第4話 友

 メイドの白魚のようなと称されて然るべき細い指先が皿を並べていく。中央に始めに置かれた一番大きな皿にはお茶請けが並ぶ。

 コーヒーカップを高萩の前に。ポットから黒く、香りの良い液体が注がれ、白いだけのシンプルで大きめのカップが満たされていく。

 高萩すら思わず目で追ってしまうほど、全ての動きが絵になる美しい女だ。これ程の美女、そう他にいないだろう。テレビや銀幕、舞台に絵画。どんな全ての向こう側よりも鮮烈だ。この屋敷にしては珍しい、大きな窓から差し込む日がまつ毛に絡んでその頬に影を落とす。

 高萩は注ぎ終わったカップを手に取りながら小さな仕草でお礼を伝えた。普段、よくこの屋敷に来るとはいえど、高萩がわざわざ長谷川に話しかけることはない。世間話をするような仲でもない。もし、高萩が言葉でお礼を伝えたとすれば、その声はどこかぎこちなく、ただ定型文を口にしたカタコトのような響きが残っていただろう。その程度には他人だった。

 長谷川もまた、興味のないような無表情で小さくお辞儀をするだけにとどめた。彼女は職務中に不要なことなど口にしない。

 部屋中でコーヒーの豊かな香りが広がる。

 彼女が多比良のカップと温めた新たなカップを入れ替え、温かい紅茶を注ぎ入れる。多比良が彼女に礼を言うように微笑みかける。それに小さく頷いたメイドは全ての作業を終えると、ワゴンを隅に寄せて退出していく。

 どちらが会話の主導権を握るのかで今後の話題が決まる。高萩にこれ以上多比良の説教などちまちま聞いている気はない。いくら聞いても結論は変わらないし、なんならこれ以降は同じような内容が繰り返されるだけだ。

 パタン。彼女の出て行ったドアが閉まる。


「ところで多比良。」

「……、なにかな?」


 会話の主導権を取った高萩がコーヒーで乾いた口を潤す。多比良が少し不服そうな顔をしたものの、意図を察して折れる。流石にずっと喧嘩をするつもりもない。

 口に含んだその味は酸味が少なく、爽やかな香りが特徴の豆を使ったブラックコーヒー。チープな缶コーヒーとは比べ物にならない程美味しい。長谷川は今日も優秀だった。


「廊下の奥のあの仕掛け人形はなんだ?」

「仕掛け人形……?」

「エリーゼ、だったか。」

「ああ!」


 記憶を探るようにまばたきを繰り返した主人の表情が柔らいだ。ティーカップをその指先が撫でる。つまんで一口に放り込んだチョコレートは少し甘い。甘いものが苦手な高萩のため、ただしコーヒーに合う、少し甘みのあるブラックチョコレート。

 皿の多比良に近い方にはクッキーが並べられている。彼は手で軽く砕いたそれをつまみながら、その疑問に答えた。


「甘いな」

「おいしいね」


 独り言のような感想を交わし合う。


「エリーゼは青笹おじさんの私物だね。よくできてるよねぇ。前方のみ、左右駆動計100°、上下駆動計30°で必ずどこでも目が合うようになってるんだってさ。目もすごくこだわって選んでたよ。可動域以上にどうにかならないか、って。おじさんは特に人形が好きだから。

 彼女、すごく美人さんだったろう?僕もだけど、おじさんは綺麗なものに目がない人なんだよね。」


 西園寺青笹。死後家を継がせるため、遠縁の多比良を養子にむかえた道楽家。高萩は会ったことがないが、美しいものが好きで、多比良とよく気が合う人だったらしいと言う話を度々聞いていた。美術館じみたこの家も元は青笹のものだという。

 逃げ回っていたせいか高萩は知らなかったが、家を継いだからとの名目で招待されたということは、いつの間にやらその人は亡くなっていたらしい。彼は認めることも口に出すこともわざわざしないが、養父を失った多比良の様子を見ることも今回の訪問の目的の一つだった。

 少なくとも多比良はこれまでとなんら変わりなく見える。自分と一切関係のない西園寺青笹という人の死を多比良が口にしていない以上、何か言うことも憚られ口をつぐむ。

 後は互いにただの近況報告と雑談、いくつか昔の話をポツポツ静かに返し返されを繰り返す。一年は存外長く、それに応じてティータイムもその分伸び、二度目のカップが空になったタイミングで一度区切りをつけるように立ち上がった多比良が言った。


「……さて、ハジメ。僕は準備があるから一旦失礼するよ。

 これは好きに食べてくれていいから。」


 特段代わり映えのしない多比良の椅子が絨毯の上を静かに滑る。


「準備?……なんかあんのか?」

「ん?あぁ、東館の僕の部屋からここまで遠いから。食事とかも西館に用意してもらうし、不便だからね。今日は客間で過ごそうかなって。いつもの君の部屋の隣に移動する準備をね。」

