12月18日(土)13:40 〈湊は翻弄されて、〉
絶対に。確実に。どうあがいても間違いなく。
――終わった。短い片思いだった。
3日前。絶望感に吞み込まれた水曜日。
パティスリーからの帰り道。電車のドアにもたれかかりながら、湊は朝飛に『だめだった。相談乗ってくれたのにごめん』と短いメッセージを送った。悪い結果に終わってしまったが、協力してくれた幼馴染には、ちゃんと報告しておかねばと思った。
そうして、ただ茫然と外を眺めていた。音楽を聴く気にもなれなかった。
意外にも、まだ悲しいとか辛いという感情はなく…ただ、「終わってしまった」という虚無感だけ。
いや。正確には、始まりすらしなかったのだが。
そうしてしばらくぼんやりしていたら、朝飛から返事がきた。
きっと慰めや励ましの言葉だろう、朝飛はなんだかんだ優しいから。けど今はまだ「ありがとう」も「大丈夫」も心から言えそうにないな……。
そんなことを考えながら、湊はメッセージアプリを開いた。
朝飛からの返事は、『わかった。で、何があった?』だった。
予想外の文面だった。わかった、だけなんて案外冷たいな…と思いつつ、湊はパティスリーでのことを簡単に書いて送った。
“予定通り彼女にクリスマスの予定を聞くことはできたけれど、そうしたらすごく嬉しそうな笑顔で「24日はお休みをいただくことができたんです」と言われて、これはもう彼氏との予定なんだろうなって感じで、自分は遠回しに敬遠されたんだと思う”……と。
すると朝飛は文面で『はあ……』とため息をつき、『それはお前の想像だろ』と、湊の解釈を見事に一蹴した。
しかもその上、『で、お前はその程度のことで諦めるのか』と煽ってきたのだ。
『その程度のこと?朝飛にとってはそうかもしれないけど、僕にはそうじゃない』
湊も、つい嚙みつくように返事を送った。虚無感なんて気づけばふっとんでいた。
そしてすぐに朝飛からの返事が来て――
そこから先は、早かった。
『落ち着け、冷静に考えろよ。クリスマスイブが休みで喜んでたってだけで、彼氏がいると決めつけるのはどうかと思う』
『でも、彼女は本当に嬉しそうだったんだよ』
『休みが嬉しくない奴はいないだろ』
『それはそうだけど、ちょっと乱暴じゃない?』
『何がだよ。イブが休み、イコール彼氏がいるって決めつけるほうが余程乱暴だろ。あと、実際にイブに予定があるって聞いたのか?』
『……聞いてない』
『それはよかったな、まだ諦めなくていい理由が残ってて』
『つまり……予定を確かめにもう1回行けって?』
『お前次第だけどな。後悔したくないなら頑張れ』。
朝飛にそう言われ、湊はそれ以上返事ができなかった。
* * *
そうして、今日。
湊は彼女のいるパティスリーのすぐ近くまで来ていた。もう、歩いて1,2分の距離だ。
いろいろ思うところはあったが…水曜日、朝飛にメッセージを送ってよかった。あの日はもう絶望的でどうしようもないと思っていたけど、一歩離れたところから厳しく言われたことで冷静になれた。
曖昧で中途半端な理由で諦めたら、あとで絶対自分を許せなくなる。
…とはいえ、そんなこんなで数日間大学の課題が全く手につかなかったせいで、金曜日は図書館から出られず彼女に会いに行けなかった。そのうえ、結局今日の朝まで徹夜をする羽目になったのだから、どうしようもなく自分が情けない。
それでも、なんとか課題は提出できた。けれど、彼女と話す心の準備は間に合わなかった。
今日はどういう風に話しかければいいか。普通に挨拶してもよいものか…。
そんなことで頭を悩ませているうちに、あっという間にパティスリーの前まで来てしまった。
(落ち着け、大丈夫だ、どうにかなる…たぶん。それに今日は土曜日だから、彼女はいないかもしれないし…いや、いて欲しいんだけど…って、そうじゃないだろ。落ち着け、余計なことは考えるな)
騒がしい心を落ち着かせるように、ふう、と息を吐く。そして心を決めて、湊はパティスリーの扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
すぐに、女性の高い声で迎い入れられる。彼女ではない…別の店員さんが、ショーウィンドウの後ろに立っていた。
彼女はいない日だったか…と、大きな落胆と少しの安堵が一緒に押し寄せる。けれど彼女がいないからって、何も買わずに帰るのはさすがに違うだろう。
そう思った湊が、この間彼女が勧めてくれたクグロフでも買おうと、店員さんに声をかけようとした時だった。
「こんにちはー!ねえママ、ほんとになんでも好きなの選んでいいの?」
大きな声と一緒に、子どもが5人も勢いよく入ってきた。
5歳くらいの子から、一番上は小学校3,4年生くらいだろうか。みんな「こんにちは!」と、元気に挨拶している。
続けて、「あんまり騒がないで。ケーキはお行儀よくしてる子だけ!」と、母親とらしき女性も入ってきた。
一気に店内が賑やかになる。ショーウィンドウの前は、すっかり子どもたちに占領されてしまっていた。
楽しそうにケーキを選ぶ子供たちの間に入るのも気が引けて、湊は一歩後ろに下がる。
