第2章

第16話  走り込み




 正式に妃伽が黒い死神の弟子と認められてから数日。彼女は体力作りの為に走り込みを行っていた。街の中で走っても良かったが、人が多くて場合によっては邪魔になってしまうことと、舗装された道を走り込んでも意味が無いと判断したことから、街を出て壁外で訓練を行っていた。


 街の外に出れば、舗装された道なんてものはない。土が剥き出しであったり、石が鏤められている地面の上を走る。街の中で走っていては、いざという時に走る場所の差異に感覚が追いついてこない。なので敢えて最初から足場の悪い場所で走り込む事にした。


 初めは倒れるくらいひたすら走るだけだった。地面の凹凸に足を取られて転倒することもあったし、走りすぎて脇腹が抓られたように痛く、食べたものを吐き出しそうになったが、狩人になるためだと己を鼓舞し、走り続けた妃伽。結局走り終えると倒れてしまったが、与えられた距離を走りきることはできた。ちなみに、初回は10kmだった。




「ぜェ……ぜェ……っ!」


「この程度で疲れてどうする。モンスターとの戦いは走るだけで終わらんぞ。武器を持ちながら走り、使う。自身に優位な地形まで移動もする。今のお前の体力では、すぐに力尽きる格好の餌だ」


「わかって……はぁッ……わかってるっつーの……っ!」


「分かっているなら速度を上げろ。転倒したらスタート地点からやり直しだからな」




 洗ってもらったジャージを着て、背中にリュックを背負って走っている妃伽は、そのリュックの重さに眉間へ皺を寄せる。中には30㎏近い砂を詰めただけの袋が入っている。それを背負い、今日は少し距離が伸びた12kmを走る。片道であるので、往復だと約24kmくらいになる。


 先日10kmを倒れながらも完走したので、イケるのでは?と甘い考えを抱いていた妃伽は、いざ走ってみると死ぬほどキツいことを理解した。甘く考えていた自分が恥ずかしい。


 弟子の妃伽を走らせて、黒い死神はバイクに跨がってついてくるだけ……と思いきや、彼はリュックの中に3倍近い重りを入れて妃伽の隣を走っていた。息切れはしていない。それどころか、両手には見慣れた黒い大口径狙撃銃を持っている。それなりの重さを持っていて、腕を振れないから邪魔だし疲れるだろうに、何の苦もなく走っている。


 唇が乾いているのに額から掻く汗は大粒だ。脹ら脛も太腿も痛いし、脇腹は最早どこが痛いのかすら判らなくなっている。足場も砂利であったり固い凹凸の道だったり、木の根が剥き出しになっていたりと、足を取られそうになるところばかりだ。それに加え、今回から転倒する度に最初からやり直すと言う。


 速度は維持したままか、上げるかの2択。もし遅くなったら速度を上げるように言われ、それでも上げられなかったら尻に蹴りを入れられる。女の子だからという理由で手加減などしない、足が浮くくらいの強烈な蹴りだ。2発食らうだけで感覚が無くなってくるので、妃伽は痔にならない為に必死に速度を維持している。




 ──────体力の差がありすぎる……っ!男と女ってだけでも少しはあンだろーけど、それ抜きにしても黒い死神の体力どーなってンだよっ!?もうそろそろ折り返しくらいだろっ!?マジで速度落とさねーし息切れもしねーじゃんっ!




「──────余計なことを考えているな?」


「げッ……」


「走ること以外を考えていられるとは余裕だな。4キロ追加だ」


「ふぐっ……せ、せめて水……はぁっ……飲ませてくれッ」


「折り返しの時に休憩を挟んでやる。その時に飲むといい」


「クソッ……っ!はぁっ……はぁっ……っ!頑張れ私……っ!あと少しだァ……ッ!!」


「その意気だ」




 気配で邪念を察した黒い死神が、距離の追加を言い渡す。昨日に比べて2km伸びているのに、更に4km追加されてしまった。余計なことを考えていると、片道何kmになるか分かったものじゃないので、要らないことを考えるのをやめた。


 肩ひもの位置を整えて、反骨精神で走る速度を上げる。ヤケクソに近いが、速度を上げたことに感嘆としつつ、黒い死神も同じく速度を上げた。並走してくる彼に、いつか絶対追い抜かしてやると心の中で誓いを立てた。


