第8話 暗闇
自然に意識が浮上した。
皮膚に触れる柔らかなシーツが心地いい。
何度も見慣れた天井だ。起き上がって置き時計を見ると朝7時45分になる頃だった。ああ、少し寝坊したなと高萩は伸びをする。疲れが溜まっていたのだろう。あくびをして立ち上がる。ワックスで固める前の頭を掻くと前髪が頬をくすぐった。普段は習慣のせいで6時には起きているし、もし遅くともこの屋敷では7時ごろに多比良が呼びに来て半には朝食だった。が、今日は遅れているのだろうか。
多比良はもう起きているはずだ。シャツとズボンを履き替え、髪だけ適当にワックスで撫でつけ、隣に聞きに行こうと部屋を出た。
……廊下がひどく静かだ。いいや、音の響く屋敷ではない。不自然なことではないが、どこかヒリヒリ直感が昨日とは比べ物にならないほど強く主張する。
たった数メートル横にズレ、その扉を声をかけながらノックする。
「多比良?」
ノックで押された扉が開いていく。鍵を掛けていなかったらしい。開け放たれた部屋には誰もいない。布団は折り返されて足元にまとまっている。
……。
嫌な、予感がする。
身を翻す。
部屋。部屋。食堂。厨房。廊下。応接室。人形。遊戯室。誰もいない。
誰もいない、静かな廊下だ。
誰もいない、ただそれだけが這い上がるような直感を肯定する。
誰もいない、人の気配がしない。
誰もいない、どこか空気が冷たい。
誰もいない、いやな予感がする。
誰もいない、西館を抜け、東館へと足を向ける。
誰もいない、どこか早足になる。
館を繋ぐ渡り廊下の明かりが点々とついている。
それを目で追った先。
壁に取り付けられた間接照明たち。いくつも並ぶうちの一つがおかしい。下にズレている。何かに支配されるように突き動かされる身体が、強くそれを握り、下に向けて思い切り引いた。
ガチャ、
扉の開く音がした。
――――――――――――――――――
ギィ。
隠し扉が開いていく。ちょっとしたホールより広いだろうか、縦に長く大きな室内。視線を投げた先にある、大量のマネキンの部品は人間のものと見まごうほどに精巧だった。直感に突き飛ばされるように部屋に足を踏み入れた。突き当たりには小洒落た扉。頭の片隅で多比良は自室にいるのだ、と聞こえたような気がした。メイドの長谷川さんも自室に……。そう、告げる思考を置き去りにしてその部屋を進む。
「多比良?」
進みながら呼びかけるが、何の返答もない。
「……アト、リエ……か?」
その部屋の呼び名をつけるとするならば、アトリエだろう。何かの角材や、布、家具が置かれている。縦長の大きなカゴに何本もの手足が刺さる。その隣にはディスプレイ用らしき木材が同じように置かれていた。その隙間から向かいの遠い壁の中央でドアがあるのだけは見えた。まだ奥があるらしい。
右手に置かれた立方体のガラスケースのなかで金色の髪の生首がその瞼を閉じて鎮座する。何か、おかしい気がした。
その違和感をよく観察しようとしたその時、フッ、と音もなく灯が落ちる。
「……っ!」
突然の暗闇。
一瞬全身が強ばるも、特に何かがある訳でもなく、ただ灯が落ちただけ。すぐにその緊張も解れ、冷静にいつも腰から下げているウェストポーチに突っ込んだスマートフォンのライトを付ける。
白く、まあるい明かりが真っ暗な室内を伸びていく。
少し明かりが動くだけでマネキンの生首は表情を変える。何本もの枝の刺さったカゴの影と腕の刺さったカゴの影が樹木のようで、気味が悪い。手招く影がゆらゆら揺れて……。
ふと振り返ると入ってきた隠し扉は既に閉まっていた。ドアが閉まると灯が消える仕組みだったのだろうか。なんにせよ、ライトのスイッチの場所もわからない。
一旦外に出て仕切り直そう。東館に二人ともいるかも知れない。そう考えた高萩が、隠し扉のあった壁に向かって歩き出したその時だった。
「ぐっ……!?」
右の首筋に鋭い痛みが走る。
針を刺された時の、範囲が小さいながらも鋭い痛み。
粘性のある何かが注入されているのがわかる。ぞわと全身の産毛が総毛立つ。全てを入れられたらまずい。咄嗟に振り払おうと暴れた腕が相手を殴った感覚。その時に取り落としたスマホが数度回転して床の上で止まった。天井を向いたライトが周囲に明かりをふりましているが、視界がぼやけ、目が霞むせいでよく見えない。打たれたものの影響だろうか。足元が生物の腹の上のように波打ち、まっすぐ立っていることすら出来ない。そばに置かれた机に縋ればそれがひどく冷たく心地いい。地面は変わらずグニグニ動いているのに、触れている机は微動だにしていないのがわかる矛盾。
血が全身に流れていく様すら感じる。程鋭敏に体内の全てが理解できる。ドクドク心臓から始まって脳の中に染み出し、指先にまで流れ込んでいく。
頭が割れる様に痛い。ガンガン頭を金槌で何度も何度も何度も叩かれている様な脳みそからの警告音。視界が白く飛んで意識があちこちに飛んで跳ねた。
理解できない感覚に溺れていたその時、胸ぐらを掴まれ、押し倒された。その拍子に打った頭から床にぶつけたであろう激しい衝撃が伝わってくる。それすらかき消す内側からの痛みに胃から液体がせりあがる。
理解できない中でも腹の上にのし掛かられていることだけは分かった。何かを言っているようだが聞き取れない。
とっさに何かを振り下ろそうとした腕と、胸ぐらを掴む腕の両方を掴み返し、頭突きを食らわせてから左に押し退ける。長い髪が頬を掠めた。
投げ飛ばした、襲いかかってきた奴が何かにぶつかったであろう衝撃で周りがドミノの様にぐちゃぐちゃにひっくり返っていく。
相手が怯んだ隙に入り口の壁に飛びつく。床に二度は打ち付けられ、地面はいまだに脈動している様な感覚。それでもどうにかまっすぐ進んだその先は完全に壁だった。
ノブが、ない。
こちらからも何か仕掛けがあるのか、目立たない場所にノブがあるのか。
どちらにせよ少なくとも今探す時間はない。
絶望感に全身の血の気が引く。暑く寒く痛い。ひどい耳鳴りで何も聞こえない。込み上げる嘔吐感に耐えて迎え撃つために振り返り、相手からの衝撃に備えたその時、向かいの突き当たりにあった扉がひどくあっさり開いた。飛びかかってきた男であろう人物がその扉を抜け、逃げてゆく。予想以上の抵抗だったのか、先程打たれた液体で目的を果たしたのか、高萩にはわからない。
その扉の向こうはひどく明るかった。
その明かりに照らされた髪は茶色く、長く。
霞む視界で一瞬だけ見えた顔は友人、多比良のものに見えた。
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