高萩一の休日

さゆり

プロローグ

 テケリ・リ。


 陸の孤島、森の洋館。

 ただ友の家に遊びに来ただけのはずだった。

 ここに実験施設がある事も、あの山のようにいた人形たちも。

 全てが高萩の理解を超えていた。

 水槽に閉じ込められたナニかのおぞましい鳴き声がする。

 この館の持ち主こと友人は見当たらない。ここは、


 てケリ・り


――――――――――――――――――


 前日、昼過ぎ。


 高萩は自然豊かな山の森、その奥にある陸の孤島の洋館、西園寺邸に向けて車を走らせていた。

 車に驚いたリスがするりと木の洞へと隠れる。

 もしここで車を止たのなら、香りたつ湿った土と緑の匂い、谷底からの川の流れる音や微かな滝の音と虫の声を聴き、湿った空気や生き物の気配を感じることが出来るだろう。

 車体を枝が撫でる音が響き渡った。

「チッ、 あぁ、クッソ……。」

 ――車体に傷ができる……。

 イライラタバコの煙を吐く運転手は美しい自然の風景に視線すら向けない。オールバックで鋭い雰囲気の24歳、探偵。名前は高萩一。彼は子どもの頃からの夢を叶えた日本人には珍しいタイプの人間だった。

 ハードボイルドで少し抜けた探偵をテレビ画面の向こうに見たその時からその仕事に憧れ、アルバイトを経てそのまま続けている。……とは言っても、彼のしている探偵業は物語の中の名探偵には程遠く、頭脳労働など殆どない現実的な肉体労働の探偵だった。

 浮気の調査に張り込み尾行がメインの仕事。むしろ普段は上司の方針で探偵ではなく便利屋のようなことをしている。

 とはいえ、「子供の頃の夢は期待外れだと思うところまでが夢なんだ。」と嘯きながらその職についてもう5年が経過した。本人は認めやしないが、彼が自分の仕事に満足していることはその行動から見て取れる。

 彼はどこか草臥れた印象のある男前で、黒味の強い、カーキの混ざった髪と瞳が印象的だった。その整った顔の中央に消せない傷が横たわっており、傷ができる前はどれほど魅力的だったのか見る人の想像を掻き立てる。仕事でつくったその傷は彼にワイルドな印象を与えた。

 ――ただの浮気の調査が顔に消えない傷を貼り付ける大事になったのは刃物を持って暴れ回る依頼人の恋人のストーカーのせいだった。何を勘違いしたのか恋人殿と高萩が付き合ってるのかと暴れ出し、刃物を振り回したその男は今も警察のお世話になっている事だろう。

 その時助かったのは学生の頃から鍛えてきた柔道と、目の前の男が何かをやらかすと叫ぶ勘のおかげだった。この二つに助けられるのは、くだんの事件でついに八度目になる。

 現実主義でありたい高萩に逆らう、鋭すぎる直感に振り回されてかれこれ二十余年。従わないと酷い目に遭うのになんの根拠もないなんてどうかしている。頭が痛い。


 高萩はふと浮かんだその時の、もう一年も前になる不愉快な記憶を頭を振って追い出し、タバコを持った手の親指で額を掻きながら本日の予定に意識を逸らした。不健康な白灰の煙にため息が混ざる。

 彼の今回の行き先の西園寺邸は友人、多比良千歳の邸宅だった。後部座席をよく見るといくつかの荷物にのし掛かられた大きめの鞄が潰されている。

 多比良は鮮やかな茶色い髪の印象的な、顔の整った穏やかな男だ。ボランティアには精を出し、芸術家には支援をし、募金は欠かさない上にお人好し。“流行り物よりより良いもの”を信条にしている為にセンスもいい。だがどうにも話し方と顔が胡散臭く、初対面からの評価はその見た目と性格、社会地位に比べてどうにも低い。それすらも、「いいよ」「しかたないなぁ」と笑って許すから割りを食う。そんな多比良だからこそ高萩も口には出さないが、心から信頼していた。

 彼らは数年来、学生時代からの友人で、ねじれの位置にいるように趣味は交差しないが、逆にそれが故に二人の関係はうまく回っていく。そんな関係だった。少なくとも高萩は多比良が持ってきた面倒ごとに巻き込まれたことはない。

 因みに交差しない趣味の一つで、彼は『美しい』に分類されるものへの関心が強く、高萩が怪我をすると渋い顔をすると言う癖がある。それが高萩には非常に面倒で仕方がない。今回は今までとは異なり、顔面に大きな傷を作ったのだ、ひどく何某かを言ってくることは分かりきっている。


「……。」


――あぁ、面倒だ……。クソ、既に帰りたい。

 切り替えた思考も高萩には都合が悪く、頭がずくずく痛む。それでも帰るわけにはいかない。

 高萩と多比良が会うのはもう一年弱ぶりになる。毎度多比良が怪我をするたびに気落ちした様子で気をつけるよう言ってくるのが面倒で、次の訪問を傷が消えるまで消えるまでと先延ばしにしているうちに前回からかなりの時が経っていたのが原因だ。

