうな絨毯や服を汚すことの方が気になるほど頭は冷めたままだった。強いていうのであれば、到底彼の薄給では弁償のしようがないグラスの破損の方が気になって仕方がなかった。

 彼にとって怪我そのものはどうでも良い事だったが、普段はピクリとも表情の変わらない長谷川が気にかけていることだけは驚きが隠せなかった。彼女は焦ると普段の困り眉がさらに数段下がっていて、高萩は泣きそうな顔に見えるのだということを初めて知った。涙の膜は少しも張っていなかったため、実際に泣いてしまうわけではないのだろうが、高萩はどうにも困った顔の人間に弱い。なにかを言うべきだと開いた唇を何も思い付かぬまま閉じ、そしていや流石にお礼でも一度言おうかと口を開いた時には既にその黒いワンピースが翻っており、白いエプロンを目にすることは出来なくなっていた。

「あああ〜……グラスだけじゃなくてハジメまで怪我を……大丈夫?」

「あぁ。落ち着け。」

 留守番でも言い渡された犬かのように無意味にウロウロ動き回る多比良を宥めるために高萩の肘が多比良を小突いた。ヒンヒンぶつぶつと言ってひどくうるさい。少しでも落ち着かせようと盆を持って来てもらい、そこに血が落ちるように移動して彼女を待つ。

 殆どはナプキンに吸い込まれていくものの、吸い込みきれない血が落ちる。そのたびにソワソワする多比良は鬱陶しく、高萩は目の前で怪我をするとコイツはこれだからとため息を飲み込んだ。

「それより、グラス、悪い。」

「、いいよ、それは。」


――――――――――――――――――

 桶に水差し、応急セット、そして新聞紙と箒とちりとりを器用にもった長谷川が戻ってくると、高萩の傷の手当を彼女が、割れたグラスを掃くのを多比良が担当することとなった。

 はじめは当然逆の担当だったのだが、慣れない多比良の手当はガーゼはズレ、包帯は解け、高萩の傷に直接触れ、痛みに耐えかねた彼に蹴り返される始末だったために早々にお役御免となった。

 そんな多比良に長谷川は何も言わなかったが、自主的に掃き掃除に取り組んだのだった。……二人が怪我をしないようにと言う意図がないでもなかったが、善性の高い理由である以上、誰も何も言わなかった。

 傷は幸いにも範囲が広かった為に出血量は多かったものの、傷自体は浅く、痛みもさほどない。大きな破片が肌を滑るだけだったために、破片も入り込んではいない。長谷川の白い指先がくるくる器用に無骨に傷んだ手を包帯で包んでいく。

「すみません、長谷川サン」

「いいえ。仕事ですから。」

「大丈夫?ハジメ。」

「……ああ。いいからお前は掃いてろ。」

「うん。ありがとう、長谷川さん。僕だけじゃどうにもならなかったよ。君がいないとこの屋敷も回せないし、」

 言葉の語尾に今の手当だってハジメも大人しくしていなかっただろうし。と聞こえたような気がした。そんなことを言われても、高萩としては男の手に傷が出来たから何だと言うんだという感想しか出てこない。

 そのまま片付けに移行した宴会はそこでお開きになった。高萩も移動で疲れただろうし、怪我もあるから部屋に戻ろうか、と言うことで長谷川に皿洗いをまかせ、高萩と多比良の二人は食堂から客間に向けて歩き出した。多比良は掃除はしたものの、館の主人であるし、彼女はメイドである。ついでに高萩は怪我人で客だった。人から仕事を取るものではない。


――――――――――――――――――


 美術館のような廊下を並んで歩く。

 多比良がため息を飲み込んだことを肌で感じる。あのグラスが特注品で、しかも彼が気に入っていたものであることを高萩は知っていた。

「多比良、」

「うん?」

 大した傷でもないのに丁寧に手当をされた手の甲を包帯越しに撫でる。高萩一人であれば、舐めて直す……には大きな傷だが、せいぜい大判の絆創膏を一、二枚ベッと貼って終わりだっただろう。傷口にガラスがないか確認した後、水で軽く流し、消毒液をかけて、傷薬まで塗ったのは多比良がいたからだった。小学生の頃、教室で飼っていた金魚鉢を水の入れ替えの時に割ってしまったような心境で居心地が悪い。

 その間を埋めるように多比良が話す。

「ハジメは本当に生傷が絶えないね。」

「……まぁ、そうかもな。」

 呆れたような苦笑いを多比良がこぼす。昼間あれだけ怒ったにも関わらずものの数時間で怪我をしたのだから仕方がない。続けてその口を開いた。

「美しいって素敵なことだろう?」

 高萩に向けて自分の価値観を朗々と落とす。

「綺麗なものは手元に欲しいし、美しいものは見ていたい。だろう?美しさが壊れる瞬間程僕にとって恐ろしくて悲しいものはないよ。」

「……あぁ。」

「だけど、別に僕だって形あるものがいつか壊れてしまうことだってわかってる。」

 グラスのことを気にしていないのだと暗に伝えてくる。話が一段落したところで食堂から然程離れていない部屋に着く。ノブに手をかけたところで

「おやすみ、ハジメ」

「……ああ。多比良。グラス、悪かった。」

 そのタイミングで謝罪をする。

「確かにあれは気に入っていたけど、そんなに気にしなくていいよ。手、お大事にね、ハジメ。」

 いつものどこか裏のありそうな胡散臭い多比良の笑顔を最後に二人は別れた。

 実際のところ、多比良はグラスが壊れたこと自体も多少ショックではあったが、初めからそれより高萩が怪我をしたことの方が後ろ髪を引く内容だった。高萩が自分を大切にしないとべきいうか、死ななきゃ安いとでも思っているというべきか。彼のそう言った部分をどうすれば良いかとただ考え込んでいた。

 高萩は大切な友人であるし、顔が良い。どうにかもっと自分に気を使うようになって欲しいかった。

 ニ人は本日の自室にそれぞれ入っていく。多比良は高萩の隣を仮の自室にしていたが、高萩の部屋に少しも音は聞こえない。

 こちらの音も聞こえはしないだろう。高萩の安っぽいアパートの安い部屋とは違う。多比良は先程の言葉通り気にしないであろうし、高萩から贈れるのは安物だが、次に来る時は手土産にグラスを買わなければ。そう思いながらタバコを燻らせる。


 寝る支度を済ませ、軽く思考を整理しながらスマホを覗いていれば、時刻は夜の十時をまわっていた。久々に早く寝ようとベッドの中に潜り込んだ。

 手がジクと痛んだ。

 ひんやりしたシーツに体温が移っていく。じわじわ高萩の高い体温と混ざり合って外に溶けていく。軽く組んだ腕の力が弱くなっていく。小さな空調の音、自分の呼吸音と仄かな心臓の音しかしない部屋の中、あの火災道具たちについて思い付いては打ち消した可能性をまた思い出したところで静かに意識が落ちていった。

 ―――誰かを、閉じ込めるため。

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