12月22日(水)12:35 〈乃愛は戸惑い、〉

 ショーウィンドウの後ろ側から見える景色は、いつも代わり映えしない。

店の前を通り過ぎていく人々。お菓子やケーキを楽しそうに選ぶ子ども。忙しなくパンを買っていく大人たち……。

好きで続けているバイトだけど、慣れてしまえば退屈な時もある。

けれど2か月前から、乃愛の単調な仕事の中に、心が弾む瞬間が訪れるようになった。

そして、彼が来る日、来るはずの時間を――

心待ちにしている自分に気づいた。



先週の土曜日。

この日は、彼が来るか不安だった。でも来てくれたことに安心して、嬉しくなって。よせばいいのに自分のことを意識して欲しくて、つい欲が出た。気づかいに見せかけて、メッセージカードとお茶なんか渡してしまって。そのくせ、後で「やりすぎたかも」と心配になった。いきなり飲み物もらうとか、気持ち悪がられてもおかしくないだろうと。


けれど、その2日後の月曜日。彼はまた来てくれた。

この日は常連さんにクリスマスの…彼氏のことを訊かれて、ついその場にいた彼の方を見てしまった。そしたら目が合って、彼もこっちを気にしているのがわかって。だから、自分でも驚くような賭けにでた。「今がチャンスかもしれない」と思ったら、どんどん気持ちが零れ出て……。


本当は、あんなに伝えるつもりはなかった。

けれど、


『店員さんはすごく素敵な人です』。


彼にそう言ってもらえた時。これはもう、「今しかない」と思って――


――『そしたら、わたしはあなたと一緒に……』


最後に、もう一歩。踏み出してしまえと思った。

それなのに。突然、彼はそれ以上の話を避けるように、店を出て行ってしまった。

「客と店員」という一線を越えたくないと。そう言われたような気がした。そこでやっと気づいた。私はまた1人で突っ走って、失敗してしまったのだと。

けれど今さら後悔しても仕方ない。

自分が彼を好きな以上、きっとどの道こうなっていたのだ。


(だって彼と私を繋ぐものは、この店しかないのだから。)



* * *


今日は水曜日。それなのに、お昼前のいつもの時間に、彼は現れなかった。

12時を過ぎたら、近隣の住人や学生がお昼用のパンを買いに来る。

どんどん賑わっていく店内。そこに彼の姿はない。


(――もう、来ないのかな)


そう心の片隅で思いながら、乃愛は増えていくお客さんに積極的に声をかけていく。

忙しくしていれば、悲しくならずに済む。だから出来る限り、彼のことを考えないように仕事に集中する。

それなのに。

ここに来て、彼がゆっくり店の扉を開けて入ってきた。いつもみたいに、軽く会釈をして。

人が多い時間帯に来たことなんて、ほとんど無かったのに。


「いらっしゃいませ」


乃愛は形式的に声をかける。すぐに目が合って、そして逸らされた。

その動作だけで、一昨日より…いや、今まで一番、彼との距離が遠くなった気がした。


(そんな風に目を逸らすなら、どうしてまた来たの?)


悲しさの奥底で、小さな怒りが芽生えてしまう。

極力彼の方を見ないように、乃愛は他の客に対応する。欲しいものがあるなら、私じゃない店員に言えばいい。そう思った。

しかし彼はわざわざ乃愛の接客の合間をみて、声をかけてきた。


「…ミニクグロフ、1つください」

「本日はショコラとレモンがございますが」

「じゃあ、ショコラで」

「かしこまりました」


前はあんなに嬉しかったやりとりなのに、今日はどうしてもそっけなくなってしまう。目も合わせられない。それに彼も、私の方を見ていない。

乃愛は淡々と袋にクグロフを入れて、金額をレジに打ち込む。


「280円になります」

「あの、この前はありがとうございました。…その、土曜日は」

「…いえ、お気になさらず」


まさか、驚いた。ここに来て、彼の方からその話をしてくるとは思わなかった。

けれど他の客がいる手前、堂々とこの間のことを話すわけにもいかない。表面的な、店員と客のやり取りの中にとどめる。

そして、思い知らされる。これが自分と彼の距離感の、限界なのだと。


――『そしたら、少しは…期待してもいいんでしょうか』


不意に、一昨日自分が言った台詞が、乃愛の頭の中に浮かんでしまった。恥ずかしくて辛くなる。

でも彼はこの言葉を、一体どう受け取ったんだろう。


(話の途中で出て行ってしまったのに、今日こうして来たのはどうして?)


けれど、そんなこと訊く勇気は全くない。たとえ勇気があっても、訊ける立場じゃない。

だから乃愛は、きっと彼とこれ以上の会話はないと思うことにした。

しかし彼は財布を取り出しながら、小声でぎこちなく喋りだす。


「それと…あれから、どうなりましたか?金曜日は」


(――どうしてそんなことを訊くんですか?)


まるで他人事みたいに。そう言いそうになったが、咄嗟に飲み込んだ。きっと自分が傷つくだけだ。

その代わりできるだけ冷静に、静かな声で返事をする。


「…どうにもなっていませんよ」

「そうですか」


彼は少し残念そうにそう言うと、財布から280円ぴったり取り出して、トレーの上に置いた。

そして、お金の他にもう一つ。小さな水色の封筒も。


「あの…もしよければ、受け取ってください。土曜日のお礼ということで…」

「えっと、これは?」

「大したものじゃないんです、全然。元々貰い物ですし。でも僕にはもう、必要がなくなってしまったというか…。だから店員さんに使ってもらえたら、その…一番いいかなって。それじゃあ、また」


不器用に、何度も口ごもりながらそう言って、彼は乃愛に背を向けた。そのまま振り返らずに、店を出て行く。

彼の背中が、何故か悲し気に見えた。けれど他の客の存在を気にしないわけにもいかず、乃愛は呼び止められなかった。


「加藤さん、ちょっとだけレジお願いします。すぐに戻ります」


その代わり。乃愛は彼が置いていった封筒をさっと手に取り隠すと、客から見えない店の奥に移動した。

心臓が脈打っている。さっきまでの苛立ちは、妙な緊張感に変わっていた。

裏に貼られていた雪だるまのシールを丁寧に剥がし、封を開ける。

中には、3枚の紙が入っていた。


「……どうして」


動揺が、自然と乃愛の口からこぼれ出る。

中には、3枚の紙が入っていた。

その内の2枚は、全く同じものだ。クリスマスイベントを開催している、近所の水族館のナイトチケットの招待券。日付の指定は、24日の金曜日。

そしてもう1枚は、封筒と同じ水色の小さなカード。

そこには、


『いつもありがとうございます。僕は事情で行けなくなってしまったので、お譲りします。24日、応援しています』


男性らしい角ばった、けれどとても丁寧な字で、そう書かれていた。

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