すると店内がにぎやかになったのを聞きつけてか、店の奥からもう1人、店員さんが出てきた。
―――彼女だ。
すぐに気づいた。彼女も湊の方を見て、自然と目が合う。すると彼女は少し、ほんの少しだけ、驚いたような顔をした気がした。
そして彼女はそのまま、ショーウィンドウの向こう側から店のフロアの方に出てきて…
「いらっしゃいませ。ご注文、お決まりですか?」
湊のすぐそばに立って、声を掛けてくれた。近くで見るとさらに可愛い。
予想外の事態に、湊の心臓が激しく動き出す。
「あ、はい…この前教えてもらったチョコのクグロフ?にしようかなって…大きい方じゃなくて、小さいお菓子のみたいな方の」
「ミニクグロフ・ショコラですね、かしこまりました。…あ、でもすみません。もう少しお待ちいただいても良いですか?」
彼女はレジの方を見てからそう言った。そこでは子どもたちが、「あれがいい!」「やっぱりこっちのにする!」と、楽しそうにケーキ選びに迷っている。向こうの店員さんも忙しそうだ。
「もちろん大丈夫です、全然急いでないので…」
「ありがとうございます」
だめだ。彼女と話す絶好のチャンスのはずなのに、会話が止まってしまう。何か話題を、と湊は必死に頭を回す。
「あの、えっと…前に選んでもらったケーキ、ゼミですごく好評で…本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
そういえば、あの時のお礼もまだだった。そう思って口に出してから、湊はすぐに後悔した。もう2か月も前の事を今更言うなんて。彼女は全然覚えていないかもしれないのに。
しかしそんな湊の動揺は、嬉しいことに一瞬で終わった。
「本当ですか?良かった、お役に立てたみたいでなによりです」
そう言って、彼女が湊に微笑んでくれたのだ。
しかし覚えていてくれたことが嬉しいやら恥ずかしいやら、至近距離の彼女の笑顔に耐えられないやらで、湊は完全にキャパオーバーになった。
必死に頭を回そうとするほど、自分がポンコツになっているのが分かる。それでも何か言わなきゃと口を開いても、微妙な相槌しか出てきてくれない。
辛いが彼女も首をかしげて、心配そうな顔をしている。
「あの…もしかして、体調悪かったりしますか?」
「いや全然…大丈夫、です」
「そうですか?ちょっと…顔色が優れないように見えたので。昨日もいらっしゃらなかったし」
「えっ?あー…実はその。最近レポートとかゼミの発表準備とかが忙しくて…昨日は徹夜しちゃって」
昨日、自分が来ていなかったと彼女は気づいていたのか。
それがまた絶妙に嬉しくて、湊は見栄を張ってしまった。昨日の徹夜は、ただ課題をほったらかしにしてしまったせいなのだが。…けれど決して嘘はついていない、実際にレポートもゼミもあるから忙しい。そう自分に言い聞かせる。
彼女も、「そんなに忙しいんですね…」と、気遣う言葉をかけてくれた。
「でも、ちゃんと睡眠はとらないと体壊しちゃいますよ。この後も大学ですか?」
「いや…もう帰るだけです」
「良かった。帰ったらすぐ休んでくださいね。よく見たら目の下、クマができてますもん。…あ、そしたらちょっと待っててください。ご注文はミニクグロフでしたよね」
すると突然、彼女は何かを思いついたようにそう言って、店の奥に行ってしまった。
気づけば子どもたちもようやくケーキを選び終え、退屈しのぎに店の中をうろうろしている。対応していた店員さんも、ケーキを丁寧に箱詰めしていて忙しそうだ。
残された湊がショーウィンドウの前で待っていると、すぐに彼女が戻ってきた。何事もなかった風でミニクグロフを袋に入れて、金額をレジに打ち込む。
「280円になります。あと、これはおまけです」
金額の後の言葉は、湊にだけ聞こえるような小さな声だった。
ミニクグロフの入った袋と一緒に、ちょっとしたプレゼントのラッピングでよくありそうな、小さいピンク色の袋を一緒に渡される。
驚き戸惑いながらも、湊は2つの袋を受け取った。
「私が休憩中によく飲んでるティーバッグで…香りがよくて美味しいんです。まあ、どこでも売ってるようなやつですけどね。おすそ分けです」
「え、そんな…もらっちゃっていいんですか」
「本当はダメですよ。なので、内緒にしてくださいね?」
いたずらっぽく、小声でそう言った彼女。
そして、
「今日はそれ飲んで、ゆっくり休んでください」
そう微笑みかけてくれた彼女が、湊にはただただ天使に見えた。
「ありがとうございます」としか言えず、放心状態で店を出る。
結局クリスマスイブのことは、何にも聞けなかった。
でも今はそんなことどうでもいい。いや、どうでもよくない…?
だめだ。思いもよらなかったことが多すぎて、頭がうまく働かない。
ただひとつわかったことがある。
人は幸せなことでも、頭が真っ白になるらしい――。
湊は歩きながらぼんやりと、そんなことを思っていた。
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