 そう簡単な事ではないが、いつか必ずやってやると燃える。肩ひもが当たる肩が痛いし、足の裏も痛いのを出来うる限り無視して折り返し地点を目指した。もちろん、転んで最初からになることを細心の注意を払って回避しつつ。結局、妃伽達が折り返し地点に辿り着いたのは、それから数十分後の話だった。

























「──────げほッ……げほッ……お゙え゙ッ……」


「30㎏の重りだけでそれか。……まあ走りきっただけ良い方なのは間違いないが。ほら水だ、口をゆすいでおけ」


「はぁ……はぁ……あ、ありがと……うぷっ……」


「……仕方ない。1時間休憩にするとしよう」


「わ、わりぃ……」




 林があり、木陰で休憩を取っているのだが、妃伽は草むらに頭を突っ込んで吐いていた。朝に食べたものと胃液を吐き出して苦しそうにしている。途中で吐かなかっただけでも十分だろう。黒い死神は彼女の傍にやって来て背中を擦った。大きな手から与えられる感触に、安心と嘔吐感の2つを味わった。


 女なのに人前で吐いてしまったという考えは、最早抱かなかった。この気持ち悪さを早く解消したいという思いしかない。胃の中のものを全て出し切り、一息ついたところで水の入ったペットボトルを差し出された。掠め取るように受け取って、口の中を濯いでから飲んだ。


 乾いていた喉を潤してくれる水。喉を慣らしながら飲んで、妃伽はペットボトルの飲み口から口を離して大きく息を吐き出した。足は痛いし暑いし疲れた。まだ食道がムカムカする。何をする気にも起きなくなって寝そべるために倒れ込もうとしたところで、黒い死神が妃伽の正面にやって来て腰を下ろした。


 靴を脱がせたかと思うと、足裏からマッサージを開始した。師匠であるのに弟子のマッサージを、あの黒い死神がするのかと驚いてつい凝視していると、顔を見えなくさせているフードが妃伽の方を向いた。何となく、呆れているような視線を感じるのは気のせいだろうか。




「折角休憩を挟んでやっているんだ、酷使した脚のマッサージくらいやったらどうだ。今は動けそうにないだろうから俺がやってやるが、次からは自分でやれ」


「悪い、休むことで……んっ……頭がいっぱいだった……ふんっ……あ、そこ気持ちいい」


「揉むだけでも血行が良くなる。最初にも言っただろう」


「あー……そうだっけ……はぁ……イイ……」




 足の裏を親指で押されて刺激を与えていく黒い死神。その力加減は絶妙で、妃伽は熱い吐息を溢していた。最強の狩人にもなれば、マッサージ1つもこんなに上手いものなのかと感心してしまう。そして彼の手は足裏から脹ら脛、太腿へと登っていった。女の子の脚に触れている云々よりも、極楽気分が勝った。


 親指で押されるだけのマッサージに、ほぅ……と息を吐き出していると、気持ち良かった黒い死神のマッサージは終わってしまった。妃伽のすらりとして長い脚から彼の手が離れると、ついあっ……と声が漏れる。もっとやって欲しかったが、強請るのは違う気がして態と咳払いをして誤魔化し、同じように脚のマッサージを始めた。


 自分でやっても、別に気持ち良くない。血行が良くなっているのは何となく解るが、黒い死神が上手かったというのがよく解った。今度やり方を教えてもらおうかな……と思っていると、立ち上がった黒い死神が黒い大口径狙撃銃を構え、耳を塞いでいろと言った。反射的に両手で耳を塞ぐと、爆発音のような銃声が鈍く聞こえた。


 肩がピクリと跳ねる。何を撃ったのか解らない。ある方向に向けて撃っただけで、モンスターらしい姿は見当たらないのだ。黒い死神が大口径狙撃銃のボルトに手を掛けて引く。中から薬莢が吐き出され、草の生えた地面に落ちた。薬莢から硝煙が上がり、火薬の匂いが鼻腔を抜ける。


 妃伽の命を救った狙撃。今回は試し撃ちか何かかと思っている妃伽は、耳を塞いでいた手を外して不思議そうに彼を見た。黒い死神は少しの間撃った方向を眺めていたが、何事も無かったようにその場に座った。




