12月21日(火)20:00 〈朝飛は傷つけたくない。〉
一昨日は、少し苦い思いをした。
けれど、よかった。初めて夕梨とちゃんと話せたから。
……そう思ったはずなのに。
夕梨の様子が、ますますおかしいことになるなんて。
毎週火曜日、朝飛と夕梨は同じ時間帯のシフトに入っている。
17時半から、店のクローズまで。
この時間は、店の営業形態がカフェからダイニングレストランに代わる。2人とも基本はホールスタッフなので、オーダーをとったり飲み物を作ったりが中心だ。
当然アルコール類も出るので、そういう面では昼間の時間帯よりも賑やかだし、忙しない。
ゆえに朝飛は、今日が火曜日で良かったと思っていた。ここは平日の夜でもわりと客が入る店だが、週末に比べたらずっと少ない。
もし今日が週末だったらと思うと…朝飛は気が気じゃなかっただろう。
それほどまでに、今日の夕梨はどこか危なっかしかった。
まったく余裕がなくて、どこか“心ここに在らず”だ。どうやら夕梨の意識は、仕事ではないどこか違う方に向いているらしい。時々ぼんやりしている時があるかと思えば、挙動もちょっと怪しい。
声をかけられても、しばらく気づかなかったり。
テーブルや壁に何度もぶつかりそうになったり。
「小エビのサラダ」を、「小指のサラダ」と言い間違えたり。
どれも大きいミスじゃないからまだ良いが、全く普段の夕梨らしくない。
こんな彼女は、今まで見たことがなかった。
(……普通に心配だろ。これは。)
かれこれ2時間以上、朝飛はずっと夕梨が気がかりだった。それでも今まで忙しくてあまり身動きが取れなかったが、やっと客からのオーダーもある程度落ち着いてきた。この機を逃すまいと、朝飛はバーカウンターの方に戻ってきていた夕梨に近寄る。
真顔で、凛とした立ち姿。こうして見ると、いつもの夕梨なのだが。
「なあ、夕梨」
彼女の横に立ち、声をかける。しかし返事はない。
「……夕梨」
もう一度声をかける。今度は肩を軽く叩いた。すると夕梨の体が跳ね、朝飛を見て目を丸くする。どうやら今初めて、朝飛が隣にいたことに気づいたようだ。
「朝飛くん。ごめんね、ぼーっとしてて」
「別にいい。それより大丈夫か。もし調子でも悪いなら…」
「そんな、なんともないよ。いつも通り」
静かに淡々と、夕梨はそう答えた。表情からは、どんな感情もうかがえない。
他の奴なら「いつも通りの夕梨だ」と思うだろう。しかし、いつだって夕梨の些細な表情の変化を、少しでも見逃さないようにしてきた朝飛は気づいてしまった。
――夕梨が焦っていることに。おそらく、何かをごまかそうとしていることしていることに。
それなのに、朝飛は咄嗟に言葉が出てこなかった。
こういう時になんて言うのが正解なのか、わからない。
彼女の気持ちを尊重するなら、気づかない振りをするべきなのだろうか。
それとも……
「私、空いた16番テーブル片付けてくるね」
だが、夕梨は行ってしまった。苦い顔をしたままの朝飛を置いて。
釈然としない気持ちを抱えたまま、朝飛は仕事に戻った。
オーダーを受けて、ドリンクを作りはじめる。しかしどうしても夕梨の方が気になってしまう。
ちらりと目を向けると、夕梨はテーブルを片付けるだけの作業ですら、変に手際が悪かった。トレーに皿やグラスを乗せていくが…そんな風に乗せたら、バランスが悪いんじゃないか。
不意に嫌な予感がして、朝飛は急いでドリンクを作り終えると、客のところに運んだ。そのまますぐにカウンターに戻る。
(今日の夕梨からは、あまり目を離していたくない。)
キッチンに皿を下げるためには、カウンターバーの横を通る必要がある。ちょうどそこには小さな段差があるのだが……
「あっ」
夕梨の微かな声が聞こえた。
普通なら踏み外しようもないくらいの小さな段差だ。それなのに、夕梨は見事にバランスを崩したようで――
声がした瞬間、朝飛は急いで夕梨に駆け寄った。トレーを左手で引き受け、夕梨の体ごと抱きかかえるように支える。
ガシャリ、というガラスのこすれる音に肝が冷える。しかし食器はトレーから落ちることはなく、全て無事だった。
「ごめんなさい…ありがとう」
放心したように夕梨が言う。
大事にならなくて、夕梨のことも守れてよかった。そう思って安心したせいか気が抜けて、朝飛は「はぁ」と息を漏らした。腕の中で、夕梨が微かに震える。
「やっぱり体調、悪いんじゃないのか」
そう言って夕梨からトレーを受け取り、彼女がしっかり立っていることを確認してから朝飛は体を離した。
だが心配が先だって、つい厳しい口調になってしまったせいか…夕梨は少し下を向いたまま、朝飛と目を合わせない。
「そんなことない。ちょっと躓いただけで」
「本当に?」
「本当に…大丈夫」
頑なな夕梨。朝飛の中で釈然としない気持ちが募る。
全然いつも通りには見えないのに……
そう思うと、彼女に突き放されたようにさえ感じてしまう。
「…ホールは俺と他の奴でまわすから、夕梨はカウンターにいてくれ」
別に怒ってるわけじゃない。その方が、あまり動かないで良い分安心だと思ったからだ。
けれどそれは伝えずに、朝飛は夕梨の手から注文伝票の挟まったクリップボードをさっと抜き取った。
必然的に、夕梨の左手に触れる。
「……その手、どうした?」
しかし、その時に見えてしまった。夕梨の左手の親指と中指には、数か所の絆創膏が巻かれている。日曜日に会った時は、そんなケガ無かったのに。
すると夕梨は、咄嗟に右手で包むようにして左手の指を隠した。まるで、「見られたくなかった」と言わんばかりに。
「これはちょっと、家で細かい作業してて…その時に」
そして夕梨は、両手を体の後ろに隠した。
そんな夕梨のしぐさに、朝飛は傷つきにも似た感覚を覚える。
…ただのケガなら、そんな風に隠す必要はあるだろうか。
「夕梨、俺は――」
「すみませーん、注文お願いしまーす!」
朝飛にとっては最高に間の悪いタイミングで、客から大きな声で呼ばれてしまった。
「はい、おうかがいします」
夕梨がほっとしたように、客の声にいち早く反応する。そして朝飛の手からクリップボードを抜き取ると、そのまま早足でホールに出てしまった。
朝飛は1人、カウンターに残される。
(――俺は、夕梨にとってそんなに頼りないんだろうか。)
自分の思いがうまく伝わらないことが、どんなに虚しいか。
相手に何も言ってもらえないことで、どんなに不安になるか。
初めて、朝飛は分かった気がした。
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