 ……傷は消えないどころがデカデカと顔の中央に居座っているし、何も言わなかったことを怒っているであろうということは招待の連絡に滲み出ており、明らかに悪手だったことは言うまでもない。

 その怒りの滲み出る今回の招待の名目は家を継いだことと、遺産相続のゴタゴタが落ち着いたことだったが、真意は純粋な心配とそもそも顔に傷を作ったことへの説教のためのものだろうと予想ができる。が、今回の件をそれらの回避の為に顔面、それもど真ん中に大怪我をしたことすら連絡をしなかったのだから、高萩に非があった。多比良の怒りの限界が越えそうなタイミングで何度か生存報告の連絡はしたが、半ば蒸発したような友の態度に彼が怒るのも妥当だろう。

 後一年も逃げれば多比良の怒りも収まるだろうが、縁を切られかねない。既に怪我を知ってすぐであろうタイミングに来た一度目の連絡から数月にわたって逃げ回った結果、最新の手紙にはいい加減こちらから出向かなければ白墨事務所にBMWを乗りつけられると察せざるおえない追伸まで付いていたのだから始末ない。逃げ道もない。

 その時にはメイドの彼女も付いてくる事になるのであろうし、二人はひどく目立つが故にご近所の噂を全て掻っ攫う羽目になるし、上司には指を刺して笑われる。……どうやったのか報告前から事情を把握している上司に申請する前からにやにや長期の休暇を与えられた高萩の今回の訪問は、諦めの意味合いを含んでいた。……もちろん、自分が悪いことは理解しているが故の妥協である。ちなみに上司が人間でないことを高萩はかれこれ十年近く疑っている。


「ふぅーーー…………。っと、」


 息を吐きながら燃え残った灰を灰皿に落としていると、前日の雨の名残がどでかい音を立てて車の屋根を叩くのに眉を顰めた。

 高萩の黒のミニバンは後部に凹みのある型落ちした中古車だった。安っぽいシートな上に硬く、中は購入時には既に染み付いていたタバコの臭いと車独特の匂いとが混ざりあった、なんとも言えない臭いまで充満していてどこか煙たい。この悪臭を前に無臭の消臭剤はひどく無力であり、香りのあるものを使うよりは幾分マシ程度でしかない。その上、車内はトランクから溢れた荷物が後部座席を侵食しており、青い大きなビニールシート、なんのためのものか見当もつかないホワイトボードに、バケツ。工具箱の中からカチカチとトンカチとドライバーが触れ合う音がする。ここを倉庫の代わりにしているらしい。

 ただでさえ数ある車の中でも最悪の部類にも関わらず、整備されているとはいえ山道のせいか、安っぽい車はガタガタと激しく揺れるのだから手がつけられない。もう幾度となく通った道だが、悪路のせいか車のせいか、相も変わらず長く感じる。

 三半規管が弱ければ倒れることも請け合いの最悪の行程だ。

 ――……、屋敷に着いてしまえば美人のメイドが綺麗に整えた部屋、高級で柔らかなベッド、清潔感のある香り、静かな部屋。居心地の良い空間が作られている。

 高萩はそう自分を言い聞かせる。しかし、その努力も虚しく相も変わらず道行は酷いものに変わりなく、結局彼は不機嫌そうにタバコをふかし、八つ当たりにフィルターを強く噛んだ。居心地の良い部屋をどんなに強く想っても、車の窓をパシパシ木の枝が撫でることが気になった。帰りも同じ道を通るのだ。

「………………」

 口を開いただけの、音もなくはいた息が白くよどむ。何を考えるでもなくタバコを味わいながら車を走らせる。

 道にまで取り出した長い木の枝が車内に響き渡る様な音量で車の外装を叩いた。

「ふー……。」

 怒りのこもったため息。

 短くなったタバコを備え付けの灰皿に押し付ける。

 ……高萩はもともと表情の薄い男だが、顔の中央に横たわる大きな傷が出来てから威圧感が増していた。車内がイライラした空気で満ちる。最悪に最悪をかけて最悪をトッピングしたこの車に同乗したいものはいない。

 車に傷がつく前にさっさと過ぎてしまおうと少し強めにアクセルを押し込んだ。

 運転の片手間に箱を軽く揺らして新しいタバコを口に咥え、手にひどく馴染むそれを手に取った。


ッキィーン、ボッ、

       ……ジジッ、

「ッフーーーーー」


 高萩がジッポで火をつける。他の持ち物から比べて明らかに高級なゴールドのジッポ。蓋を開き、炎が付く際の音の響きは耳触りがひどく良い。

 数年前に多比良を救った礼に貰ったものだった。

 ベビースモーカーの高萩は常にそれと安物のライターの二本を持ち歩いている。この車内の荷物置きにも、安物の100円ライターと、ジッポの補充オイル、予備のタバコが無造作に置かれていた。

 高萩の不満は白い煙になって窓の外に捨てられていく。

 少し気力が戻る。目的地は近い。


 彼は崖を尻目に森の中を駆け抜けた。

 久々に会う友人、多比良 千歳、そしてメイドの美女、長谷川 百合子を思い浮かべながら。

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