「何でもない。気にするな」


「……?あーそう。てかよ、その銃の銃声デカすぎねーか?」


「特殊な火薬を使っている。弾の速度が速くなり破壊力も増すが、音でモンスターに気づかれやすい。反動も大きいというデメリットもある」


「よく使えるよな……」


「俺が使うために調整されているからな。そんなことよりマッサージはもういいのか?」


「あっ、いけね……」




 いそいそと脚のマッサージを再開した妃伽。彼女は結局、何故黒い死神が突然銃を撃ったのか分からなかった。時間は少しずつ経ち、1時間の休憩が終わって走り込みの再開がきた。次は帰るだけだと意気込み、次は吐かないようにしようと決めて走り出す妃伽と、それに続く黒い死神。






 約3km先。小型モンスターのラプノスに襲われていた新人狩人の2人組が、襲ってきたモンスターの頭が突如爆発四散する……という現象を目の当たりにした。





















「──────あいよー、アンタはワインだったよな。お待ちどー」


「巌斎さん。次はあっちのテーブルの人にお冷お願いね」


「りょーかい。……足痛ぇ……」




 黒い死神との走り込みはあっという間に終わった。いや、実際はそれなりに時間が掛かっているのだが、終わってしまうとあっという間と感じてしまうのだ。だがその日はそれで終わりではない。昼は黒い死神との修業になっているが、夜は虎徹の店でアルバイトとなっている。


 疲れている体に追い打ちのようになるが、間にはしっかりと休憩を挟んでいるので体力的には無理していない。足腰が筋肉痛で痛むが、住ませてもらい食べるものまで出してもらっている立場なので文句を言える訳が無い。


 言われたものを運んで、注文を聞いて……ウェイターとしての仕事を熟していくと、客が少なくなってきた。そもそもお得意様しか来ない店なので、忙しいと言っても激しく動き回る訳ではない。チラホラと満足した客が帰っていき、店内に誰も居なくなったのを見計らって少し休憩しようかと虎徹が提案した。


 カウンターの席に座って体をテーブルの上に倒す。はぁぁ……と深い溜め息を溢している彼女の姿を見て、虎徹はクスクスと笑った。相当黒い死神に扱かれていることは一目瞭然だからだ。




「黒い死神の修業は厳しい?」


「まだ走り込みの体力作りしかしてねーけど、チョー疲れた……」


「ふふ。狩人は体が命だからね。体力をつけるのは前提も前提だよ。頑張って」


「うぃー」


「……時に巌斎さんは、狩人になったら使いたいって武器はあるの?」


「武器かぁ……武器なァ。剣とかハンマーとか、あんまパッとしねーんだよな。もっと取り扱い簡単なヤツがいいな」


「黒い死神みたいに銃は?」


「使ったことねーし、使える気がしねぇ。てか、多分私に銃は合わねーよ」


「そっかぁ。それは残念だね。じゃあ、相手がモンスターって事を除外して、自分の中での武器って何を思い浮かべる?」


「相手がモンスターじゃないってなると……メリケンだな。地元で喧嘩する時、メリケンでぶん殴ってた」


「メリケン……ナックルダスターのことだね。巌斎さんは超近距離タイプなんだ。……そっか」


「なんでだ?体力作り始まったばっかだから、武器とかまだ使わねーぞ」


「んー?ふふ。そうかもね。ちょっと聞いてみただけだから、気にしなくていいよ」


「……?」




 絶世としか言えない美貌でニッコリと笑みを浮かべた虎徹に、妃伽は首を傾げる。まあ、黒い死神と親しい虎徹ならば、彼がどのくらいの期間を設けてから武器の扱いにシフトチェンジするのか予想がつくのだろう。こういった質問も、やって来た黒い死神に教えて今後の修業に使うのかも知れない。それなら、もっと真剣に考えるべきだったと思った。


 なので狩人になった自分が、モンスターと対峙して何の武器を使っているか想像した。良く居る剣だろうか。それとももっと重く大きい大剣か。片手剣と盾という線もあるし、槍を使う狩人も居る。音で気づかれないように弓を使う者も居るし、もしかしたら黒い死神と同じ銃を使うのもアリなのかも知れない。


 色々と候補はあれど、どれもこれもピンとこない。なんだか自分に合っている気がしないのだ。折角黒い死神の弟子になっているというのに、彼が使う銃を使う自分なんて最も想像ができない。せめて近距離で使って戦えるものじゃないと嫌だという気持ちが湧いて初めて、近接戦を望んでいることを自覚した。




