ラベルを剥ぐ

桜枝 巧

ラベルを剥ぐ

 人の細胞は、遅くても約二百日で入れ替わるという。

 そんな雑学は、どの場所でもどこかで一度は流行っていて、一定期間が過ぎると最早聞き飽きたものになってしまう。

 ついでに言えば、脳皮質の神経細胞などは一生変わることは無いのだから、どうしようもない。

 また、その手のことをまとめて自慢げに話すと、「面倒くさい人なのだな」と思われる。

 ーーそして私は、実際に面倒くさいやつだと思われてしまったらしかった。

 初めてのバイトの飲み会の席で披露した雑学は、思っていた以上に場を白けさせるものになった。

 しん、と静まり返った一瞬を思い返すと、自身をくしゃくしゃに丸めて捨ててしまいたくなる。

 せっかく、バイト仲間たちが好みそうな、ゆるふわ系の服で揃えたというのに、それも無駄になった。

「あ゛あ゛あ゛ぁ……」

 アルコールによる酩酊感は、既に冬の夜風に吹き飛ばされてしまっていた。

 二次会には当然参加しなかった。出す顔も余裕もなく、ただ商店街を酔った風の足取りで歩き回る。

 仲良く出来そうなバイト仲間の中に、大学の同級生がいた事があまりに辛かった。

 元から深い繋がりがあった訳では無いが、無関係のまま残りの大学生活を過ごせる間柄でもなかった。月曜からの講義の受け方が、全くもってわからない。

 飲み屋の多い商店街は、もうすぐ時計の短針がてっぺんを回りそうだと言うのに騒がしい。私と同じような酔っ払いもどきや、何事かを叫ぶサラリーマン、洒落た短めのスカートを纏った子たちが、ふらふらと歩行者天国でダンスを踊っている。道の傍では、アコースティック・ギターをかき鳴らす二人組は、それに合わせて謎の歌を繰り広げている。