「あぁ、移動してなかったのか。」

「うん、昨日少しあってね。いつも通りだけど、この家の中なら好きに過ごしてくれて大丈夫だから。

 もし、外に出るなら山の中だし気をつけてね。」


 深く腰掛け直した高萩は耳にタコができると言いたげな苦い顔で片手で虫を払うように動かしてコーヒーを少し多めに口に含み、多比良を見送った。向こうは向こうでニコニコ笑いながらゆるく手を振って去っていく。なんとなく長年続いている決まりのない習慣は身に染み付いているもので、長く時を開けているとは思えないほど滑らかに体が動いた。すれ違いざま、溶岩を思わせる甘い男物の香水の匂いと紅茶の匂いに混ざって柔軟剤のバラの匂いが酷く鼻についた。コーヒーを飲み下す。

 ドアを開ける直前、足音が止まる。


「多比良。」

「ん?」

「悪かった。」

「……。ふっ、いいよ。せめて入院ぐらいは連絡して。」


 扉が閉まり、絨毯に吸い込まれる小さな足音すら数歩分は離れたところで、彼は便利なものを多量に押し込んだ、常に身につけている黒いウェストポーチからスマホを取り出した。黒いAndroid。とにかく割れにくい、無骨なスマホケースに入った本体は無事なものの、フィルムにひどく傷がついている。何年も使っているせいでどこかくたびれてきていた。チラリと見た時刻は3時半。

 習慣でスマホを使ってしまったが、すぐ目の前には時計がある。少し気まずさを覚えながら高萩はそれを仕舞った。スマホで時間を確認すること自体は別段悪いことではないが、月をデザインした壁掛け時計の文字盤を見て今何時だったか確認しようと考えた思考と、画面を見るまで可笑しさに気がつかなかった自分に呆れる。壁掛け時計の下でブランコに乗って揺られている、可愛らしいデザインのピエロの人形以外誰も見ていなかったのが幸いだった。

 安堵を誤魔化すためにチョコレートを口に含む。美味しい。が、彼には少しくどい。出されたからと消費に向かうが、どうも数が減らない。高萩はコーヒーを啜りながら手持ち無沙汰にこの館では数少ない窓を覗き込んだ。

 この館、外観だけであれば窓が多そうに見えるが、実際は非常に館自体の窓の数は少なかった。

 館の主人の部屋があるのが東館、客間があるのが西館。玄関は西館の南西の端。窓があるのは両館ともに南面だけであった。北、東、西は山の壁面に囲まれており、景観が悪いため窓をつけていないらしく、代わりに照明が至る所に設置されている。

 高萩が把握しているだけで玄関、西館と東館を繋ぐ渡り廊下、応接室ことティールーム。話に聞く位置関係からおそらく南西にある長谷川の部屋にも窓がありそうだ。いや、森に埋もれた箇所であるからないのかもしれないが。逆に多比良の部屋にも書斎にも窓はない。どこか普段は意識しない閉塞感がこの家にはあった。

 酸味のある苦い液体が口の中に広がる。時間が経ったそれは既に少し冷たくなり始めていた。




「、高萩様。」


 背後からの女の声に高萩の肩が跳ね、大きめで無骨なコーヒーカップの水面が大きく揺れる。危うくこぼしかけたことに気が付かない見開いた黒い目が、長谷川を見返した。


「っあ、あぁ、はせがわ、さん。」


 小さく咽せる高萩を見た長谷川が一瞬皿に視線を落とし、その後大皿を下げるか問う視線を彼に向ける。いつから見ていたのかはわからないが、どうやら用意されたチョコレートが高萩には量が多かったことに気がついているらしい。

 出されたものを拒否していいものか逡巡した高萩の唇と視線が回答を探すように戦慄き、揺れた。それを是、と見做した長谷川は高萩が止め、かつ後悔するよりも早く、多比良のカップと共に下げる。彼女は今日も有能だった。

 ワゴンの上に空になったカップと、チョコレート片がいくつか乗った皿が並んでいく。何とも言えない顔でその作業を眺める高萩をチラリと見た長谷川が、


「……もう少々かかりますので、お待ちくださいませ」


 と謎だけを残して退出し、食器の触れ合う音と車輪の回る音が遠ざかる。


「……………………は?」

 ――なんの、話だ?


 何を言われたのかわからないまま取り残された高萩の口から気の抜けた声が落ちたが、その言葉をもう既に誰も聞いてはいない。聞き損ねた何の話か、ということを考えているうちにいつの間にかカップは空になっていた。味を二の次に飲み切ってしまったことに後悔しないでもなかったが、コーヒーを飲み終わってしまっても答えは出ない。

 ここにいても仕方がないし、さほど量はないとは言え、荷解きをしなければならない。と、立ち上がったところで高萩の頭に電流が走った。と同時に全身から力が抜け、思わず椅子に脱力した。一瞬前足の浮いた椅子の肘掛けに肘をついて額を抑えた。


 ――……長谷川が言っていたのはジッポの事だ。


 あまりに見つめすぎていたらしい。彼女はあまりに顔が変わらないからわからなかったが、困っていたようだ、とそこで初めて気がついた。

 自分から話し始めることのない二人は少し相性が悪かった。

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