第1話 到着

 崖に囲まれた立地の関係上、西園寺邸まで直接車で行くことは出来ない。

 橋を挟んだ平地には整備された数台停められる駐車場が整備されている。多比良の車の隣に駐車し、少し歩けば屋敷に向かうための最後の関門、吊り橋だ。

 真新しいそれは頑丈な作りだが、強風に煽られると少しだけ揺れるためどこか不安を煽る。崖の下は何十メートルと遠く、川にも少量の水しか流れていない。ここが私有地でなければ自殺の名所に選ばれそうだ。

 もし、高萩が高所恐怖症だったなら、この屋敷に訪れることすら出来ないだろう。陸の孤島だった。

 そんな橋を高萩は気にするでもなく、サクサク渡っていく。渡り切ってしまえば道はレンガでしっかり舗装され、人工物特有の存在感が顔を出す。左右に木々の並ぶ、トンネル道を抜けていく。肺いっぱいに木々の香りが詰まり、心地いい風が頬を撫でる。

 それらは道を遮ることが無いように剪定されているが、木の切り口は黒ずみ、手が加えられてから時間が経っているのがわかる。整備された道の隙間からしつこい、よく言えばたくましい雑草も生え始めていた。二人だけ、特にメイドの長谷川だけでは手が追い付かないのだろう。とはいえ手入れを怠っていないらしく、橋から玄関までの道に落ち葉などはほぼ落ちていない。

 生き物たちの気配は館の存在感に押しつぶされていく。

 木々の隙間から段々と見えてくるのはいつもの西園寺邸だ。その全容を見る為には離れなければならず、離れる為には木々のトンネルに入らなければ整備された道はないため、木々の隙間からしか見ることはできない。それほどまでに大きな建物だった。

 その館を言葉で表すのなら、西館と東館と呼ばれる同じ大きさの二館とそれを繋ぐ廊下で構成された、上から見れば短辺が非常に短いいわゆるコの字の建造物。大きなドールハウスのような、かわいらしいデザインの西洋館である。残念ながら広い空き地を館の前に作るのは難しいらしく、東館の三分の一以上が森に埋もれかけている。とはいえ西館から東館の真ん中辺りまでの前に作られたスペースにある控えめな庭には大きめの花壇がいくつか並び、背の低い花が揺れている。

 特徴といえば窓が多い外観をしていることだが、崖から切り出した様な位置に建てたせいで西、東、北には景観の都合上窓がつけられないらしい。必然的に南の壁にだけ空いた無数の穴が必死に太陽光に向けて大口を開け、それでも計算し尽くされたデザインはその違和感を醜いとは思わせなかった。

 吊り橋から続く道はまっすぐ西館の南西の端にある玄関へ続く。

 高萩は手慣れた様子でドアノッカーのついた重厚な扉の横にあるドアベルを押した。リンドン。重いチャイムの音は日頃耳にするものよりも重厚だ。

 しばしの間の後に開くドアの向こうで静かに女が立っていた。


「ようこそおいで下さいました。高萩一様。」

「あぁ。……どうも。長谷川さん。」


 無表情に頭を下げる探偵を気にするでもなく、メイドの長谷川は戸口を大きく開き、丁寧な礼をして招き入れた。

 長谷川百合子は大輪の白百合を思わせる、二十代前半の若く、ひどく美しい女だった。高萩は彼女よりも美しい人を見たことがない。

 高く纏められた濡羽色の髪が小さな仕草にすら合わせてゆらゆら揺れる。困り眉に垂れ目の印象的な目をした悩ましい顔。緑みを帯びたグレーの瞳が意思を伝え、口元の黒子が色気を放つ。細い四肢に白い肌。折れそうなほど嫋やかなな仕草。彼女のどこを取ってもまるで芸術品のようだった。

 その視線一つで人の人生を蹂躙しそうなほどの美女だったが、不思議と自己の評価は低いらしい。多比良曰く、どれほど褒められようと、(何を言っているんだ、こいつは)と言う顔で「恐れ入ります」と切り捨てているらしい。