「いらっしゃい。……あ、龍已。来てくれたんだね」


「あぁ。いつものを頼む」


「はーい。巌斎さん、龍已にこれお願いね」


「あ、りょーかい」




 出入口のベルが鳴った。新しい客を報せる音を聞いて妃伽が立ち上がる。入ってきたのは虎徹の親友である龍已だった。親しいだけにかなり高頻度で店に訪れる彼とは、妃伽も会話するくらいの仲になっていた。虎徹の親友で、得体の知れない強者の雰囲気を醸し出す彼が狩人をやっているということ以外は殆ど知らないが、悪い人ではないことを知っている。


 虎徹から酒の入ったグラスと枝豆、そして今日の龍已の気分であった魚料理の刺身を配膳した。やはり魚の気分であることを見抜くかと、虎徹といつも通りのやりとりをしているところを眺める。最初はあまりの人並み外れた気配や雰囲気に圧倒されていたが、話してみると意外と話しやすくて驚いたものだ。




「巌斎。黒い死神に弟子入りしてから修業を積んでいるが、どうだ」


「あー、ちゃんと続いてるぜ。今は体力作りに専念してっけど、休憩とか挟むし今のところ大丈夫だ。まあ、まだ肝心の体力はそこまでついた感じはしねーけど」


「そうか。最初は配膳しながら寝ていたお前が、疲れながらもこうしてバイトをしているところを見ると慣れてきたと感じるが。体力もついてきているのではないか?」


「あ、あん時は仕方ねーだろ!本気で疲れてたんだからよ!ま、まあでもぉ?アンタが体力ついたって思うならそうかもな。絶対強いもんな、アンタ」


「さてな」


「クスクス。手合わせもしたこと無いのに信頼されてるね、龍已は」


「何を根拠としているか知らないがな」


「もう……白々しいんだから」




 グラスを拭きながらジト目を向けてくる虎徹から目を逸らして酒を飲む龍已に、妃伽は体力がついたのではないかと言われて嬉しい気持ちが彼女の胸を温かくしていた。1番最初の走り込みをしたその日は、アルバイトの配膳中に眠りながらやっていたものだ。その時の客が龍已で、肩を叩かれて起こされなかったら何を仕出かすか分からなかった。


 あの時は流石に焦ったものだ。急いで洗面所に行って顔を冷水で洗った。眠気はほんの少しマシになったが、疲れた体には焼け石に水で、虎徹に上がって良いとまで言われてしまったことを覚えている。客に料理をぶちまける前に退散した方が良いと思い、素直に与えられた部屋に戻って寝転べば、秒で寝た。


 そんな恥ずかしい思い出を掘り返されて若干頬が赤くなる。龍已と虎徹の平和な会話に入り、緩い会話を楽しんだ。他の客が居ない今だけの時間。妃伽はこの時間を案外気に入っていた。そうこうしている内に時間は過ぎていき、客が殆ど来ない時間となって妃伽は虎徹に言われて先に就寝する。明日は今日よりも早く走ろうと決めながら。




「──────ここまで良く走り込みの修業を重ねた。約1ヶ月とはいえお前の体力は劇的に上がった。そこで、今日からまた違う修業を取り入れる」


「おっ。今度はどんなヤツやんだ?」




 新しいステップに進んだことにガッツポーズをしながら、何をするのか期待に胸を膨らませる。武器を使った修業をやってみたいと思うが、まだ早いと言われそうだ。黒い死神が何の修業を言い渡すのか待ち構えていると彼が口を開く。





 妃伽は短期間で次のステップへと進んだ。しかしそれは、修業の厳しさが増すということである。さて、彼女は彼から与えられる修業に耐えられるのだろうか。







 ──────────────────



 巌斎妃伽


 必死の走り込みで、たった1ヶ月にして次のステップへ進んだ。完璧な体力を手に入れた訳ではなく、次のステップへ進んでも動けるだろうという及第点の体力を得たから。


 勉強も苦手ながら行っており、黒い死神から与えられた植物図鑑は殆ど全部覚えた。今は中級編の植物を覚えている。他にもモンスターの名前や特徴なども覚えている途中。





 黒い死神


 妃伽の体力がつくのがかなり早いので、早々にステップアップする事にした。まだまだ及第点の体力だが、次の修業を行いながら同時進行で体力作りの修業もやらせるので問題ない。


 かなり目が良く、数km先の小さな的も見える。その視力を使って敵の位置や姿、弱点の部位を見つけ出し狙撃する。





 天切虎徹


 妃伽が頑張って黒い死神の修業に臨んでいるので、体に良いスタミナ料理を振る舞っている。ウェイターの仕事も頑張っているので、給料に色をつけている。


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