第2話 エリーゼ

 荷物を置いた高萩は部屋をでて廊下を歩き出した。普段から夕食の前にティールームで落ち合うことが決まっている。

 すぐに部屋を出はしたものの、なるべく遠回りをしようと無駄な抵抗をする高萩に対し廊下はどこかうす暗く、気分を陰鬱とさせる。普段通ったことのない迂回路を進んでいくと、広い屋敷だ、ここまで端に来ると普段は使われていないのだろう、人の気配が薄く、どこかほこりっぽい。

 普段使わない廊下、部屋から二度角を曲がったその奥の突き当たり。静かで、なおかつ暗いその場所にいる少女に高萩は目を奪われた。

 そこに置かれたガラスケースのなかで、少女が少し寂しげに座っている。揃えられた指先が膝の上でちょんとお利口に。足先は軽く横に流して上品に。軽く傾げた首がその重たげな頭を支えている。遠目で見る限り、眠っているのだろうか、背もたれにもたれかかったままピクリともしていない。

「おい、」

 ドッと嫌な油汗が吹き出す。その少女は精々いっても14程度に見え、いたいけと言って相違ない少女に友人が犯罪でも起こしたのかと頬が引き攣り、意味をなさない言葉が落ちる。そうでなくともガラスケースに閉じ込められた少女、という非現実的な状況に困惑しながら彼は彼女に近づいた。残念ながら見なかったフリをするには距離があまりにも近すぎたし、見捨てられるほど高萩の倫理観は低くなかった。

「なぁ、」

 残り数歩というところでハタと気がつき、眉間を揉みしだく。どうやら過敏になっていたらしい。その事実に思わず開きかけた乾いた口を閉口せざる負えなかった。

 そう、彼女は眠っているのではなく、ただの等身大の球体人形で、どこか寂しげに見えたのは影になった廊下と俯いた首が顔を暗く見せていただけだった。

 少なくとも友人は犯罪者ではないという安堵とともによく見ようと歩を進める。正確にはなんとなく後に引けなくなっただけだったが、人と見間違えるほどに精巧な人形が気になったという面もあった。

 もうその手が届く、というところまで近づけば、不気味の谷から這い上がってくる、ぞわぞわするおそれがそのまま足元から纏わりついてくる。ひりつく程の人形の美しさを感じた。

 ガラスケースの中、足元に小さくタイトルが立てられていた。ただの人形がそこにいただけでしかない。

「『エリーゼ』……。」

 プレートに刻まれた、恐らくその人形の名前であろうものを読み上げたが、だからなんだということもない。高萩にとってそれ以上の関心を惹くものではなく、ただそのまま踵を返そうとした時、人形の方から音した。カラカラカラ。彼は吸い寄せられる様に人形の顔を見る。

 名前を呼ばれて気が付いたように彼女の顔が小さく揺れ、まつ毛が震えた。俯いた小さな顔が持ち上がり、


「は、」


  バチり

 音がするほど明白に彼女と目が合う。

 自分を見ている、それが勘違いでないことは言うまでもない。ただ顔が持ち上がったのでも、瞼が開いたのでもなく、彼女は確実に自分を見ている。自分を見て薄く微笑んでいるとしか、思えない。感情や生気、存在感の異質な瞳に絡め取られたような感覚がする。

 ヌラりとした加工の、生き物じみた眼球にその目から視線を外すことすら罪悪感を感じ、心臓が強く胸をたたく。全身から汗が吹き出した。何に対して言ったのかも理解できない、自分の薄っぺらい疑問の言葉が落ちる。

 幼い存在感。子供から目を離せないような、完成された美しさから目が離せないような。それでもなお人形でしかないことになんとも言えない恐ろしさと痺れに襲われる。唾液を喉の奥に押し込む音が他人事のように聞こえる。無気味の谷の深淵が見つめ返してくる。

 ピクリともしない寂しげな表情に心臓を抉られ、息が口の端から漏れて止まった。 ピタリと両者の動きが止まり、観察するように目を細めた高萩一とガラス玉の目の『エリーゼ』が見つめ合う。

 高萩はしばらく固まった後、ジリ、姿勢はそのままに足を引いた。

 一歩、二歩、彼が動いても彼女は変わらず、見られた目が焦げつくほど熱心に高萩を見ている。三歩、彼が離れたところでキシ、カラカラと音を立てたエリーゼがやっと緩く俯き、その瞼を落とした。


 緩慢な仕草。緩やかに落ちかけた瞼を抵抗するように開いて、それでも名残惜しげに下がっていく、そんな瞬きが眠りに落ちるようで。温かな日差しの公園にでも置かれていればうたた寝をしている幼気な少女にでも見えていたであろう、精巧な人形が置かれているのは、どこか埃の匂いのする人気の少なく物悲しい薄暗い廊下。

 ひとりぼっちの彼女から視線を外すことなく高萩は先程まで立っていた場所に向けて歩を進めた。事実を探究する彼の目が逸らされることなく彼女の一挙手一投足を観察し続ける。見るだけで心動かされる光景に似つかわしくない無慈悲な彼の足は止まらない。

 半歩、何も起きない。小さくもう一度半歩。

 意識の集まった左足のつま先が数ミリ深く沈みこむ。

 カチ、  カラカラ

 何かが噛み合う音がした。

 少女の首が震え、緩く持ち上がったかと思うと、瞼が上がって高萩を熱心に見つめた。一心で一途な眼は恋するように彼を見ている。見られている彼よりも見ている彼女の方が焦げる程熱い視線を向けてもなお、それでも無慈悲に高萩はその足を上げる。少女の全身から力が抜けた。

 しばらく考えた後、高萩は横にずれ、足を伸ばして再度同じあたりの床板を踏みしめた。少女は眠りからまた緩慢に目覚めると、微睡の中、声をかけられたような仕草で左、高萩の方に顔を向けると、その視線を合わせた。小首を傾げるような仕草はどうかしたの?と尋ねるようで愛らしい。


「……仕掛け人形だ……。よくできてる……。」


 感心した声で呟いた彼は前に出て試す、なるべく姿勢を落として試す、右に左に数度位置を変え試すと、満足したように頷いて身を起こした。彼女はどこに動いても、よほど無茶な位置でなければ必ず目を合わせにきた。いっそ必死なまでに。しかし、数度頷きながら発せられた彼の声からは表情からも精巧さだけを見ているのだとわかる無慈悲なもので。

 つまりは彼には情緒というものが全くもって足りていなかった。膝についた埃を払いながら本当に踵を返した彼の後ろで少女が深く眠りに落ちる音がした。

 個人の邸宅にあるには手の混みすぎたように見える人形は、高萩が立ち去ってもなお、美しくそこにあり続けていた。

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