27,ネル
ファイガが去って暫くすると、塔に夜が訪れた。外の景色は解らないまでも棺桶内部の光量が自然と抑えられる。
やがて外の暗闇に紛れるようにして、やってきたのはレフだった。殆どドローンの放つ赤色光だけになった室内に、彼の身に付けている純白の白衣が浮かび上がる。
いつもならレフはそのまま部屋の隅でパソコンをカタカタやり出すのだが、今日は違った。背中に黒いリュックサックを背負っている。
それを部屋の隅に下ろすと、レフは背筋を伸ばし、肩の体操をし始めた。
「今からネル隊長来るから」
サクラが目の端に彼を置いていると、ボソリ呟く。
「え……?」
ネルが来ると言われて、サクラの脳裏に不安が過った。
またイジメられるのか、と思ったのである。
「調律が必要なんだ。ちょうど仕事の合間で塔に来てるっていうからさ」
そんなサクラの心情を見越したのか、レフが続けて言った。
調律?
サクラが疑問に思っている内にネルが来た。いつものボディスーツにオーバーコート姿だ。
「レフ、頼む」
ネルはコートを脱ぐと、サクラには一瞥もくれずに言った。「うん」レフは彼女が脱いだコートを受け取り、立ったまま折りたたむ。
「ああサクラ。ちょっと仕事頼まれてくれるかな」
やがてレフがポツリ言った。彼がサクラを見据えるのは久しぶりだ。その名を呼ぶのも。
「……え? あっ、はい! もちろんです! 私、なんでもやりますッ!!」
仲良くなれるチャンスだ。
そう思い、サクラは前のめりに頼み事の内容を聞こうとする。
「じゃあそこに立ってて」
言ってレフが指差したのは壁だった。
言われた通りサクラは壁に向かって立つ。背筋をピシッと伸ばし、気を付けを命じられた兵士のように直立不動で立ち続ける。
だが、それきりなんの指示もない。
筋力のないサクラは早速疲れてきた。
「……あの、私の仕事って……?」
「そこに居るだけでいいよ。二人きりよりも集中できる」
いや、二人きりよりって……。
これ私立ってる意味なくない……?
思ってサクラが振り向くと、
って、うぇええ!?!?
「ネッ、ネネネネルさん……!? どうして、裸……!!」
気が付けばネルは上半身裸だった。ボディスーツを腰のくびれ部分まで下ろしている。
「……やっぱり邪魔かな。ちょっとしゃべらないでくれるかい?」
「しゅっ、すみましぇん!?」
「うん。いちおう言っておくけど、これヘンな事じゃないから。これから彼女のメンテナンスなんだ」
そう言って、リュックサックの中から、街中の公共施設などによく設置されているAEDのような器具を取り出した。
アルファベットで『
パッドをネルの胸元、ちょうど心臓がある場所に張りつけ、その反対、背骨にある端子口に接続端子を差し込んだ。もう一つある端子をノートパソコンに繋げて、カタカタ打ち出す。
「ネル。セレマのアップデートプログラムが完成したんだ。デバックも済んでるから、今から流すね」
セレマのアップデートプログラム……?
あっそうか。レフさん研究開発もやってるって言ってたもんな。
「たぶん今まで以上に辛くなるけど、我慢して」
「ああ。頼む」
まるで何かに挑むような顔で説明するレフに対し、ネルは涼しい顔で同意した。直後に電極が跳ねる。ネルの銀真珠の髪が一瞬逆立ち、まるで水の中のようにゆっくりと元に戻る。
「……最近は、ゲームは作っているのか?」
ネルがレフに話しかける。寡黙なネルにしては珍しい。
「うん。仕事が暇なときにね。
「そうか。完成したらぜひやらせてくれ」
「勿論」
二人はその後も暫く他愛のない会話を続けた。
やがて調律が終わると、ネルがコートに袖を通し部屋を後にした。
一仕事終えたレフもその場に立ち上がると、大きく背伸びをする。
「いつもプログラミングされているのは、ひょっとしてネルさんのものなんですか?」
サクラはさっそく話しかけた。
ファメラ曰く『解らない事を聞け』である。レフの『誰かの役に立ててる感』を刺激するのだ。
「そうだね。セレマの調整プログラムを組んでるんだ。人工天使にはまだ解決してない問題が多くてね。なんとかぼくが生きてるうちに、一つでも直しておきたくって」
「どんなのがあるんですか?」
「例えば……移植細胞の球体ナノマシン投与による副作用問題かな」
レフが眼鏡を中指で押し上げ言った。
「副作用……?」
「そう。ネル隊長が人工神の細胞を移植したって話は前にしたよね? でも本来それはできないんだ。適性の無い人間が人工神の細胞を移植されると、免疫機能が暴走して無限に細胞を傷つけてしまう。そして細胞の方でも無限に自己再生を繰り返して、結果ぶよぶよの肉の塊みたいになってしまうんだ」
サクラの脳裏に、先日の天使病患者が思い浮かんだ。色々思い出してしまって一瞬吐きそうになるのを堪える。
それって、ファメラが解説していた状態と殆ど同じじゃない……!