 彼女との付き合いは何年になるだろうか。五年前からこの屋敷で働いていると聞いている。初めてここに来たのは……、もう四年は前か。高萩は彼女の年齢を知らないが、何も変わっていないようにも大人びたようにも思える。その雰囲気の変わり方から鑑みるに、いくつか年が下なのかも知れないとふと気がついた。

 高萩はドアを支え待機した彼女の横を抜け、玄関ホールへと足を踏み入れる。先程まで洗濯をしていたのか、香水でもつけているのか、彼女とすれ違った瞬間、バラとユリの香りがした。何をするでもなく周りを見回せば花瓶に生けられた花の絵画がよく目立つ位置に置かれている。直前に嗅いだ香りも相まって、精巧な絵がより鮮烈に見えた。

その少し離れたところに大きな振り子時計が揺れているのが目につき、視線を向ければ長い針が丁度6を指していた。秒針の代わりに向き合った少年と少女の人形が手と手を取り合ってくるくる踊る。

 絨毯が貼られた床は足音の多くを吸い込む。息をついたところで丁度ドアの閉まる音が高らかに響いた。高萩が大きな音に振り向くのと、彼女が振り返るのはほぼ同時だった。高く結ばれた黒髪が、彼女の背後でサラサラ揺れる。


「ご案内いたします。どうぞ、こちらへ。」

「……。」


 高萩が視線だけで頷く。

 白磁のような白い肌。言葉を発するたびにその口の端で黒子が跳ねた。その仕草だけであいも変わらず至上に綺麗な女性だった。高萩には案内などもう必要がないほどに行き慣れた部屋だが、西館の奥、客間まで案内をしてくれるらしい。


 二人は言葉少なに廊下を進む。

 居心地が悪いというのは気がひけるが、良いとは言い難い、他人との距離感で窓一つない道を進む。とは言っても点々とならぶ電気ランプのおかげでひどく明るい。有名な裸婦画のレプリカの下を抜け進む。全裸の女はいつも変わらず道の角を一心に見つめていた。飾られている絵画だけでなく、壁紙やランプシェードも高級感に溢れ、小さな人形が飾り棚の中で微笑む。いつ来ても息の詰まる静寂と芸術品が立ち並んでいる、どこか美術館を思わせる家だ。

 いくつも並んだ客間。

 暗黙の了解で差し出されたお決まりの部屋の鍵を受け取り、代わりにウェストポーチからジッポを差し出す。


「……おねがいします。」

「はい、お預かりいたします。」


 彼女はメイド服のポケットにそれを滑り込ませた。細々とした手入れは高萩がやっていたが、いつも来訪するたびにメンテナンスを彼女がしてくれていた。この屋敷を定期的に訪れる目的の一つがこれだった。最も廊下の入り口に近い、左側の部屋に高萩は入り、丁寧に小さく礼をしたメイドが他の業務に戻って行く。


 高萩は決まっていつも同じ部屋だ。

 出入りのしやすいその部屋は、ほかの客室に比べ一番装飾の少ない、シンプルな部屋にカスタマイズされていた。この部屋は客間と言いながら、高萩が過ごしやすいよう、装飾品の類いの殆どは取り除かれ、ベット・カーテンなどは黒いものに取り替えられている。高萩が何かを言ったわけではなかったが、季節に合わせ素材が取り替えられていることもあった。

 差し色はネイビーと白のスマートなデザイン。天井のライトはほんのりイエローが入っているが、ベットサイドは白く、明るめだ。さまざまな計算の上で作られた部屋は空調すら壁に埋まり、とても見栄えが良い。

 一年も来ていないと流石に消えてしまっているが、普段であれば薄くタバコの残り香が香り、必ずガラスの灰皿が壁際のわかりやすい場所に用意されている。今日もキラキラしたそれは同じ場所に置かれていた。カバンからタバコを取り出し、横に添えて置く。

 落ち着き、美しく整備された部屋の中では、消火器だけがやけに現実的に鈍く光っていた。

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