 剥ぎたい、と思った。

 今なら、久しぶりにできそうな気がした。


 スマートフォンで速攻で調べて突貫したビジネス・ホテルの一室は、酷く狭かった。

 ベッドがひとつとテーブルがひとつ、ギリギリ入るくらいの部屋に、リラックス要素なんて料金に含まれていません、と言わんばかりのシャワールーム。

 薄いグリーンの壁紙はやや黄ばんでいるし、テーブルはガタついている。

 それでもチェック・インできただけマシだろう。

 本当は終バスで帰るつもりだったから、直ぐに現れた部屋は何よりもすばらしいお城に見えた。

 空調を最大にして、部屋を温める。

 テーブルにコンビニの袋を放り投げれば、一夜の寝床の完成だ。水平になっていないのか、菓子パンが袋から転げ出た。

 きついパンプスも、可愛くキメたゆるふわ系の服も、星型のピアスも剥ぎ取って、シャワーを浴びる。温度設定を間違えたのか、やたらと熱かったが、関係なかった。

 適当に水滴を拭き取って、何も身に纏うこと無く即座にベットに飛び込む。

「あ゛あ゛あ゛あ゛……」

 怪獣のうめき声みたいな音を出しながら、狭いその上を転がりまくった。剥ぎ取るには、まず、最もはぎ取りにくい上辺の感情を押し出してしまわなければならなかった。

 自分を剥ぐことができる、ということに気がついたのは、高校生の時だった。

 しょうもないヤツにフラれて、しょうもなくヤケになったとき、私はそれを初めて剥ぎ取った。

 親指を人差し指で引っ掻く癖があり、そこで気がついたのだった。

 剥けやすいのは、右足の爪先だ。シャワーを浴びて多少柔らかくなった親指の爪を引っ掻いていると、薄皮が剥けるように半透明なそれが現れる。

 皮というには少し分厚くて、肉と言うには薄い。他に呼びようもなく、私はた「それ」と呼んでいた。

 そこで急に引っ張るとちぎれてしまうから、引っ掻き続ける。徐々にその半透明のそれを己から引き剥がす。

 膝あたりまで来れば、後は勢いでなんとかなるものだ。私はむんずとそれを掴むと、一気に引き上げた。

 音はしない。血が流れることも無い。ただ、蛇が脱皮するように、自分を剥がしていく。

 腰あたりまで剥がしたところで、左脚に取り掛かる。左の親指のそれは、右足より剥がしにくいのだ。脆いし、直ぐにちぎれてしまう。

 左の人差し指で足を引っ掻きながら、右手でコンビニの袋を探る。取り出したペットボトルを開ければ、炭酸の情けない音がした。

 零さないように、そっと口をつける。甘ったるいサイダーが喉元を掠めていく。喉が焼ける。

 この感覚もまた、最終的には剥ぎ取ってしまうのだけれど、今の私は炭酸が好きだった。

 甘くて、透き通っていて、無垢な感じが、可愛らしいと思った。その癖、喉を痛めに来るのだから、堪らないのだ。

 高三の頃の私は、炭酸なんて飲めたものじゃない、と思っていた。お陰で炭酸好きの友人とは話が合わず、四苦八苦したものだった。

 しかし、それはもう剥ぎ取ってしまった感覚だったから、薄ぼんやりとしか思い出せない。

 次の私が、炭酸のことをどう思うのかは分からなかった。

 どうでも良いことでも、あった。

 脱皮、と言えば分かりやすいが、他の生物のようにどこかの器官が大きくなるわけではない。

 単に、表面上の自分が剥ぎ取られるだけだ。どんな食べ物か好きだとか、どういう風に話すのが好きだとか、誰が好きだとか。

 左脚の半透明がめくれていく。徐々に、内側の私がでてくる。自覚はないが、少しずつ、自分が削られていっている。

 壁が薄いのか、隣の部屋からはテレビの音が聞こえてくる。その密かな喧騒は、先程まで歩いていた商店街と似ていて、なんだか腹立たしかった。

 皮のようなそれを剥いだ直後の足は、赤ん坊のようにふにゃふにゃしている。触ると手垢が付いてしまいそうだから、白いシーツの上に投げ出したままにする。感覚はいつも通りで、ただ何かが違うことがわかる。今ある足先は、何も知らない、何にも染まっていないそれなのだ。

 半透明の私が剥がれていく度に、何かを忘れていっているようだった。だが、私にはそれが分からない。

 ただ、剥ぎ終えた時、いいようもない喪失感と多幸感に襲われる。今、私は生まれ出たのだと、そんな感覚があるのだ。

 腹まで剥ぎ切った頃には、指先が固くなり始めていた。蝉の羽根が硬化していくように、この部屋に馴染んでいく。

 数時間後には元の硬い皮膚に戻ってしまうのだから、なんだか勿体なかった。

 脇の付け根まで剥いで、右手と左手を交互に剥がしていく。元のそれが皮膚に残らないように、丁寧に、ゆっくりと作業をする。

 薄い手袋を脱いでいるようだ、と思う。

 炭酸はもう、飲めなくなっていた。否、恐らく慣れれば飲めるんだろう。ただ、今の私は、まだ飲みたくなかった。何も無い状態の自分を、もう少しだけ味わいたかった。

 首の根元まで来た。

 私はそこで一度手を止めると、半透明のそれをぼんやりと眺めた。

 鼻を噛んだティッシュのようなそれが、マフラーみたいに巻きついている。あるいは首輪だ。

 分かっているか、と私に問いかける。

 分かっているとも、と私は答える。

 何度やったところで、私の本質は変わらない。

 不必要なところで不必要なことを言い、どんなに取り繕ったところで他人を恐れる。びくびくしながらものを語り、人から疎まれる。

 そうして、私はいつかまた、私を剥ぐ。

 やり方を変える。

 服装を変え、言葉遣いを変え、好みを変える。

 それでも、私は変わらないのだ。

 分かっているか、と、私は問う。

「……分かっているよ」

 呟いた声は、何度剥ぎ取ろうとも、私のものだった。

 頭を首からもぎ取るように、半透明のそれを掴む。Tシャツを脱ぐ要領で、思い切り上に引っ張った。

 この時だけは、チリッとした痛みがある。

 それは、一瞬だけだった。

 気がついた時、数時間前までの私は、ただの皮となって丸まっていた。

 頭がぼんやりとしている。飲み会に出たことは覚えている。そこでやらかしたことも、はっきりと覚えている。

 だが、それは薄皮一枚隔てたように、酷く他人事に思えた。

 テーブルを見ると、甘ったるい菓子パンと、同じくらい甘ったるそうなサイダーが置いてある。

 そうだ、と思いつく。

 甘いのはあまり好きではないことにしよう。

 お酒に炭酸が入っているものも多いから、炭酸そのものは飲めることにする。だが、サイダーなんてナンセンスだ。無垢さを狙ったところで、面白いことは何も無かった。

 私は剥ぎ取ったそれを、部屋の隅にあったゴミ箱に捨てた。小さく丸めてしまったから、一見単なるビニル袋に見えるだろう。

 ものを大事にしないやつは嫌われるから、仕方がなくペットボトルの蓋を緩める。

 口をつけたものの、好みの味では無かった。あまりに甘過ぎたし、炭酸は半分ほど抜けてしまっていた。

 飲み干してから、丁寧にラベルを剥ぐ。丸裸にされたそれは、最早何の飲み物かわからなくなった。

「……なんでこんなの買っちゃったかな」

 私は一言呟くと、ペットボトルをゴミ箱に捨てた。

 

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