ってことは、ネルさんの体ってあの女の子と一緒なんだ……!
「だけどネルさんがそうならないのは、特別な心臓と血液中に流体金属でできたナノマシンを流しているからなんだ。それが全身を駆け巡って免疫機能の抑制と自己再生速度の調整をしてる。だけどこのナノマシンが問題でね。機能自体は問題ないんだけど、常に全身に行き渡ってないといけないから凄まじい血圧で押し流されているんだ。彼女の血圧は日中の平均値でも下が300ミリ水銀を越えてる」
「さ、300ミリ水銀……それってすごい高血圧ってことですか?」
自分の血圧すら把握してないサクラが、申し訳なさそうな顔で尋ねた。
たしか普通は下が80で上が130とか、そんなんだった気がする。
「うん。もし高血圧を競うオリンピックがあったら確実に入賞できるだろうね。椅子から立ち上がっただけで脳卒中起こしそうだけど。
しかも彼女の場合、流れてるものが液体じゃなくて金属なんだ。大量の土砂のような金属片が体中の血管を濁流のように流れて削り流している様を想像して。もちろん血管の集まる関節部なんかどこもズタズタだし、特に毛細血管が集中してる手足の先や脳血管はすぐに切れる。彼女は日に五十回は脳出血を起こしているよ。日々それの繰り返しさ」
サクラには最早想像もつかなかった。
ドリルで穴を空けられるなんてレベルじゃない。私が絶望したこの内臓世界以上の地獄にネルさんは住んでるんだ。それも自分自身の意志で。
「どうしてネルさんは、そんな苦しみに耐えて……」
「ぼくたちのため……って言ったらネル隊長は怒るだろうね。きっと自分自身のためだって答えるはずだ。自分が犯した罪の償いをする。そのためだけに彼女は今を生きてる」
「犯した罪の……償い?」
「そうさ。世界の崩壊を止められなかったことを、彼女は今でも悔やんでいるんだ。『人工神計画』に携わった一人としてね。
そしてそれは彼女だけじゃない。ぼくたちALOFの全職員も一緒だ。ぼくらはあの日の償いのためにここに生きている」
「そんなのって……!」
サクラは溜まらなかった。
自分の身を犠牲にしてまで過去に犯した罪を償うというのは、一見確かに立派な態度に思える。だけどそれは酷いことだ。絶対におかしい。
「どうしてみなさんそんな過去なんかに囚われてるんでしょう……?」
サクラは涙ながらに尋ねた。
「おかしいですよ……生きてるのは今なのに……もっとこう、他に幸せとかないんですか……? こんな世界ですけど、みんなで力を合わせればなんとか楽しく生きていけそうじゃないですか」
サクラの全身全霊の気持ちだった。
そう。
もしもこれが以前の私だったら、とてもじゃないけどこんなことは考えられなかった。ただレフさんの話に怯えて、自分はどうして不幸なんだって泣いて終わったはずだ。
だけど、今の私にはファメラがいる。
この所で色んな悲しい出来事が押し寄せてきたけれど、それでも確かに幸せはあった。
私はファメラのおかげで救われた。
だから同じように私が……今度はみんなを救うんだ……!
「……幸せ、ね」
サクラがそんな事を考えていると、レフがポツリと呟いた。
彼はサクラなど見ていない。代わりに部屋の隅に立ち、どこか遠くを見下ろしている。その視線の先には地階の監視所があった。その窓越しに見えるのは先ほど調律を済ませて早速監視任務に戻ったネルの姿。彼女はドローンのように休まない。
階下で働くその姿をたっぷり目に納めて、レフはサクラに向き直った。
「キミはいつも幸せそうでいいね」
そして一言。サクラの泣き顔を見て言った。
その突き放すような言葉に、サクラは強いショックを受けた。
自分はこんなにもレフの事を考えているのに、何も伝わらない。そのことで絶望してしまったのである。最早何を話せばいいのかも解らない。
「いや、ずいぶん話が過ぎたよ。どうもぼくは最近話したがりでいけない。これじゃみんなに示しが付かないよ」
結局それ以上はレフと会話する事が叶わずに、この夜は終わった。
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