15話 初夏
「そなた、もしかして昼を食べていないな?」
僕から離れていった稲荷が何を言うのかと密かに聞き耳を立てていた僕は思わずずっこけそうになった。危ない危ない、授業中に突然ずっこけるやばい奴になりかけるところだった。
桜木さんも桜木さんだ。僕にクッキーを渡してくれたというのに自分は何も食べていなかったなんて。
「過度なダイエットなんかしていたら心配で常に思ってしまうじゃないか。だそうじゃよ」
稲荷は僕の思っていることを百八十度変えて桜木さんに話した。確かに心配はしたけれど常に思ってしまうとまでは言っていない。というか考えていない。
桜木さんは顔を真っ赤にしてプルプルしている。僕に知られたことが恥ずかしいのか稲荷に心の内を読まれるのが嫌なのか。
とりあえず今は授業中なので僕も助け舟を出すことができない。神相手に何か追い払えるものでもあれば手っ取り早いのだが生憎そんなものは持ち合わせてはいない。
「おい、桜木ー。なんか体調悪そうだけど大丈夫かー?」
丁度良く先生が声をかけた。タイミングはいいけれど場が良くない。
桜木さんからすると今は心臓バックバクだろう。人前に出ることはもちろん、人の目に触れることさえ避けてきたのだから今の彼女の精神状況的にはよろしくない。
「先生ー、僕が保健室まで連れていきますー」
「夏川か、サボりたいだけじゃないよな?」
「僕がそんな風に見えます?」
先生も時々職員室での僕と海人の会話を聞いているのだろう。少し冗談交じりではあるが行ってもいい、と僕は受け取ったので桜木さんを連れて廊下に出る。
「大丈夫、桜木さん?」
「ありがとね日向君、やっぱりまだ注目されるのは慣れないね……」
うなだれるように肩を落とす桜木さん。力なくフラフラする姿を見てやはり心配になってしまう。本当に体調が悪く見えるので保健室に行っても仮病で疑われることはないだろう。
階段を下りて保健室の扉を開けると、養護の先生がいて僕は桜木さんを預けた。授業担当の先生の勘違いとは言え、まさか保健室に連れていくことになるとは思ってもみなかった、と今更ながら思う。
それに保健室に連れて行くと言い出したのは僕自身なので何か罪悪感もある。あとで必ず埋め合わせをしよう。そう思って僕は教室へと戻る。
席に戻ると先生から様子はどうだと聞かれたが、寝てれば治る。と言っておいた。
「なんじゃ、あれしきのことで音を上げてしまったのか」
人それぞれなんだからバカにするな。誰にだって苦手なものや嫌なことはあるだろ。それは僕だって一緒だし稲荷にだって嫌なことはあるだろう。
まあ、今の僕にとって嫌なことと言えばこうして稲荷が授業の邪魔をしてくることなのだけれど。
「随分と酷いいいようじゃの……そこまで言うのならわしは他の教室でも覗いて来るわい」
最初からそうしてくれ。
稲荷がふよふよと壁をすり抜けて他のクラスに行くのを見て、ようやく僕は一息ついた。これで真面目に勉強ができる。
そう思った矢先に授業終了の鐘が鳴った。
休み時間に入るがショックのあまり固まって動けない。
「おい。日向ァ。昼からいいことばっかりらしいなァ」
昼休みに僕を血眼になって探していた友達が僕を取り囲むように机の周りに立っていた。それでも僕は稲荷にしてやられたことの方がショックで怒り心頭の
ここで気が付いて逃げればよかったのだが生憎僕は、どう稲荷に仕返しをしてやろうかに気が取られていて動けなかった。
次に意識がハッキリしたのは六限の授業中、名指しで指された時だった。それまでの間、暴徒たちによって気を失っていたらしい。
やはり僕のクラスメイトの前ではうかつに女子と会話すらできない。
「それで夏川君、私の授業中に白目剥きながら寝るくらいならこの問題位楽勝ってことよね?」
普段は優しいはずの英語科の佐藤先生がこめかみに血管が浮き出るくらい怒っている。というか僕が白目を剥いていたのか!?
本当にそうなら今まで僕が積み上げてきた好感度もろもろが全て崩れていくのではないか……?
「う、嘘よ。それに私が来た時から夏川君は気絶してたから」
僕が慌てふためく姿を見て、先生はひとしきり笑った後に事の経緯を教えてくれた。暴徒たちは考え事をしているのをいいことに、僕をボッコボコにしたという。それを止めてくれたのも先生だそうだ。
逆に気絶してもなおボッコボコにするクラスメイトとは何なんだろう。最早いじめなのではないかと思ってしまう。
おもむろにカズを見ると、
「跡が残らないギリギリだから」
と書いてある紙をこちらに見せていた。
主犯お前かい。高校からの一番の友達だと思っていたのに。周りを見渡すと数人が顔を背けた。よし、顔は覚えたぞ。
クラスに笑いが響き、ようやく普段の授業に戻った。佐藤先生は僕が気絶していたところも含め、軽く説明した後に授業を終えた。
その後、桜木さんも戻ってきた。
「さっきは心配かけてごめんね。実は今ダイエット中なの……」
僕から見ても桜木さんは痩せているし、特に太っているとも思えない。やはり女子というものは分からない。なぜそんなにダイエットをしたがるのだろう。
別に男子はとんでもなく太くない限り気にしないというのに。
「まあ、無理はしないようにね。元気なさそうな姿を見るほうが嫌だからさ」
あれ、おかしい。なぜ僕はこんな彼氏みたいなことを言っているのだろう。つい最近知り合ったばかりでこれは引かれてもいいレベルだと言い切ってから気づいた。
完全にやらかしたな、と思って桜木さんを見るとまた顔を真っ赤にして俯いている。今度は耳まで真っ赤でゆでダコの様だ。
「そんなこと言わないでよ……恥ずかしかっさ……」
あ、出た。桜木さんの長崎弁。
これが出たということは照れているのか……?
「こんなときば、どがんすればよかっちゃん……」
意味は分からないが間違いなく照れている。そして桜木さんは僕に近付きーー
「日向ー、忘れてないでしょうねー?」
突然名前を呼ばれて振り向く。声のする方にはアキ姉が立っていた。教室のドアに寄りかかるようにして腕を組んでいる。
なんだろう、わざとらしく冬美を真似している気もするが。
「もう時間なんだから早く準備しないさい」
忘れていた。今日は放課後に予算会議に出席するのだった。
「ごめんね桜木さん、もう行かなくちゃ」
「う、うん。頑張ってね」
僕は桜木さんに別れを告げると急いで荷物をまとめ、アキ姉とともに教室を出る。やはり今度、桜木さんにちゃんと埋め合わせをしよう。
そう思って僕は走った。
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